第十六章「ホワイトテレパス」2
――12月25日
次の日の朝、一緒にベッドで添い寝をしていたペンギンのぬいぐるみをギュッと抱き締めた体勢のまま目を覚ました。
「疲れてたから熟睡できたのかな……でも、涎が垂れてる……」
プレッシャーを感じていた大きなホールでのクリスマス演奏会が無事に終わり、その解放感からなのか随分と寝相が悪かったらしい……。
寝ている間に往人さんを抱き締めていたこともあるため(ギュッと力を込めて締め付けていたが正確かもしれない)、ちょっと反省をしつつ手探りでスマートフォンを探す。
布団の中で包まっているのを無事に見つけて、メッセージアプリに通知があり、往人さんからの連絡が届いていることに気付く。
フランスにあるシャルル・ド・ゴール国際空港に到着して無事に搭乗手続きを済ませたからもうすぐ会えるという連絡だった。
パリ市外にある国際空港から直通便に乗れば十四時間前後で関西国際空港に到着できると往人さんは話していた。
直通便以外だともっと時間がかかるが、直通便でも半日以上掛かるのは、それだけ離れたところに往人さんが今いる証だった。
長い間、会えるのを楽しみにしていた私は、今晩に帰って来てくれる往人さんの無事を祈った。
「そういえば、飛行機に乗ると機内の気圧の変化のせいで耳が痛くなっちゃうんだよね……。往人さん大丈夫かな……」
往人さんは私よりも年上で以前にもフランスに行ったことがあると聞いているから、経験豊富なのは知っているけどちょっと心配だ。
私は身体を起こして洗面所で顔を洗うと、何となくテレビの電源を入れた。
そうしてコーンフレークに冷蔵庫から取り出した牛乳を注ぎ簡易的な朝食にすることにした。
朝食が終わり、フェロッソが食べたドッグフードのお皿を片付ける。
今日も元気いっぱいのフェロッソをギュッと抱き締める。
まだ、毛布の中にいるような微睡を覚えて身体を離す。
危うく眠りに落ちるところだった……。
大型犬は一緒にマンションで暮らすには敷居が高いが、盲導犬であるフェロッソは私に大きな安心感をもたらしてくれる。
だから……欠かすことの出来ない家族であり、パートナーであり続けている。
「今日も頑張って行こうか、フェロッソ」
夜の間にすっかり雪が降り積もった今日はホワイトクリスマス。
マンションのベランダの手すりにも白い結晶が出来ていて、小さな雪玉を作ることが出来る程に外は白い大地に染まっている。
そんな日に、喫茶さきがけで私は去年と同じ一日を繰り返す。
往人さんがきっと帰って来ることを願って。
それが私が望んだ大切な行事だ。
こんな寒い日に、いっぱい我慢してきた私のことを抱き締めてくれたならどんなに幸せなことだろう……。
想像するだけで胸がいっぱいになり、愛おしい感情が熱を持って私の心を欲求で焦がす。
今、往人さんは飛行機の中でどうしているのだろう……。
私と今晩会うことを楽しみにしてくれているだろうか。
一年前の今日、私は勇気を振り絞って往人さんに告白して交際を始めた。
その記念日の日を幸せに彩るために、私は喫茶さきがけへと向かった。
喫茶さきがけに着くと去年同様にクリスマスサンタの衣装に着替え、ケーキの販売を手伝う。
すっかり私のことを覚えてくれている常連さん達にケーキの入ったビニール袋を手渡していると、自然な笑顔が零れている私がいた。
往人さんがいないとダメな自分。
往人さんがいなくても大丈夫な自分。
それが、両方自分の中で共存しているような妙な心境だった。
二年目ということもあって、息ピッタリの演奏を披露して華鈴さんとのクリスマス演奏会は幕を閉じた。
多くの経験をさせてもらったピアノ演奏もこれで年度納め。
保育士になるために習い始めたピアノだったが、私の人生をより豊かなものにしてくれた。本当にここまで続けてきて良かったと心から思える。
立食パーティーに移り、私はグランドピアノに蓋をして、いつもの自分の席に戻ろうとすると、知らない人の声で話しかけられた。
「私は桜井海人という名の者だ。前田郁恵さん、素晴らしい演奏だったよ」
「えっ?」
私は思わず聞き返す。
昨日、花束を贈ってくれた往人さんのお父さん……。
目の前にその人が立っているのだと気付くと、途端に私は頭が真っ白になった。
「無理もないか、驚かせてしまってすまないね……」
反応の悪さを見て、申し訳なさげに男性は謝る。
それが往人さんのお父さんなのかと思うと心が落ち着かない自分がいた。
「いいえ……本当に往人さんのお父様なのですか?」
信じられない気持ちでもう一度聞き返す。
無意識に相手の腕を掴み、姿が見えないということの不安を私は久々に感じた。
「あぁ……私は正真正銘、桜井往人と血の繋がった父親だよ」
その言葉の意味を噛み締めた時、私は本当に目の前にいるのが往人さんのお父様なのだと自覚した。
「……初めまして、こんな失礼な姿ですみません。
前田郁恵です、ずっとご挨拶したいと思っておりました」
往人さんと交際を始めて一年になった今日。
私は初めて往人さんの家族と対面した。
これが運命だというのなら、私はしっかりと向き合わなければならない。
そんな想いで私は足を揃えて大きくお辞儀をした。
「君ならそう言ってくれると信じていた。確かに演奏を披露する姿を伺いながら大胆な衣装をしていると思ったが……そうか、実に可愛らしいお嬢さんだ。我が息子が離さないのも納得のいくところだな……」
「はぁ……お恥ずかしい限りです。普段はもちろん、こんな服を着たりしませんよ」
「分かっているよ。私はここのオーナーや娘さんとも古くから交流がある、随分と気に入られてしまっているのは見ていれば分かるよ」
初対面であるにもかかわらず、この状況を冷静に観察している海人さん。
店長のことをオーナーと呼ぶところや、華鈴さんのことを娘さんと呼ぶ辺りも昔馴染みの古株である印象を受けた。
「あの……この格好でいると目立ってしまうので、後でお話ししませんか?
立食パーティーの合間にお店を出ますので」
私は出会ったばかりの海人さんに失礼のないよう、ちゃんと話し合いたい一心で提案した。
「今になってやってきた私を受け入れてくれるとは……感謝するよ」
私のことをどう見ているのか、まだ冷静になれない私には分からなかったが、話す機会を得たことを今は喜ぶことにした。
恵美ちゃんや華鈴さんと会話を交わし、「私は家で往人さんの帰りを待ちます」と伝え、早めに立食パーティーを抜けさせてもらうことにした。
休憩室で着替えを済ませ、ダッフルコートにリュックサックを背負い、フェロッソを連れて店の玄関を出た。