彼を恐れて
土砂は、旅館の建物の南側を襲った。
建物は真二つに折れた。
南の半分は、土砂と一緒に崖下に落ちて行き、床も壁も、何もかも消えてしまった。
「丁度、オマエの足のつま先あたりが境界線で、その先は床がないんだ。
で、北側にいた俺たちは、崩れてきた屋根の下敷きになった」
相馬に説明を受けるうち、沙希の記憶も少しずつ蘇ってきた。
「思い出した‥‥。
相馬くん、あたしをかばってくれたんだよね」
「オマエ、全然動かねえんだもん、鈍すぎ。
でも助かったのは、単に運がいいからだぞ。
まず廊下にあったテーブルの下に、入り込んだっつうか、叩き込まれたみたいになったろ?
そこへ土砂で部屋から流されてきた座卓で、山側が塞がった。
天井が落ちる時に柱が倒れて、これが斜めにテーブルにもたれかかった。
おかげで、でかい梁なんかに潰されずに済んだんだ」
そうか、ここは崩れた旅館の中。
天井の土ぼこりの中に寝転がってるわけだ。
道理で土やかび臭いにおいがする。
激しい雨の音もする。
「他のみんなは無事かなあ。
北のはじっこにいたわけだから、大丈夫だよね?」
「わかんねえ。天井がどこまで落ちたかによるな。
でもオマエ、人のこと心配してる場合じゃないぞ。
ここだってレスキューが早くきてくれなきゃ、もっと崩れたら落っこっちまうじゃないかよ」
「誰か連絡してくれたかなあ。
あたし、携帯を荷物のポケットに入れてたから、ここにはないのよ」
「ほんっととろくさいよな、安堂は」
相馬はそう言いながら、沙希の胸の上でくすりと笑った。
沙希の胸の中に、蝋燭くらいの小さな火が灯った。
なんだかトクした気分だ。
相馬は普段から、めったに笑わないのだ。
クラスの女の子たちは、相馬を怖がっている。
いつもぶすっとしてて、滅多に話もして来ないし、人を見るときは斜に睨むように見る。
そのくせ、キレるとやたら怖くて、先生に大声で食って掛かることもあった。
ちょっと服装も危ない。
不良友達などはいないようだが、普通の友達ともあんまりツルんでない。
沙希も、1年生の頃は彼がこわかった。
廊下ですれ違うだけで緊張していた。
2年生でクラス変えがあって、教室で彼の姿を見た時がっかりした。
この先ずっとこの人のいるクラスかと思うと、憂鬱に感じた。
おまけに同じ班になってますます気が滅入った。
班毎に活動する掃除の時間が、沙希はきらいだった。
沙希はみんなと同じペースで掃除をすることができなかった。
雑巾を洗い始めると、沙希の後ろに行列ができる。
黒板消しをクリーナーにかけていると、決まって途中で掃除が終わってしまっていた。
クラスの子たちは、文句こそ言わなかったが、内心いらいらしているようだった。
次第に、みんなは沙希が何かしていても、無視してさっさと終わらせて帰るようになった。
とろくさい子。
小さい時から、まわりにそう言われて育って来た。
実際、沙希はおっとりした子供だった。
物事を判断するのに時間がかかり、身のこなしも俊敏ではなかった。
体育の時間に沙希と組まされた子は、決まっていやな顔をした。
かけっこで全力疾走しているつもりなのに、先生に叱られたこともある。
「ふざけてへらへら走るな!」と。
「どんくせえなあ! 貸せよ!」
ある日、ごみ捨て場の前で、分別に手間取っていると、後ろから怒鳴られた。
相馬は、沙希の手からごみ箱をひったくった。
すみませんと言おうとしたが、怖くて声が出なかった。
「こんなん、紙なら紙だけ先に選んで、まとめて取り出しとくんだよ!」
相馬は、取り出しやすい紙ごみだけを先にピックアップした。
雑に選んで多い物から出してしまう。
残りの出しにくい物に取りかかる頃には、量が減って扱いやすくなっている。
「ほんとだ、あたしのやり方はさかさまね!」
沙紀はいちいちひとつずつつまんで分けていたのだ。
相馬は、呆れたように沙希の顔を見て、
「オマエ、動作だけじゃなくて頭もとろいの?」
と言った。
いやなやつ。
優しくないと思った。