表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/18

踏み出して

 日記の大半は、単純なその日の出来事の報告だった。

 狭いスペースにびっしり書かれたそれは、しかし少しも退屈なものではなかった。


 驚いたことに、日記の多くは屋外で書かれていた。

 沙希も葬儀の席で初めて知ったのだが、相馬の趣味は天体観測だった。


 喪主である父親が、挨拶のときに話していた。

 毎晩、二階から屋上の物干し台に上り、天体望遠鏡をのぞいていた、と。

 日記は、星の巡りや雲の切れ間を待つ間に、暗がりで書いたものらしかった。


 

 7月3日(木)


 雨が降りそうだ。

 今日は星座表がノーガードだから、降ったらお開き。

 雲の隙間からアルタイルが見える。

 いつ見ても彦星殿は、天の川に沈んでるようにしか見えないのに、よく七夕伝説ができたな。



 7月18日(金)


 親父が本堂に大画面のビデオを導入した。

 日曜学校用って本当か?

 電気屋の息子の千賀谷がさっそく目をつけ、親父の留守に大量のAVを持ち込もうとした。

 大仏壇の隣で上映する気にならん、却下!



 9月10日(水)


 進路のことで親父と大喧嘩。

 おれは仏なんか知るか、神なんか知るか。

 おれが崇拝するのは、この漆黒の空だ。

 この満点の星たちだ。

 この世のものを愛して執着して、何が悪い。



 9月11日 (木)


 祈る。供え物をする。経文を読んで口説く。

 おれにはどう見ても、神や仏を餌付けして手なずけているようにしか見えん。

 頼むよ、こんな罰当たりを坊主にしてどうしようって言うんだ。

 


 9月12日(金)

 

 流れ星を三つも見た。

 おい、願いはひとつだ。 三回叶えろ。





 微笑ましい記述を見てさえ、涙が湧いて来る。

 増してや、思いのこもった文面は、苦痛だった。

 

 悲しさよりも、悔しさが勝っていた。

 ふたりきりで、体を触れ合っていたあの時間。

 約束をしたあの時は、相馬とふたりでこの日記が見られると信じた。

 なのに、いきなりそそり立ってふたりを隔てた、この厚い壁はなんなのだろう?

 幸せだった瞬間と、今とは何が違うだろう?

 

 泣きながら眠りについた。




 次の朝も、まだベッドの上だ。

 日記の続きを読んでいると、ノックの音がした。


 「おはようございます。

  お元気になられましたか?」

 あの時の教頭先生が、きまり悪そうに顔をのぞかせた。


 「面会時間が、すっぽり授業時間でしたから、来るに来られませんでした。

  それじゃ埒が明かないのでね。

  看護婦さんに頼んで朝ちょっとだけと言うことで、入れて貰いました」


 「わざわざ、あの‥‥ありがとうございます」

 沙希はこの人の前だと、やはり反応に戸惑ってしまう。

 「母は10時になったら来ると思います。

  あ、あの。お掛けになってください」

 辛うじて気付いて、椅子を勧めた。


 教頭は小柄な体型で、椅子に納まるとますます小さく見えた。

 にこにこと常に笑っている。

 童話に出てくる森の精のようだ。


 「この前の言葉の意味を、教えていただけませんか?」

 沙希は出し抜けに切り出した。

 教頭は目を丸くして見せた。

 それでも笑った顔のままだった。


 「あ。き、急にすみません。

  でも、ずっと気になっていたんです。

  今度お会いしたら、聞いてみようとずっと待っていたので‥‥」

 「死ぬってどうなることかという、あれですね?」

 「そうです。

  先生は、『真っ直ぐなものが、輪っかになること』っておっしゃったでしょう?

  どういう意味なのか、いくら考えてもわからないんです」


 教頭は、説明を始める前に、天井を見上げて少し考えた。


 「そうですねえ。

  人間は、オギャーと生まれてから死ぬまで、一本の人生の上を歩いて行くでしょう?

  毎年、毎日、その一本の長さが伸びていくんです。

 

  たまには誰かとつながったり、平行して伸びたり伸ばしたりもします。

  断面が見えてますから、そこからお互いが見えるし、分かり合えるのです。


  ところが、この人がある日亡くなります。

  その瞬間、人生は、クルンと丸くなって、初めと終わりがくっついて輪になってしまう。

  断面がないから、その日から1mmだって伸びません。

  断面がないから、中がどうなっているのか判りません。


  誰の人生も、最後はこの輪っかになります。

  だとすれば輪っかは、完成品なんでしょうか?

  それとも終ってしまった後の、残骸なんでしょうか?

  それは、中身がどうなっているのかわからない限り、わからないのですよ。


  だからこそ、人はお葬式をやるのです。

  輪っかの中を勝手に想像して、その中の人が喜ぶようにと語りかける。

  彼らの平安のために祈るのです。

  しかしね、閉じてしまった輪の中は、何も変えることは出来ないのです。

  平安を得るのは、実は断面のある我々、残された者だけなんですね。


  おや、ごめんなさい。

  悲しませてしまいましたか?」


 沙希の目に、また涙が溜まっていた。



 「それにしても、安堂さん。

  あなたはつくづく、造形に向いた性格ですね」

 「造形に、向いてる?」


 「まず、感受性が豊かです。

  しかしそれに振り回されてばたばた動かない。

  そして、自分の考えや、ひとの言葉に感動や疑問を持ったら、とことんこだわって考える。

  しかも、長い間の単調な作業が苦にならない。

  物を作るのに、美術を極めるのに、とても適した性格ですよ」


 「そんなこと‥‥。

  才能がなかったら、性格がどうでもどうにもならないんじゃないですか?」

 「そうでもないんですよ。

  まず、感受性が豊かでも、物事にこだわらなかったら、そもそも何も残すことができない。

  ぱーっと友達とおしゃべりして発散して終わりです。

  そんな者の才能をどうやって発見します?」


 「たまたま何かを作るかもしれませんよ」

 「でも長い作業が嫌いな子は、造形じゃなく水彩画を描いてしまうんですねえ。

  私はもっとしち面倒くさいのが専門なので、後継者がいません」


 沙希は、心の中であったかいハーブティーのようなものがポコポコ湧いてくるのを感じた。

 気がつくと、また自分の掌を見ていた。

 「ほおら見ろ。

  入り口の鍵、そこにあっただろう?」

 相馬の声が、耳の中で広がった。


 その時、別の誰かの声がした。

 「美術専門学校って、今からでは入学できませんか?」

 

 教頭の顔がぱっと明るく輝いた。

 沙希は自分の唇を押さえた。

 そう、声はそこから出ていた。


 沙希自身が出した声だったのだ。


 「もう3月なので、新入学としての受付はできません。

  ですが、アトリエに通って来られれば、いくらでもお教えしますよ。

  校内に私専用の小さい建物がありましてね。

  そこに、気が向いたとき来る学生が、今のところあと二人います。

  それぞれマイペースで自分の好きなものを勉強しています。

  こういう方法なら、授業料は取りませんから通っていらっしゃい」


 「はい!」

 思いがけず元気な声が、沙希の口から飛び出した。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