22-03
◇
「ケガをした生徒の手当てが終わったら、私も会議に参加しますので。はい、事故の経緯や詳細は聞いておきますし、その時に……」
屋上の金網が落ちてきた件について、事情を聞きにきた事務員や教頭に仁科はそう告げると、保健室のドアを閉めた。
「ケガは、腕だけ?」
「はい。背中とかも打ったけど、まぁたいしたことはなさそうなんで」
室内は静まり返っていて、仁科が手当てをする音だけが静かに響く。
保健室に移動する最中、ハクとバクの本当の目的について聞かされた和都は、談話テーブルの椅子に座ったまま、じっと床を見つめていた。
「相模はケガとかしてないか?」
「……平気。菅原が庇ってくれたから」
仁科の問いにそれだけ答えると、和都はまた口をつぐむ。
屋上でのことを思い出していた。
菅原は自分がハクに近づこうとしたのを止めていたし、すぐに自分を庇ってハクからの攻撃を回避してくれていた。
小坂もすぐに状況を理解して、ハクを止めようとした。
分かっていて、注意してくれていたのだ。きっと、仁科か春日の指示だろう。
──おれだけ、知らなかったんだな。
ハクが霊力を増やせといい、実体化を望んだのは、鬼を食べてくれるためだけじゃない。
自分を食べて、バクと一つに戻るためだったのだ。
そして自由になる、ということは、相模和都でいるのを辞めること。
人を惹き寄せるバクの性質も、仁科家の末子が短命になる悲しい祟りも、自分が自分を辞めればいい。
簡単な話だ。
「……おれが。おれがハクに食べられちゃえば、全部終わるじゃん」
自分の手を見つめて、和都がポツリと言った。
と、次の瞬間、すぐ近くにいた春日が和都の襟首を掴んで立ち上がる。
「ふざけんな! お前、まだそういうこと言うのか?!」
「でも! 他に方法がないじゃんか!」
怒鳴るような声に、和都も叫ぶように返した。
睨み合ったまま、春日が白い歯をギリリと軋ませて唸る。
「……二度とそういうこと言うなって、言ったよな」
「わかってる! 分かってる、けど……」
鋭く睨みつける視線に、和都は目を逸らした。
自分からは死なない、という約束。
だが、本当にそれでいいのだろうか。
たくさんの人が傷つかないで済むのなら、自分の命で全てが解決するなら、安くはないだろうか。
どうしても、そんなことを考えてしまう。
「おい、落ち着けよ、お前ら」
小坂が二人の肩を叩き、春日から和都を少し遠ざけた。
菅原の手当てをしながらその様子を見ていた仁科が、息をついて口を開く。
「相模。今日、お前の親は家にいるの?」
「え、と……」
「いません。昨日からまた、出張に行ってます」
口籠る和都の代わりに、春日が答えた。
聞いた理由は明白だ。
「……じゃあ今日は俺ん家にこい。春日、俺がそいつを見張る。それでいいか?」
「お願いします」
春日が憤った息を吐き出すように返す。
菅原の腕に包帯を巻き終わると、仁科は頭を掻いた。
「今、緊急の職員会議中で、治療も終わったし、俺も参加しないといけない」
本来は川野が行方不明になった件についての会議だったのだが、屋上での出来事も議題にあがるだろう。
どのくらいかかるのか、見当もつかない。
「お前ら相模ん家まで一緒に行ってくれる? 俺が迎えに行くまで、そいつが勝手なことしないように、見張っといて」
「……はい」
和都以外の全員が頷いた。
◇
「先生、遅いな」
四人で和都の家に向かい、広いリビングでそれぞれ何をするでもなく、仁科が来るのを待っていた。
「……菅原、腕のケガ、平気?」
「ああ、かすっただけだから、大したことないよ」
心配そうに訊く和都に、ソファに座った菅原はそう言って手を振ってみせる。
適当にお菓子を食べたり、関係のない話をしながら過ごしているうちに、外はすっかり夕焼けも終わり、空の端にわずかな橙色を残して紺色に沈み始めていた。リビングから見える道路沿いの街灯が、すっかり明るく輝いている。
和都は一人制服から着替え、泊まることになるので支度なども済ませたのだが、仁科が来る気配はない。
