抱き締めて
暗がりの中で、沙希はくすっと笑った。
あの日は楽しかった。
あの時初めて、相馬と直接触れ合った。
今はもっとしっかり密着している。
沙紀にとって雨は、縁結びの神様。
坊主になろうって人に、神様はないかしら?
「おい、安堂!どうした?
返事しろ、おいっ!」
ほおをぴしゃりと叩かれて、沙希は我に帰った。
一瞬、気を失っていたようだった。
「オマエどこか怪我してんのか?
痛いとこどこだ、言ってみろ」
相馬は、伸ばした手で沙紀の顔をそっとなでた。
どうも、その辺りにしか手が届かないらしかった。
ひじを張ることができないので、下方向にも伸ばせないようだ。
「左の手首が痛いけど‥‥。
今のは、貧血みたいな感じだった」
言ってるそばから、頭がくらくらする。
「手首、はさまってんのか? 痛いのはそこだけか?
もしかしたら、そこから出血してるかもしれないな」
「もう感覚がないから、痛みは大したことないよ。
でも、どんどん血が流れてるんだったら、どうしよう。
あたし、助けが来るまでもたないかも‥‥」
「馬鹿! すぐ弱気になるんだなオマエは!
手首なんて、切ってすぐ死ねるもんじゃないんだぞ。
だいたいこんな事故に遭って、手首だけで済んでるのが奇跡なんだ」
「でも。 ‥‥また、気が遠くなりそう‥‥」
「あ、安堂! こら!
しっかりしろよ! ここで死んだら怒るぞ。 絶対承知しねえぞ。
頭つるつるに剃って、葬式に乱入してカメの歌を歌ってやる」
「なにそれ。 わけわかんないよ」
沙希は笑った。
笑うと、ちょっと意識がはっきりした。
「第一それ、相馬くんにしかダメージないよ」
「良く考えたらそうだ。 俺が馬鹿だ」
相馬も、照れたように笑いをもらした。
こんな顔もできるんだね。
沙希はもう少し見ていたくなって、意識を戻す為に深呼吸した。
「とにかくオマエは、あきらめが早すぎ。
こんなとこで死んで見ろ、絶対後悔するぞ。
やり残した事がいっぱいあるんじゃないか?
俺なんか、化けて出てでもやっときたいと思うこと、山ほどあるぞ」
相馬が真顔でそう言う様子は、やっぱりもしかして助からないかも、と思っていることを匂わせた。
でも確かに彼の言う通りだ。
死んでしまったら、もう相馬に会えなくなる。
沙希が大事にしていた想いも、伝えられもしないでプツリと切れてなくなってしまう。
卒業までに告白できたらいいなと思っていた。
沙紀にしては強気の決心だ。
何に対しても自信がない沙希も、相馬が自分を嫌っているとは思えないのだった。
彼は、クラスの誰とも、沙希ほど打ち解けて接してはいないように思えた。
好きとまでは言ってもらえなくてもいい。
告られてとんでもない反応が返ってくることを恐れる必要はなかった。 それだけでよかったのだ。
「もっとたくさん話がしたい」
沙希は、白っぽくなってきた視界を、元に戻そうと必死で言った。
「もっと話したいよ。
何かしゃべって、相馬くん」
「おい、がんばれ!
そうだな、もし生きて帰れたら、褒美をやる」
「うん。 なにくれる?」
「俺の日記を見せてやる」
「相馬くん、日記なんてつけてんの?」
「おかしいか?」
「なんか、イメージ違うね」
「日記っても、メモの一言日記みたいなやつだぞ」
「おもしろそう」
「おもしろかないけどな。
うーん、これも俺だけにダメージある約束だなあ」
「いいじゃない、私にご褒美なんだもん。
相馬くんには、私から何かあげるね」
「お。 何くれんだ?」
沙希は目をつぶって、相馬へのプレゼントを考えようとした。
でも、視界が閉ざされるともうダメだった。
意識が、闇に引きずり込まれるように、暗がりに転げ落ちていく。
「‥‥ん‥‥」
「おい! 安堂?
馬鹿、しっかりしろ。 おいっ!」
相馬がまた沙希の頬を叩く。
「なんかもう‥‥力が入らないよ‥‥」
「力なんか入れなくていい!
救助が来るまで、息さえしとけばいいんだ。
オマエがするのは、信じることだけだろ!
絶対助かるって、信じろよ!」
「だって‥‥救助なんてホントに来るの?
私たちがここに閉じ込められてるって、誰か気付いてるの?」
沙希が言うと、相馬はさすがに一瞬考え込んだ。
それからおもむろに、すーっと息を吸い込んだ。
「だれかいませんかあ!」
いきなり大声を出されて、沙希は小さく悲鳴を上げた。
相馬はおかまいなしに、動けない姿勢のままで叫び続けた。
「おーーーーーい!
ここにふたり閉じ込められてるぞおーー!
誰かレスキュー、よんでくれえええーーー!」
「安堂、おまえも声出せよ!
おーーーい、助けてくれえ!」
沙希は相馬と一緒に声を出そうとしたが、とてもそんな体力は残ってなかった。
もう目の前は、白を通り越して真っ暗だ。
がんばれ。
自分自身に言い聞かせる。
生きて帰って、相馬くんに言うんだもん。
大好きですって言うんだもん。
がんばれ! がんばれ! がんばれ!
体が下に沈んでいく感覚に襲われた。
落ちる!
全身の血が、頭から足先の方向へざあっと音を立てて雪崩れ落ちていく。
「助けて!落ちる!」
沙希は悲鳴を上げた。
「落ちるよ!
相馬くん、私をつかまえてて。
離さないで、落っことさないで、抱きしめてて。
助けて、助けて!!」
水音が大きくなって来ていた。
見えないので状況がわからないが、崩れかけた場所が新たに流されようとしているのかもしれない。
斜めになった柱が、苦しげな軋みと共に寄りかかって来た。
沙希と相馬の全身が、斜めにかしいで行く。
「レスキューの能無し、馬鹿野郎!」
相馬が毒づいた。
でもひとつだけいいことがあった。
梁の隙間の位置が変化して、相馬の肘が狭い空間を通過したのだ。
相馬のしっかりした腕が、沙希の顔から背中まで下りてきた。
そのまましっかりと抱き締められた。
その間にも、相馬の口は閉じられることなく叫び続けた。
「おい、死ぬなよ!
絶対死ぬなよ!
オレも絶対絶対、死なないからな!
どんなことがあっても、生きて戻ってやるからな!
しなねーぞお!
オレはしなねーぞお!」
相馬くんたら、普段はほとんどしゃべらないくせに。
ここで一生分の言葉を使い切ってしまうんじゃないかしら。
相馬の声が、どんどん遠ざかって、何も聞こえなくなる。
やだ!
なんて勿体ない!
私はこの声をもっと聞いていたい。
もっと、もっと、抱き締めてもらいたい。
生きて帰って、相馬くんにご褒美もらう。 日記を読ませてもらう。
だから、絶対死んだりしないんだ。
暗がりの水音の中。
沙希は息を吸い込んで、大きな声を出そうと神経を集中した。