落ちて
葉擦れの音を聞きながら、沙希は数分間、木の下で待っていた。
「……唐沢さーん」
不安になって声をかけると、うおーいと生返事のような声が返って来る。
「大丈夫ですかぁ」
自分の声にかすかな甘えの響きがあるのを、沙希はこの時に気付いた。
今更思い返すまでもなく、唐沢に対しては甘えっぱなしだ。
絵の技法については、指導者である橋爪教頭が造形専門なので、どうしてもデッサンの確かな唐沢に頼りがちになるのは仕方ないにしても、今回のように直接作品に関係しないことまで、沙希は唐沢に依存している。
こんなことは今までなかった。
沙希は人に頼ることが苦手だ。
自分の不器用さを呪うあまり、要領のよい他人に「代わって」ということが出来ないでいるのが常なのだ。
「そんなだからうまくならないんだよ」
昔、誰かにそう言われたような気がする。
せめて努力していることを知ってもらうことが、不器用さの唯一の言い訳になる。 そんな思いで過ごした子供時代だった。
それなのに、唐沢に対しては物を頼むのが不安ではなかった。
面白がって一緒にやってくれそうな気がした。
いや、実際にはため息混じりにしぶしぶ引き受けてくれる程度なのだが、沙希が唐沢も楽しんでいると信じたかったのかも知れない。
「唐沢さーん」
甘えた声の調子が何故か心地よく、沙希はもう一度呼んでみた。
「ダメだ沙希ちゃん、そこどいてて!」
「え!」
「落とすから、離れて!」
バキバキと枝の折れる音がした。
沙希が慌てて木から離れると、ドスンと湿った重そうな音と共に、銀褐色の塊が落ちて来た。
ブリキの一斗缶だ。
落下のショックで、さび付いたフタがずれて開き、中からビニールに包まれたものがはみ出している。
すっかり変色した紙類。
だぶんノートやスケッチブック、画用紙のようなものだろう。
(相馬君の?)
駆け寄って調べようとしたら、上から怒鳴られた。
「わ! まだ終わってない、どいて!」
「え」
「どけ俺が降りっ」
すでに上から飛び降りた唐沢の体が、落下して来るのが見えた。
咄嗟に飛び下がった。 2歩、3歩。
最後の1歩は空を切った。
地面がない!
狭い頂上の平地はそこで終わりだった。
落下は唐突に始まった。
両手で闇雲に何かを掴もうとした。
小枝や木の葉を突き抜ける。 痛みが足を裂く。
落下のスピードはコマ送りのようにゆっくりだった。
手の中を、つかみ損ねた幾多の木の枝が通り過ぎるのが、間抜けな速度ではっきり見えた。
悲鳴はするりと喉から抜けるように、遠い空へ吸い込まれて行った。
「おおーい、おおーい」
「だれかいませんかあ」
「ここにふたりいまーす」
「たすけてくださーい」
「おれは、しなねーぞお」
「ぜったーい、しなねーぞお」
ああ、相馬君の声がする。
薄れる意識の中で、沙希は笑った。
あの時も、私のために叫んでくれた。 自分はもう体さえも半分残ってなかったのに。
あんな風に大声を出してくれたね。
もしかしたら相馬君は、今も叫び続けているのかも知れない。
閉じてしまった輪の中で、助けを呼び続けてくれているのかも知れない。
ずっとずっと、今も。
「沙希ちゃん! 沙希ちゃん!」
体を揺すられ、ついでに頬を叩かれて、沙希は目を開けた。
これでもかというほどの頭痛がする。
地獄に落ちたように気分が悪かった。
体中が痛い。 おまけに水浸しで冷え切っている。
周囲は真っ暗だった。
「うそ! 夢なの!?」
思わず叫んで泣き出してしまった。
なんてことだ。 またあの旅館に戻ってしまっている。
あの時の事故現場、崖崩れで押し流されかけた旅館の中で、自分は今も閉じ込められている。
今までのことは全部、長い長い夢で、自分は今も助けを待っているのだ。
絶望の中で見た夢を、てっきり現実だと思い込んでいたのだ。
(あんなに一生懸命、美大で頑張ったのに。 夢なの?)
(教頭先生に出会ったのも、唐沢さんと絵を描いたのも、展覧会も、夢?)
胸がつぶれそうなくらいに痛くなった。
しかも今は、呼びかけてくれる相馬が、すでに死体であることを思い出してしまった!
(もうダメだ)
沙希は大声で泣き始めた。
(今度こそ死んじゃうんだ)
「沙希ちゃん、しっかりしろ。 俺がわかる? 見えてる?」
上から呼びかけられた。 相馬の声ではない。
暗がりの中から、真剣に目を凝らして見下ろして来る顔を、ゆっくりと認識する。
「唐沢、さん」
「うわーよかった沙希ちゃん、ダメかと思った。
頭打ってないか? どこか痛いとこは?」
頭は猛烈に痛かったが、打ったりぶつけたりした様子はないと思った。
そう言えば咄嗟に頭部を腕で庇おうとしたことを、おぼろげに記憶している。
体を起こしかけて、左の膝に激痛があるのに気づいた。
「このへん、ダメな感じ、です」
「お、折れちゃったかな。 すげー勢いで転がってったもんな。
他にどっか痛い? 自己申告で悪いが、俺って血が出ててもよく見えねーからさ」
「いえ、こう暗くっちゃ、私も何も見えませんけど……」
こんな時まで自分の障害を気にしている唐沢が気の毒になって、沙希は出来るだけ平気そうな声を出そうとした。
「あっちこっち切っていますけど、ドクドク出てる気はしません」
「こ、こわい言い方するね。
ハンカチある? 俺のと2枚しかないから、ヤバそうなとこ2箇所くくっとこう」
「じゃあ、ここ、膝の上と、肘のへん……」
真っ暗な中で手当ても手探りなのだが、移動する自信がなかった。
そこはたった今転がり落ちた崖のすぐ下らしい。
横たわった沙希の左側に、小さな川があるようだ。
唐沢のほっとした表情が、暗がりでも何故だかよくわかった。
当分更新がなかったので、忘れられていたのではないかと思います。
反省して再開することにしました。