見上げて
山の中というものは、静かな場所だと思っていたら間違いだった。
緊張がほぐれた途端、これまで聞こえなかった虫の音が、暗がりにワッと立ちあがる。
轟くような風の音。
草木が風になぶられるざわめき。
そんな雑多な音は普段聞いたこともなく、総合して耳が「静けさ」と命名しているだけだ。 山の中という場所は、本当は相当に賑やかな場所なのだった。
夜空はどこかしらまだ赤い。
それでやっと気づいた。 真っ暗なので真夜中なのだと思っていたが、まだ日が落ちて間もない時刻なのだ。
沙希は小さなくしゃみをひとつした。 自分が震えていることに、今になって気づく。
「寒い?」
唐沢が心配して振り向いた。
彼は少し離れたところで着ていたTシャツを脱いで絞っていたのだ。
「……少し寒いです。
どうして私たち、2人ともびしょぬれなんですか」
「覚えてないの? 沙希ちゃん思いっきり転がって、川ン中に落ちたんだよ。
意外に流れがあって、引っ張り上げるの苦労したんだ」
「すみません」
「いや、確認せずに木から飛び降りた俺が悪かったんだ。
おまけに着地ン時に、ちょっと足首ひねったみたいで」
「大丈夫ですか!?
その、もしかしてそのひねった足で、あの崖を降りて助けてくれたんですか」
「折れてる沙希ちゃんに心配してもらうほどじゃねーけどさあ」
唐沢は絞ったTシャツで体を拭いてからもう一度絞り、バサバサ振って身に着けた。
「参ったなあ。 二人して足をやっちゃってたら降りられないぞ。
携帯も荷物も、上に置いたままだしな」
「私、リュック背負ってませんでした?」
「どこ行ったか見えないんだ。 一斗缶の中身はそこで拾ったんだけど、中が読めるほど明るいとこがないし、 上着もテントもあの上だよ」
落ちて来た崖は、思ったほど高くはなかったが、ほぼ垂直な岩肌だった。
当然ながら道などはついていない。
「沙希ちゃんの足がなんとか持つようなら、明るくなるまで動かずにいた方がいいと思う。
変に降りようとしてもこの暗さじゃ、どこでまた事故るかわかんないもんな」
「そうですね」
「大丈夫そう?」
「足はなんとか。 でも寒いです」
唐沢は困ったようにまた崖を見上げた。 上着は持って来ているが、手元にないのだ。
「俺、今一旦服を絞って体拭いて、もう一回着たらちょっとは寒さが違って感じるよ。
それにこうして着てたら、そのうち体温で乾くと思うんだ。
後ろ向いてるから、Tシャツ脱いで渡してごらん、思い切り絞ってあげるよ」
沙希は少し迷ったが、このままびしょ濡れで一晩過ごせる自信もない。
出来る事はなるべくやっておくほうがいいと思った。
「お願いします」
座ったままでシャツを脱ぎ、後ろを向いた唐沢の手に渡した。
虫の声が、鼓膜を強引に揺すって響き渡っている。
小川の流れる、断続的な響き。
絞ってもらったTシャツで沙希が体を拭いていると、突然あたりが明るくなった。
月だ。
山蔭からぬっとあらわれた月は、見たこともない大きさだった。
体を拭く手がつい止まってしまう。 明るくなりすぎて気恥ずかしく、拭くよりも隠したい気持ちだった。
唐沢もこちらに背を向けたまま、しばらく呆れたように月を見上げていた。
体を拭いたTシャツをもう一度唐沢に手渡して、沙希はまた、まじまじと月を見た。
「いつも見てるのと同じ月ですよね。 ここだけ別の奴が昇ったみたいに見えますね」
「はは、別の奴はよかったな。 確かに、イベント用に誰かがスペシャルをあつらえたみたいで、不思議な気がするな」
「こういうのも、夕日の時みたいに、描くの大変なんでしょうか。
唐沢さんだったらどう描きます?」
間が持たなくてダラダラと話しかけたのはいいが、言ってしまってから、この月の色が唐沢にどう見えているのか、もしかしてまた失礼なことを言ってしまったのじゃないかと気になった。
「俺だったらか。 そうだなあ、俺だったら」
幸いにも唐沢は、沙希の言葉に気を悪くした様子はなく、シャツを雑巾絞りにしながら首をひねった。
「俺なら、月は描かないな。 この光を何かに当てて、その影を描く」
「何かって?」
「例えば、人の肌に当てると、太陽の光とは違う感じになるだろ。
そこを描きたいね。 白い肌のモデルをこの辺に立たせて、月の光をこっちから当てて、そしたら肌の影できっと月の色がトロッとした感じが出ると思うんだ、出来れば服とか脱いでもらってさ……」
そこまで言ってから、唐突に唐沢は黙り込んだ。
絞ったTシャツを持ったまま、茫然としている。
「沙希ちゃん」
名前を読んでからも、唐沢は躊躇して何度も息を飲み込んだ。
沙希の心臓が早鐘を打ち始めた。 唐沢が何を言おうとしているか、沙希にもわかってしまったのだ。
「沙希ちゃん、その」
言いかけた言葉を何度も引っ込めたあとで、決心したように唐沢は言った。
「今、振り向いちゃダメか?」