まだ時間がかかりそうだが、どうやって時間を潰そうかと話していると、ようやくインターホンが鳴った。
「……悪い、遅くなった」
迎え入れた仁科の顔は、学校で見た時よりも酷く疲れ果て、げっそりしている。リビングのソファに座らせると、ぐったりして背もたれに深く沈み込んだ。和都がグラスに入った麦茶を差し出すと、一気に飲み干して、ようやく話し始める。
「いやー、さすがに色々ありすぎて、困ったもんだよ」
川野の件については、春日と小坂の証言も踏まえ、すでに警察が介入しているらしい。
また、屋上での一件を、つむじ風と老朽化でゴリ押ししたところ、先日、仁科が鍵の故障で保健室に閉じ込められたこともあり、校舎全体を一斉点検することが決まって、明日明後日と臨時休校が決定したということだ。
「ここ最近は色々起きすぎたからなぁ」
「まぁ古い学校だし、ちょうどいいんじゃない?」
小坂と菅原はそう言うが、起きた出来事の殆どに『鬼』や怪異が絡んでいる。
仁科の横に座った和都は、グッと唇を噛んだ。
「……それから、堂島が事故に遭って、運ばれた」
「はぁ?!」
堂島は職員会議が始まる直前まで、学校の裏門を出てすぐのところで、下校する生徒の見守りに立っていたらしい。ちょうどそこに運転操作を誤った車が突っ込んできたようだ。
「ハクの仕業、か?」
「だろうな」
会議の始まる前ということは、ちょうどハクが屋上から離れてすぐくらいのタイミングになる。
「意識不明だが、心肺停止まではいってないらしいから、大丈夫だとは思うがな」
屋上を去る間際、ハクは『もう一つのお願いを叶えておく』と言っていた。
堂島に憑いた『鬼』を食うために、事故を引き起こしたのだろう。
自分のせいで。
自分を取り囲む色んなものが、おかしくなっていく。
何度も見てきた光景だった。
それならいっそ、全てを放り出してしまいたい。
「──前のおれなら、こっそり逃げ出して、一人でハクのとこに行ってたんだろうなぁ」
だって、それが一番簡単で、解決できる方法だから。
和都は自分の膝に乗せた手を、ぎゅっと握る。
「……でも、今はできないや」
声が震えていた。
「死ぬの、怖い」
目の奥がじんと熱くて、心臓がギュッと掴まれたように痛い。
「あんなに平気だったのに、今は、すごく、怖い……」
何もない自分の命はちっぽけで、たいした価値がないと思っていた。
けれど、だんだん自分にも、大事にしたいものが増えてきて。
いつ死んだって平気だったはずなのに、今は色んな約束と、大切な人たちがいなくなってしまう方が怖い。
死んでしまったら、それを自分から手放してしまうことになるのだと、ようやく分かった。
「みんなと、いたいなぁ」
呟くように言うと同時に、気付いたら涙が頬を伝ってポタポタと落ちていく。
「……相模ぃ」
和都の横に座っていた菅原が、泣きながら抱きついた。
大切にしたい人たちが、自分のために一生懸命になってくれる。それは自分と同じように、自分にいなくなって欲しくないと、大切に思ってくれているからなのだ。
「死なせないよ、絶対に」
仁科が和都の頭を撫でて言う。
「お前はちゃんと、みんなと同じように卒業するんだよ」
「うん……」
泣き出した菅原に抱きつかれたまま、和都も一緒にわんわん泣いた。
怖かった気持ちが今更になって渦を巻き、落ち着くのに時間がかかってしまった。
「──ごめん。色々、考えなきゃいけないのに……」
「気にすんな」
ひとしきり泣いて、和都が手の甲で涙を拭いていると、少し離れた場所で、小坂が鼻をすする。
「ハクがさっさと『鬼』を片付けちゃった以上、こっちも悠長にしてる時間はなくなった感じだな」
仁科はそう言いながら頭を掻いた。
本来であれば、ハクが『鬼』を食べ、白狛神社で待ち構えるまでの間、和都が最悪の手段を取らないよう見張りながら、バクに真相を話してその後どうするか考えるつもりだったのだが、そんな時間はもうない。
「ちょうどみんないるし、バクに頼まれた事件の真相について話しちゃおうか」
仁科は息をつくように言うと、自分の通勤用鞄を開けて封筒を取り出した。