13-02
◇ ◇ ◇
「あれ、春日クンじゃん」
研究発表が近づいてきた、七月の終わり。
仁科が休憩に一服しようと喫煙所に向かって廊下を歩いていると、ちょうど職員室から出てくる春日を見つけて声を掛けた。
「仁科先生」
「なんで学校いんの? 今日は登校日じゃないよ?」
そう言いながら近づくと、きちんと制服を着た春日の手には、大きめの茶封筒が握られている。
「進路関係の書類で、ちょっと……」
「あらー、気の早いやつねー。って、まぁでもそんなもんか」
二年生の夏休みであれば、大学受験に向けた準備を始める生徒がいてもおかしくはない。難関大を目指す場合は特に。
何気なく話しかけたつもりだったが、春日はいつも通りの仁科になぜか少しだけ眉を顰めていた。
「……ちょうどいいんで、少し話せますか」
「顔こわいよ? 煙草吸いながらでもいい?」
「はい」
春日の返事を聞いて、仁科は中央階段と事務室の間にある、職員用出入り口に向かう。職員が利用する喫煙所は、この職員用出入り口を出た、事務室側に設けられていた。
まだ日の高い午前中。屋外で暑くはあるが、ちょうど建物の影に隠れる場所なので幾分かマシである。
「先生、煙草吸うんですね」
「普段授業ある日は吸わないよ。土日とか、休みの日にたまーにね。……最近は悩み事が多いから、ちょっと増えちゃっててさぁ」
咥えた煙草に火をつけると、仁科は小さく煙を吐き出しながらそう言った。
「んで、話って?」
「……昨日の夜、堂島と居酒屋入ってくとこ見たんですけど」
「ガッコーだし、先生はつけなさい、一応ね」
「すみません」
言われて、仁科は昨夜自分が、狛杜公園駅前の商店街にいたことを思い出す。
大方、塾の帰りにでも見られていたんだろう。
「話がしたいっていうから、ちょっと乗ってみたんだけどね。……相模のことしか聞いてこねーから、すぐ帰ったよ」
珍しく堂島から飲みに行こうと誘われた。車で来ているので飯だけと言ってついて行ってみたが、向こうの目的は懐かしい友人との会話ではなく、和都のことばかりで、ほとほと呆れたものである。
「なるほど」
「俺とお前らでガード固めたからね。取り入る隙がないんじゃない? ……いい気味だわ」
そうは言いつつも、仁科はなんとも言えない気持ちだった。
かつての良き友人の言動が、憑いている怪異のせいだとしても、実際に目の当たりにすると正直いい気分にはならない。
「……先生が向こうについたんなら、ぶん殴ってやろうと思ってたんですけど」
「春日クン、意外に暴力的だよね」
「だいたいのことは、拳で解決してきたんで」
「まぁこわい。……それは絶対ないから安心しろ」
規律正しそうな、真面目そうな顔をして、どれだけ力技で乗り越えてきたのか、仁科はあまり考えたくなかった。
吐き出した煙がふわりと空に舞って霧散する。
「話ってそれだけ?」
「あと、もうひとつ」
「なぁに?」
隣に並んでこちらを横目に見ていた春日の視線が、前方に向けられた。
本校舎と校庭の間に等間隔に立ち並ぶ木々の隙間からは、誰もいない広いグラウンドが見える。
「……俺、姉が一人いるんですが、高校の時に教師と付き合っていたんです」
「ほう」
そういえば、春日の家族についてはあまり聞いたことがなかったので、姉の存在は少し意外だった。
「卒業したら結婚する、みたいな話もしてたらしいんですけど。……その教師、既婚者だったらしくて」
「えぇっ」
「それで結局ゴタゴタして、自殺未遂を。……発見が早かったし、無事だったんで、今は県外で就職して、普通に働いてます」
家族の話をしないのは、単純に春日が無口なせいだと思っていたのだが、そういう事情もあれば、話もしづらいのかもしれない。
しかし、なぜ今そんな話をするのだろう、と仁科は考えながら聞いていた。
「あらそう……」
「そんなこともあったんで、生徒と教師の恋愛は正直……。文句はないんですけど、ちょっと応援しづらいというか」
そこまで言って、春日がいつものような、無表情に近い睨むような視線をこちらに向けて。
「……やめてもらっていいですか」
誰と誰が、というのは名前を出さなくても分かる。
どう考えても、自分と和都のことだ。
仁科は眉を八の字に下げて、小さく笑うしかできない。
「たしか、そういう仲じゃないって話、しなかったっけ?」
「先生はどうか知りませんけど、アイツ無自覚なんで、気を付けて欲しいんですが」
「……あーそー」
きっと、彼のことはこの友人のほうが正しく認識できているのだろう。
この数ヶ月、ずっと近くにいたからこそ、和都の変化に気付いていないわけじゃない。
──分かっては、いるんだけどね。
これ以上は良くないことだと、頭では理解している。
彼が似ているせいなのか、それとも違う理由なのか。
自分でもまだ判断がつかなくて、悩ましい。
仁科は口の端から小さく煙を吐き出して言った。
「まぁ、言えることとしては、相模はお前の姉じゃないし、俺はお前の姉に手を出して捨てた教師とも違うわよってこと、くらいかな」
「……それは、分かってますけど」
不幸な前例とこれまでの経験のせいで、警戒されているのは分かる。
それならいっそ、とは思わないのだろうか。
「お前こそ、このまんまでいいの?」
言われた春日の視線が、木々の隙間のグラウンドに戻って。
「……俺は先生と違って、弁えてますから」
「ほー、さようですか」
「アイツが生きてくのに邪魔になりそうなものは、全部『潰す』って、決めてるので」
