最終章前編「The Blessing」6
奈美さんが持ってきてくれた昼食を食べ、少し経った頃、華鈴さんと恵美ちゃん、それに志保さんも来てくれて、私のハンドバックを持ってきてくれた。
動物病院の忘れ物として届けられていたそのハンドバックには貴重品だけでなく往人さんへの誕生日プレゼント用に編んだニット帽もちゃんと入っていた。
大勢の前で渡す勇気はないが、今日の内にちゃんと渡そうと私は胸に刻み込んだ。
華鈴さんは私がケーキを無駄にしてしまったのにも関わらず、四号サイズの立派なホールケーキを持ってきてくれた。
苺の載ったショートケーキは私の大好物で、私は改めて志保さんからフェロッソを容体を聞き、少しだけケーキも食べた。
交通事故に遭い、大怪我を負ってしまったフェロッソだが、何とか病院で治療を受けて目を覚ましたようで、前脚が不自由になって自分で歩けない状態のようだ。
リハビリをしても盲導犬として仕事復帰できるかは微妙な状態と報告を受け、申し訳ない気持ちに変わりはなかった。
盲導犬が交通事故に遭うケース自体、前例がないことで、こういう事態を招いてしまったのは、利用者である私に責任がある。反省しなければならなかった。
「動物好きの志保さんが見つけてくれて助かりました。
私一人だったら、もっと悲しい目にフェロッソを遭わせてしまったと思います。本当にありがとうございました」
「郁恵さん……あれは轢き逃げをした相手が悪いのだから、そんなに畏まらなくても平気よ。
私は当然のことをしたまでだから。
妹だって同じことをしたはず。動物も人間も同じ。
怪我をしていたら放ってはおけないわ。
それに、こうして郁恵さんが無事でいてくれて私は嬉しいわ」
どこまでも優しく模範的な振る舞いをする志保さんの言葉。
静江さんと出会えたこともそうだが、志保さんに窮地を救ってもらえたことも本当にありがたいことだった。
「気を付けて渡らなかった私にも非があります。
志保さんのような立派な人になれるよう、私も頑張らないと」
静江さんもそうだったが、姉妹揃って立派な行動力を持っていて学ばなければならないと思った。
目の前に助けられる命があるなら、躊躇ってはならない。
救うためには冷静な対応が大切になる、次は失敗しないために胸に刻んでおかなければ。
ずっと心配してくれた恵美ちゃんからは健康祈願のお守りをもらった。
代わりに私は食べられない分のケーキを恵美ちゃんに譲った。
当然、甘いものに目がない恵美ちゃんは大喜びで、その歓喜に沸く元気な姿な反応を見ていると、私も励まされたのだった。
しばらくして三人が帰り、再び静かになった病室。
まだケーキは残っているが、それは往人さんに家で食べてもらうことにした。
もうすぐ面会時間が終わってしまう。
私は迷っていたが、ずっと考えていたことを今日の内に思い切って話すことにした。
「往人さん……帰る前に聞いてもらってもいいですか?」
往人さんが訝しげに反応をする。
二人きりになって、甘いシチュエーションになってもおかしくないのに、つい真剣な表情をしてしまっているのが目に入ったのだろう。
「今日はゆっくり休んだ方がいいぞ」
もっともな言葉を往人さんは口にした。
でも、明日まで胸に留めている勇気は今の私にはなかった。
「今日でないとダメなんです……私の心の問題ですから」
「そっか、支えになるって言ったからな。郁恵の気持ちは全部受け止めるよ」
「ありがとう……往人さん」
どれだけ仲を深めても、話しをするのに勇気が必要なことはある。
そのことを往人さんは分かってくれた。
だから、もう自分の気持ちを隠すは止めようと、心に誓った。
「では聞いてください。これから私はオカルトめいた話をします。お医者さんの言葉を否定するつもりもないので信じなくても構いません、でも往人さんには私の身に起こったことを話しておきたいんです」
そう前置きをして、面倒くさい女だと思われてしまうかもしれないが、私は一呼吸おいて話しを進めた。
「交通事故に遭った時、フェロッソが死んでしまうかもしれないと私は思いました。
その恐怖心に囚われた私は、苦しみのあまり眠っていた真美を目覚めさせてしまいました。
不安になった私を救い出すために生まれた幻影、それが普段は私の心の奥深く、深層にいる真美なんです。
そうして真美の霊魂に引きずられたまま、意識を乗っ取られて私は海に身を投げてしまって……。
往人さんの声が聞こえた時、私の背中を押してくれたのは往人さんのお母様、深愛さんでした。
六年前を繰り返すように、深愛さんはまた真美の呪縛から救ってくれた。そのおかげで私はまた往人さんに会うことが出来たんです。
お医者さんの言葉を信じるか、私の感じたことを信じるか、それは往人さんにお任せします。
ただ知っておいて欲しいのは、私はこういう人間であるということです。
医学的な事を言われても、それは自分を説得させるための道具でしかありません。
お薬は身体を楽にしてくれますが、それ以上でも以下でもありません。
私の心はいつも変わらずここにあります。
ここに真美のことも深愛さんのことも感じるんです。
そのことを、偽りにするつもりはありません。
私が話したかったことは、これで終わりです」
胸を手を置きながら、私は独白を終えた。
自分でもどこまでが妄想かどうかなんて分からない。
これで痛い女だと思われても仕方ない。
ただ私は自分が体験したことを往人さんに話した。
私はハンドバックから忘れないようにニット帽を取り出し、”誕生日プレゼントだよ”と伝えて往人さんに渡した。
”ありがとう”と嬉しそうに声を上げて頭を撫でてくれる往人さん。
肩の荷が下りたように、違和感が溶けて行った私は往人さんとキスをした。
麻薬のように甘く蕩けるような感触で満たされる、一カ月ぶりの口づけ。
傷ついた心を溶かすための魔法。
こうしてまた私は再び往人さんに背中のネジを回してもらった。
往人さんがいるからまた明日から歩いて行ける。
立ち止まってしまいそうな弱い自分を奮い立たせることができる。
だからもう、フェロッソのお世話になるのをやめにしようと、私は初めて考えるようになった。