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最終章前編「The Blessing」4

 病院内に入ると清潔を極める独特の空気感が漂っていた。

 十階のホスピス病棟までぎっしり病院設備が整った立派な病院。

 各フロアを回り、面会受付を済ませて郁恵のいる病室を目指して歩くと自然と鼓動が脈打ち、緊張している自分がいた。


「あっ…待ちたまえ、君」


 膝丈まである白衣を着た医師とすれ違った直後、呼び止められる。

 振り返るとそこには四十代くらいの眼鏡を掛けた医師がこちらを真っすぐに見ていた。


「はい、何でしょうか?」


 遮光眼鏡に赤髪をした俺を不審者と見間違えたのかと思い一度身構えるが、医師が事情を話し始めるとそんなことはなかった。


「君は今日から入院することになった前田郁恵さんの面会に来たのでしょう?」


「そうです」


 つい重い責務を背負って仕事をしている医師を目の前にすると身体が強張るが、俺は冷静に答えた。


「なら安心するといい、先程彼女は目を覚ました。

 看護師と会話も出来ていて、容体は落ち着いているよ。

 だがしかし、すぐに会いに行きたいだろうが少し我慢してくれないか?

 君には彼女の身に起こっていることを話しておきたい」


 ネックストラップに構内PHSをぶら下げた医師は迷う様子もなく俺に向かってそう言い放った。

 

「それなら従いますが……よく俺が彼女の面会に来たと分かりましたね」


 医者が言うのなら間違いはないだろうが、話しが早すぎるのを見て俺は流されないように確認を取ろうと口を挟んだ。

 医師は疑いの目で見られていることに気付き、軽く口元を緩ませ、省略していた説明を始めた。


「家族からも事情を伺っていますので。

 今は君と二人で暮らしていることは既に存じ上げているよ。

 その上で、家族から君には詳しい病状を話しておいて欲しいという要望を受けた。

 相当に君は家族側からも信頼されていると判断して、現時点で分かっていることを話すつもりです。

 以前に入院していた当時の症状についても含めてね。

 家族から聞いた君の特徴とも一致している。疑う余地はないというわけだ」


 家族というのはもちろん、郁恵の父親、前田吾郎のことに間違いないだろう。

 試されているのかもしれないが、オーストラリアにいるあの人は俺に任せるのが適当だと考えたのだろう。

 郁恵と早く面会したい気持ちはあるが、今の容体を知ってから郁恵と顔を合わせた方が、不安も拭い去ることができて、妙な勘繰りをしなくて済むだろうと考え、俺は医師の言葉に頷いた。


「賢明だよ、さぁ、付いて来てくれるかな。そう長く時間は取らせないよ」


 そうして医師の言葉に導かれ、俺は同じ階にある小さな部屋に案内された。

 案内されるままにパイプ椅子に座ると医師は密室の中で詳しい病状について聞かせてくれた。

 よくそんなに小難しい話しをペラペラと話せるなと思いながら俺は最後まで聞いた。



 郁恵の担当医を務めるこの精神科医の医師の話しによると、以前の入院当時の郁恵は幻聴や妄想、倦怠感などの症状があることから”統合失調症とうごうしっちょうしょう”であると診断されていたらしい。

 現在の症状もそれに近いものがあり、再発している可能性を考慮して検査入院に至ったということだ。


 統合失調症は神経伝達物質の一つ、ドーパミンという物質が過剰に放出されて、精神的不安定な状態になったり、幻聴や幻覚を発症することがある精神疾患だ。


 思春期から四十歳くらいまでに発病することが多く、その割合はおよそ百人に一人といわれており、決して稀な病気ではない。

 主に精神系の薬による治療や精神科リハビリテーションなどの治療によって回復すると言われていて、社会復帰まで長期間に及ぶこともある。


 発症の原因については明確には分からないが、過度のストレスが長期間にわたり、続いたことによる影響であると医師は語った。


 海に投身するほどの錯乱状態をどう解釈すればいいのか理解に苦しむが、フェロッソが事故に遭った精神的ショックによる影響だと予測を立てることは出来た。


 しばらくは点滴や錠剤による抗精神病薬を使いながらの検査入院が必要で、担当医師がいない年末年始の休診期間を挟むことから退院は来年にずれ込む見通しだそうだ。


 以前に入院していた頃に比べれば、今の症状は軽傷であることから、退院後もしばらくは脳内のドーパミン神経の活動を抑える抗精神病薬を服薬しながら様子を見ることで、大事には至らないと判断された。


 危機一髪、海に沈みかけていた郁恵をあの冷たい真冬の海面から救い出した俺としては、同じようなことが起きないか心配だ。俺からも事情を説明したところ、動じる様子なく医師は俺の話しにただ頷き、同じような症状を引き起こさないために、抗精神病薬の必要性について説明を繰り返した。



「一人暮らしをしていたなら、オーストラリアで暮らす父親と同居することを勧めるところだが、同居している君が彼女の様子を見てくれるのなら、その方が学業を優先したい彼女のためにもなるだろう。

 処方した薬が合わないようならいつでも相談に応じます。私からの話しは以上だ、今の時点で聞いておきたいことがあれば伺います」

 

 

 医師の話しは終わり、俺も特にこれ以上聞きたいこともなく、早く郁恵のところに向かうことにした。


「問題ありません、ありがとうございました」


 俺は医師と同時に立ちあがり、お辞儀をして部屋を出た。

 冷静に振舞う医師は何事もなかったかのように看護師と話し、次の回診へと向かった。


 俺は大きな溜息を付き、気持ちを整理した。

 改めて俺は郁恵について知らないことが数多くあることに気付かされた。


 長期間に渡り入院していたことは知っていたが、詳しいことは何も知らないまま今日まで来た。郁恵にも聞かないようにしていた。


 俺が見てきた限りでは病院に世話になることはほとんどなく、健康に暮らしていた郁恵。病院から処方された薬を服薬する姿も見かけたことがない。

 治療が終わり、健康になったと思いたいところだが、今回のことを考えると今まで通りにとは行かないだろう。

 

 今思えば、亡くなった真美の声が時折聞こえて来ると話していたのも、統合失調症の症状の一つである幻聴に当たるのかもしれないと思えた。 


 随分、緊張していたのか疲れがどっと押し寄せる中、荷物を持ち、俺は郁恵の待つ病室へと向かった。

 入院することになった今日だけかもしれないが、扉の前まで来ると病室は個室になっていた。

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