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第十五章「悠久なる邂逅」6

 ノーマライゼーション絵画展でのピアノ演奏から約半年の月日が流れた。

 めぐる春夏秋冬、季節は春から夏へ、夏から秋へ、そして秋から冬へと流れていく。


 蒸し暑く過酷な夏は終わり、収穫に沸く秋の季節が訪れるが、それも息つく間もなく通り過ぎていく。


 冷たく身体を冷やす寒気と共に赤く染まった落ち葉が宙を舞う。

 往人さんと歩いてきたかけがえのない日々。

 忘れることのない沢山の思い出達。

 私の視界がいついかなる時も黒く染まっていたとしても、往人さんが与えてくれた思い出の数々は色鮮やかな色彩を描き、世界を広く見せてくれた。

 紅葉晴れとなった京都の街を幾度も歩き、飽きることなく四季の姿をキャンパスに描いてきた往人さん。

 フェロッソとリードで繋がり、往人さんと手を繋ぎ歩く時間。それが私の幸せで、当たり前に変わった日常だ。

 往人さんは私と歩みながら、母が辿って来た道のりを再び辿るように、美しくも儚いものを絵画に刻み、永遠への祈りに変えていった。

 


 十二月頭、国際空港の搭乗ゲートで「クリスマスの夜には帰るから」と言い残し、往人さんはフランスへお師匠さんやアトリエの仲間と一緒に出掛けてしまい、家を空けている。


 私は晶子さんに誘われたオーケストラによるクリスマス定期演奏会でゲスト出演することになり、その翌日には華鈴さんとの喫茶さきがけで去年同様に演奏会があることから日本に残ることを選んだ。


 お互いにそれぞれの目標に向かって邁進(まいしん)していく日々。

 遠距離になってしまった私は、目の前のことに集中することで気を紛らすのが精一杯で、往人さんと離れてしまったことが寂しくならなかった。

 

 一人ベットに入り、眠る時間になると途端に静寂が息苦しくなって、会いたい感情が溢れて孤独感に苛まれる。

 眠気を失い、食欲を失くしてしまうほどに、我慢しようとしても焦がれてしまう往人さんの温かく逞しい私よりも大きな身体。

 その背中や胸板に顔を埋めたいのに肝心の往人さんはここにはいない。

 半年以上一緒に暮らしてきた反動がこんなにも大きいとは思わなかった。

 私は孤独で堪らなくなると、リビングルームの大きなケージの中で眠るフェロッソに甘えるか、ぬいぐるみを抱き締めるしかなかった。


 日ごとに苦しさを増していく、往人さんのいない夜。

 同棲生活を始めて、これほど会えない日が続くのは初めての経験だった。


 ――12月24日、ついに訪れたクリスマス定期演奏会当日。


 陽が昇る時刻、一人目を覚まして珈琲を淹れると私はテーブルに座った。

 昨日買ったまま残っていたドーナツを口にして、熱い珈琲を喉に流し込む。

 明日の夜には往人さんは帰って来てくれる。そう約束をしてくれた。

 だから私は覚悟を決めて、自分がやりたいことに集中しようとフェロッソと一緒にコンサートホールへと向かった。


 本格的なオーケストラと一緒に演奏をした経験は私にはない。

 今日行われるのはオーストラリアで暮らしていた頃にやった学生同士の合奏とは訳が違う。

 でも、晶子さんとその旦那さんの隆之介さんはとても私を優しく迎え入れてくれた。 


 定期演奏会というだけあり、何時間もプログラムが組まれているにもかかわらず、私のために多くの時間を割いて頂き、リハーサルを入念にしてくれたのだ。


 練習してもしきれない慌ただしい日々。

 喫茶さきがけでの華鈴さんとの演奏会も翌日に控えていることもあり、蓄積された疲労感を抱えながら本番の日を迎えていた。


 人様の演奏会で迷惑を掛けたくないという気持ちが大きいが、一度きりの演奏で後悔はしたくない。控え室で着替えを手伝ってもらいながら準備を済ませ、スポーツドリンクを口にする。

 今年一番の緊張の只中にあるためか喉が渇いてしまう自分がいた。


 ――私も学生の頃に本番前でとても緊張することがあってね。


 表情を硬くする私に晶子さんは隣に座り、そう話を切り出した。

 両耳に付けたイヤリングが微かな音を鳴らし、優しい香水の香りと顔が近いからなのか僅かに口紅の匂いがした。

 

「あれは震災を経験してから少し後のことだった。

 隆ちゃんが私に元気を分けてくれて、大きなピアノコンクールに一緒に参加したの。

 ファイナリストに勝ち残った私達は地元の東北を飛び出して東京まで行って緊張の中、演奏をやり遂げた。今日と同じように、オーケストラと一緒にね」


「そう……なんですね。そんな大舞台に比べたら、今日の演奏でこんなに緊張して固くなっていたら損ですよね」


「そうよ。私は郁恵さんにオーケストラと一緒に演奏をする楽しさを味わって欲しいからここに呼んだの。

 だって、私はあの日、本当に素敵なオーケストラに助けられて一番の演奏が出来たんだから。

 それはとても幸福なことで、とても沢山の勇気を聞いている人たちに分けてあげられた。

 その時の私は震災の後遺症が残っていて、声の出せない、片耳が聞こえない不自由な演奏者だったから」


 晶子さんの言葉が心に染み行く。

 コンクールに向けて血の滲むような努力をしてきたのだろう。

 気付けば私は名演奏を奏でる綺麗な手を握り、勇気をいっぱいもらっていた。


「ごめんなさい、ちょっと積極的にやり過ぎたかしら。

 あなたの顔に寂しいって書いてあったから、ついその心を溶かしてあげたくて、昔話をしてしまったわ」


 微笑みながら得意げに温かい言葉を掛けてくれる晶子さん。

 私よりもずっと大人で気遣いの出来る女性。

 その素敵な姿を見て私はその想いに応えたいと心から思った。


「ありがとうございます。

 晶子さんは私を喜ばせる引き出しが多くて、それに本当に何でもお見通しですね。

 少し気持ちが晴れました。どうぞ、今日はよろしくお願いします」


「ええ、一生忘れられないくらい、素敵な演奏をしましょう」


 軽く抱擁を交わし手を離すと、甘い香りを残して晶子さんが控え室を出ていく。

 私の出番はプログラムの終盤。それまでの時間を私は静かに目を閉じて待った。

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