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第七章「fall down」3

 次の日、用事があるからと朝から寮室を発った静江さん。


 私は夕方になった頃、何とか身体を起こして喫茶さきがけへと向かった。


 冷たい風が吹き、身体が冷えてしまうのを抑えようと半分顔を隠すようにマフラーを巻き、クリスマスムードに飾り付けが施される商店街の中を歩いて行く。

 

 革製のブーツで踏み締める地面は冷たく、水に濡れると一層滑りやすくなるので、私はリードを強く握り慎重に歩いた。

 これ以上、怪我はしたくない。ギブスで固定しているせいで左手が上手く使えないため、壁に手を掛けることも出来ないので、慎重を期して歩いた。


 何とか喫茶さきがけまで辿り着き、扉を開くと暖かい空気と香ばしいコーヒーの香りが漂ってくる。我が家に帰って来たような心地で私はいつもの席に向かって歩いた。

 

 今日は店内BGMにショパンを掛けてくれている。それだけのことで、私は傷ついた心が和らいでいった。


「郁恵さん……!! どうしたの……その怪我」


 私がテーブルに着いたところで異変に気付いた華鈴さんが慌てて駆けつけてくれる。

 椅子を引いて、自然な動作で手を差し伸べて座らせてくれるが、負傷した私の左腕が気になってしまい居ても立っても居られないようだった。


「キャンパスでコケてしまって……運悪く階段から落ちて骨を折ってしまいました」


「そんなぁ……本当に突き飛ばされたとか、そういうことはなかったの?」


 私の言葉足らずな説明に心配そうに早口になる華鈴さん。

 ミスコンで有名になってしまった私のことを気遣ってくれているだろう。

 確かに悪戯半分で視覚障がい者を突き飛ばす危ない行為に及ぶ人は一定数いる。大体が明確な悪意などなく八つ当たりのようなものだが、私も少なからず駅の構内などで経験があるだけに、華鈴さんが私の怪我を見て確認を取るのは真っ当なことだった。


「ないですよ、心配し過ぎです。

 こんな時に怪我をしてしまったのは残念ですけど、本当に私の不注意ですから……」


 心配をかけ過ぎないよう、出来るだけ明るい声色で説明する私。

 マフラーを椅子に掛けて、右側に置かれた水の入ったグラスを手に持ち、いつもの席にいることを確かめて心を落ち着かせた。


「それでも心配よ。せっかくたくさん練習をしてきたのに」


「はい、本当にすみません。チラシまで作って宣伝してくれていたのに。

 華鈴さんとのセッション、楽しみにしていましたけど、この腕なので演奏は出来ません。それを伝えたくてここまで来ました」


 もう何カ月も前から少しずつクリスマス演奏会に向けて準備は着実に進めてきた。

 しかし、この左腕の状態ではピアノを満足に演奏できるはずがない。

 何度も華鈴さんのフルートと合わせて楽しい本番の演奏を心待ちにしていたが、それはもう叶わない願いとなった。


「私も残念よ……来年もあるから落ち込まずにゆっくり治していきましょう。往人君にも伝えておくわ。注文は何にしましょう?」


 心を痛めたまま、何とか元気づけようと華鈴さんはしてくれている。

 そのことが私は痛いくらいによく分かった。


「あぁ……それじゃあ、クリームシチューをください。

 一人で食べられますから」


 華鈴さんの明るさと往人さんの優しさにはいつも助けられている。だからこの場所は私にとって暖かくて心地いいのだ。そのことを感じながら、私はクリームシチューを注文した。


 ショパンのメロディーに耳をすませながら注文が届くのを待つ。

 夕食時の店内は閉店時間が近いこともあってまばらで穏やかな時間だった。


「お待たせしました。ご注文のクリームシチューをお持ちしました。バゲットと一緒にお召し上がりください」


「ありがとう、往人さん……」


 こういう寂しい時には聞きたくなる往人さんの声だ。私を心配して自ら注文を持ってきてくれた。いつもみたいに華鈴さんから一言二言吹っ掛けられているのかもしれないけど、丁寧な言葉でお店に来た私を歓迎してくれている。


 じっくり煮込んだ上品で豊かな香りとチーズの香りが目の前に置かれたお皿から湯気と共に漂ってくる。寒い季節には実にちょうどいい一皿だ。


「大丈夫なのか?」

「うん、全治三か月って言われちゃった、でもすぐに元気になるよ。ちょっと苦い思い出が増えちゃったけど」

「三か月はすぐじゃねぇよ。はぁ……これを食べて元気出せよ」


 ギブスと包帯を着けた左腕をさすりながら答えると、こそばゆい感覚がした。

 私の言葉を聞いて、静かに往人さんが厨房へと消えていく。

 まだ、傍に往人さんがいるような感覚が残ったままスプーンで掬い口の中にクリームシチューを含んだ。


 丁寧に煮込まれた柔らかい具材とチーズのまろやかさなコクと旨味が溶け出したシチューが冷えた身体に染み渡っていく。

 バケットサイズに切り取られたフランスパンも片手で食べやすく、シチューに付けて食べるとさらに美味しい味わいが口いっぱいに広がっていった。


 往人さんの……暖かい気持ちを料理という形で味わい、優しく溶けるように

心に負った瘡蓋が剝がれていく。

 美味しいシチューの味わいは往人さんが大切だと言っていたお母さんの味わいのようにも感じた。

 暖かな家族の触れ合い……そんな想像まで始めてしまった私は必死に涙を堪えそうと我慢をしていたのに、手の震えでスプーンが上手に使えなくなった。


「大丈夫だよ……大丈夫……きっといつか分かり合えるから。

 そんなに心配しないで……」


 自分の心の内に言い聞かせるように小さく声を漏らす。


”本当に郁恵はハッピーエンドじゃないと納得できないんだから”


 唐突に頭の中で声が響いた。病室で聞いた懐かしい真美の声。

 今も私の深淵奥深くで息づく魂の声。悲しい顔をしていると親友の真美は心配になって声を掛けてくれる。

 

 だから……私は真美を心配させないよう、無理やり笑顔を浮かべた。


「こんなに美味しいシチュー、涙で汚したらダメだよね……真美」


 遠い空の向こうに届くかは分からないが真美に伝えると、私は瞳に滲んでくる涙を拭い、クリームシチューをまた一口食べた。


 完食するまでの間、往人さんが心配そうにじっと私のことを覗いてるような気がした。


 楽しみにしていたクリスマス演奏会は中止になり、ロマンチックな甘い展開のないまま、寮室で恵美ちゃんや静江さんとクリスマスを過ごすことになった。


 華鈴さんが用意してくれた少しスカートが短くて恥ずかしいクリスマスサンタ衣装の出番はきっと来年になることだろう……。


 その頃にはまた元気で迎えられますように、私は来年こそは頑張って練習してクリスマス演奏会をしようと胸に誓った。

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