夏の暑さを冷ますような風がザーッと吹き抜けて、青々と茂る木の葉を揺らした。
──……否定はしないわけか。
でも、伝える気はないんだろう。
そう思いつめてしまうような出来事が、知らない過去に多分ある。
春日がぎゅっと握った拳を見ながら、仁科はそう思った。
──それなら。
「そんな真面目な春日クンに、いいことを教えてあげよう」
「は?」
妙に明るい声で仁科が言うと、顰めっ面の春日が眉間のシワを深くして返す。
「俺と相模、親戚だったわ。正確には再従兄弟ね」
「ああ、和都に聞きましたよ。親戚付き合いとかしてなかったから、普通にビックリしてましたけど」
得意げな顔で言ってみせたのだが、春日はやはり和都から知らされていたらしく、少しばかり呆れた顔になった。
「うん。そんでここからは、アイツに言ってないことなんだけどさ」
「なんですか」
興味のなさそうな春日の返答に、仁科はもう一度咥えた煙草の煙を吐き出して、静かに言う。
「仁科家ってねぇ、末子が早死にする家系なんだって」
「……え?」
春日が分かりやすく驚いたので、仁科は目を細めて笑った。
「病気とか事故とか、色々な理由で早死にするんだとさ。それも直系だけでなく傍系も含めて。おかげでうちの家系は親類のなかでも極端に人数が少ない。これは所謂『祟り』みたいなもんらしくてね」
このご時世に使うべきか憚られる単語だが、他に表す言葉がない。春日の表情に怪訝さが増していく。
「……んで、俺の一番下の弟もその『祟り』とやらで死んでるわけだが、気になってることがあってさ」
「気になること?」
「うん。弟の状況と、相模の状況が、同じすぎる」
和都と関わるようになってからずっと感じていた、妙な既視感。
あれは、十数年の自分たちだ。
「弟も、相模みたいにやたら人や怪異に執着されまくってた。事故に見せかけて自殺するくらい、追い詰められてた」
仁科が大学進学で地元を離れて暫く、中学生になった末弟は自分に電話を寄越した後、亡くなった。状況などから事故と処理されたが、希死念慮に囚われていた彼が自ら選んだ結果としか思えない。
「少し違うのは、相模みたいにやたら倒れなかったことだけ、だな」
雅孝は元々視るチカラも祓うチカラも強かったので、視えないものに関しては本人が対処していた。
しかし和都の場合、視えるのに持っているチカラが極端に少なく、対抗できないせいで倒れている。
違いはそれくらいだ。
「でも、和都が色んなものに執着されるのは、狛犬の生まれ変わりだから、ですよね?」
「うん。その性質が狛犬の生まれ変わりが持つ特性だっていうなら、同じ特性を持った弟が死んだ後に相模が生まれてないとおかしい。でも、弟が死んだのは十一年前。相模はその時五〜六歳のはずだから、生まれ変わりというわけじゃない」
「たまたまその『祟り』と同じような性質を持っている、とか」
「その可能性を考えてたんだけど、親戚に『神谷』がいたの思い出して、念のため家系図を確認したらアイツがいた。仁科家の末子という条件に一応当てはまる。一人っ子だから微妙だけどね。……どう思う?」
そう言いながら、仁科はスマホを取り出すと、和都にも見せた家系図写真を開いて、春日に渡す。
名前と名前を繋げる血の系譜。
横に並んだ氏名の、その末尾に記される名前の享年だけ、極端に数字が若い。
「……仁科家の祟りは、狛犬のチカラのせいってことに、なりますけど」
「だよなぁ。もしかしたら生まれ変わりっていう前提が、違うのかもしれん」
過剰に人を惹き寄せ狂わせるチカラを持ち、最終的に死へ至る『祟り』と、同じような性質を持つ『狛犬の目』。
それがもし同じであった場合、あの元狛犬を名乗る怪異への信用が揺らいでしまう。
春日は『仁科弘孝』の名前から少し離れた位置にある『神谷和都』の文字を見て、ぐっと唇を噛んだ。
「『祟り』の理由とかって、分かってるんですか?」
「それも不明でね。ただ、末子は二十歳を迎えられないと言われてるよ」
生まれ変わりも祟りも、現実として目の当たりにしている以上、作り話では済まない。
「……この写真、もらえませんか?」
「あー、あとで送る。一応個人情報だから、扱いには気を付けてね」
「わかってます。……少し、調べてみます」
「頼むわ。なんか分かったら教えてくれる? 研究発表もあるから悩んでる場合じゃなくてさ」
子どもに頼るなんて、大人として情けない話だ。しかし、本人以上に彼を生かすことに執着している彼なら、雑念の多い自分より何かを見つけてくれそうな気がする。
「全然、いいことじゃなかったんですけど」
春日が息を吐きながら、仁科にスマホを返す。眉間のシワがより深くなっていた。
「そう? ストーカーさん的に美味しい情報かと思ったんだけど」
「ストーカーじゃないんですけどね」
「……一応、アイツには『祟り』のこと伏せといてやって」
「分かってます」
和都のそばには、視えていなくても常にハクがいる。
もしこちらが生まれ変わりを疑い始めたと分かったら、どんな行動を起こしてくるか分からない。
気付かれずに調べなければ。
「そろそろ帰ります」
「おう、気をつけてな」
春日が一人、中央の職員室用出入り口から校内に戻るのを見送って、仁科は短くなった煙草を咥える。
「あーあ、どうしたもんかね」
仁科はボヤきながら、夏休みの間は煙草の量が増えそうだな、とゆらりと昇って消える煙を眺めた。