気づいて
沙希は自分の体を見下ろした。
山蔭から覗いた月は、沙希の肌を、砂漠の砂のような不思議な色合いに染め上げていた。
それは、これまで見たことのない色だった。
沙希は無意識に、自分の乏しい着色の記憶を掘り起こして、何の色を使えばそれと同じ色になるのかを計算しようとしていた。
緑。 つまり、黄色と青。
それと銀色。 いや、銀ではない。 灰色つまり白と黒。 そこにもう一色、光そのものの、透明な光沢の色が交互にある。
そして一番明るい白。
それだけだ。 それ以外の色がない。
黄色と青と白と黒と無色。
(そうか、赤が全然入ってないんだ。 夕日の時と逆なんだ)
分解してみて、初めてそれに気づいた。
皮膚の中に宿っている筈の血の色が、この月光には透けて来ないように思われる。
赤のない世界。
沙希の心に、唐沢がモノクロで表現した夕日の絵が再生された。
欠落した色彩を、あんなに鮮やかに表現してみせた唐沢が、もしもこの肌の色を描くとしたら、一体どんな風に描くのだろう。
見てみたかった。 何故ならこの肌の色は、最初から唐沢のフィールドに近いはずだからだ。
座り込んだ沙希の膝の横に、あのさび付いた一斗缶から取り出した資料がある。
どういう訳か、これだけは大事に持って落っこちたらしい。
多分、相馬が書いた物が中に入っているだろうと思った。
それを読むことの苦しさを、沙希は既に知ってしまっていた。
ツルツルの壁を爪で引っ掻くような悲しさ。
相馬を思う時、必ずその壁が先を阻む。 叩いても揺すってもビクともしない。
それは、かけっこのたびに遠くで並んで揺れていた、級友たちの背中を思い出させた。
涙ぐんだ沙希の視界で、彼らの背中は軽やかに笑っていた。
「何でいちいち泣くの? 負けたからって、たかがかけっこでしょう」
そう言っているように見えた。
「気にするなよ」
曖昧にかけられたあの言葉の冷たさと、その軽やかさは似ていた。
生きている人にも、壁があることを沙希は知っているのだ。
多分唐沢も同じことを感じているだろう、ということも。
「ごめん」
不意に唐沢が苦笑を漏らして言ったので、沙希はハッと我に返った。
ずいぶん長い間、返事をせずに考え込んでしまっていたのだ。
「ごめん、俺、変なこと言ったね。
いや、沙希ちゃん気にしなくていいから。
俺ってかなりヘンな野郎だからさ、そう思って忘れてくれていいや」
唐沢の背中を見上げると、何故か今にも泣きそうな気がして胸が痛んだ。
その瞬間、沙希は唐沢の「断面」を見た、と思った。
「人間は、オギャーと生まれてから死ぬまで、一本の人生の上を歩いて行くでしょう?
毎年、毎日、その一本の長さが伸びていくんです。
たまには誰かとつながったり、平行して伸びたり伸ばしたりもします。
断面が見えてますから、そこからお互いが見えるし、分かり合えるのです」
これまでに何度も思い返してみた、橋爪教頭の言葉がまたよみがえる。
沙希はこれまで、生きている人といても、壁しか見えないと思っていたのだ。
つるつるでびくともしない、おっかない高い壁がいつも沙希を見下ろしていた。
でも今、苦笑した唐沢の背中に沙希が見ているものは、壁ではない。
ざっくりとした柔らかい断面だ。 それが手を伸ばせば届く距離にある。
「唐沢さん、待って。 もう少し待って」
沙希は叫んで、急いで立ち上がった。
「今、脱ぎます。 下も脱ぐから少し待って」
月明りが落ちた草の上に、さっき唐沢が絞って渡してくれたTシャツを放り出す。 途端に左ひざに激痛が走った。
ズボンを下ろしかけて膝を縛っていたことに気づき、外そうとしたが、痛くてうまく出来ない。
バランスを崩して悲鳴と共に草の上に尻餅をついた。
「馬鹿ッ、なんで全部脱ごうとすんだよ」
唐沢があきれながら助け起こしてくれた。
「だって、画廊に来る絵のモデルさんて、いつも全部脱いでるから」
「今はそういうんじゃないだろ、絵を描く道具だって俺の手元にないんだぜ。
とにかく肌の色だけ、頭に入れときたかっただけだから!」
「だったら服を着てからだって……」
「そうだけど、俺の希望としては、胸の辺は出しててほしかったんだよ。
普段日に当たらないとこだから、そこが一番白くてきれいだから、月明りも映えるかと……いや、まさか下までじゃんじゃん脱ぐとはもう、沙希ちゃん大胆でびっくりするな!」
唐沢が焦りの余りやたらと早口でまくしたてる。 よろけた沙希を腕で支えながら、結局笑いを漏らしていた。
沙希は改めて恥ずかしくなり、両手で胸を隠した。
今更のように足の痛みが増して来て、歯を食いしばりながら少しだけ笑った。
支えてくれる唐沢の腕の中はとても暖かかった。
「絶対、描いてくださいね。 描いたら絶対、最初に見せて下さいね」
沙希は何度も念を押して、唐沢がうんと返事をするまで服を着なかった。
母の言うとおり、自分は強い子なのかもしれないと、生まれて初めて思った。