第十六章「ホワイトテレパス」6
「今日から一緒に暮らしていくんだねっ!」
「そうだよ、盲導犬は郁恵の目になってくれるパートナーなんだから。
郁恵がしっかり面倒を見るんだ、出来るね?」
「うん、大丈夫だよお父さん。私、もう子どもじゃないんだから」
父と二人きりの生活に、新しい家族が家にやって来た日。
何度も繰り返し取り組んだ合同訓練の日々が終わり、暖かい日差しを受けながらようやく家にフェロッソを迎えられた、喜びでいっぱいだったあの頃。
オーストラリアでの暮らしが一年経っても英語がまだ上手じゃなくて、盲導犬に指示を与える時も英語だったら一生懸命に勉強した。
あれから一体、どれだけの月日が流れたことだろう……。
どれだけ季節が過ぎ去り、沢山の思い出を積み重ねてきたことだろう……。
病院暮らしが長くて、なかなか外に出る勇気の出なかった私。
頼れるものなんて何一つなくて、真っ暗な世界で怖がってばかりいた私。
ハーネスを着けた盲導犬のフェロッソがいなかったら、こんなに自信を持って外の世界を歩けなかった。
フェロッソは私に勇気と笑顔をくれた。
そばにいてくれる安心感をくれた。
外の世界を安全な場所に変えてくれた。
いついかなる時も一緒にいてくれて、怖がりな私に寄り添ってくれた。
何よりも一番大切だった。
一緒にいられる時間をいつも感謝してきた。
なくてはならない存在だった。
盲導犬は目が不自由だからといって、誰にでも与えられるわけじゃない。自分が恵まれていることを自覚していた。
今の若いうちに、外の世界を安心して歩けるようにと父が私のことを想って何度も頼み込んでくれた、一緒に訓練に付き添ってくれた。
日本に帰って来て寮暮らしを始めてからも、フェロッソには沢山我慢をさせて、沢山迷惑を掛けてきた。
それをちゃんと、自覚できていたはずなのに……何て私は恩知らずなのだろう。
どうして、守ってあげられなかったのだろう……。
どうして、自分のことばかりでフェロッソのことを一番に考えてあげられなかったのだろう……。
傷つけてしまった後で、後悔ばかりが私の頭の中で駆け巡り、辛い現実の中、押し寄せて来る。
ただ、寂しくて苦しくて、悲しくて、夢でもいいから元気になった姿に戻ってきて欲しくて、抱き心地の良いフェロッソの大きな身体が恋しかった。
*
車内でした会話はよく覚えていない。
スマートフォンを事故現場に落としてきてしまったことは話した気がする。
でも、取りに帰る猶予なんてなくて……私はただフェロッソに元気になって帰って来て欲しいだけで……気付けば動物病院の待合室に座っていた。
手には志保さんが渡してくれた温かい緑茶の入ったアルミ缶がある。
でも、とても落ち着けるような状況ではなかった。
ずっと私の為に寄り添ってきてくれたフェロッソが命の危機に瀕している。
どうしてフェロッソがこんな目に遭わなければならないのか、私にはまるで分からなかった。
「私がちゃんと見ていなかったからこんなことに……どうしたらいいの……往人さん」
千切れた手綱を両手で握りしめて強く掴むが、辛く苦しい感情だけが膨れ上がっていく。
なぜ私が無事で、フェロッソが苦しんでいるのか。
盲導犬を一頭、仕事ができるまでに育成するのにいくら費用が掛かるか、知らないわけではない。
どれだけ大きな期待を込めて、育て上げられてきたか、その価値を忘れたことはない。
なのに、どうしてこんなに不甲斐ない私なんかにフェロッソはずっと傍にいてくれたのか。
頭痛がするほど懺悔とばかりに後悔が頭の中を支配していく。
周りの雑音も気にならなくなるほどに、身体は重たくなり心は沈んでいく。
何を私はここで座り込んでいるのか。
無事を祈るばかりで何も出来ない、何もしてあげられない。
無力感に苛まれ、ただ悲しい気持ちだけが増幅されてしまう。
凍えそうな心細さで身体から力が抜けていき、気が狂いそうになる。
きっと、こんな頼りない私の下にフェロッソが帰って来ることはないだろう。
そう、不吉なことを考えた瞬間、一気に脱力していき意識が遮断された。
あぁ……心を溶かす深い海に沈んでいく、そんな感覚を意識がなくなる寸前に感じた。