登って
昼下がりの山道を、下草をかき分けながら登って行く。
背中を押す日差しは、西に傾いではいるもののまだまだ元気だ。
それでも光は木立ちに遮られ、小石を踏んで歩くスニーカーも足元はうす暗い。
沙希の目の前で、唐沢の広い背中が揺れながら登って行く。
汗の浮いたTシャツの上で、斜め掛けした荷物のベルトが行ったり来たり揺れる様を、沙希はどこか夢の中のように目だけで捉えていた。
自分はどこかおかしくなったのだろうか、と自問する。
唐沢は成人した男性だ。
なのに二人きりで星を見ようと誘ったのは沙希の方だ。
今夜、多分朝まで一緒に過ごすことになる。
きっと反対されるだろうと思って、両親には本当のことを言わずに出て来た。
(どうかしてる……)
沙希の胸に、性的な衝動は微塵もなかった。
相馬の日記は一言メモだったので、裏山についての記述は特になかった。
だから沙希はなんとなく、相馬家の裏口からヒョイと登って行ける山なのだろうと簡単に考えていたのだが、唐沢に確認すると思ったより面倒な場所だと判った。
「特に険しい山じゃない。 時間も20分ってとこだけど、夜中に登れる道と違うぞ。
畑も何にもないとこだから、そんな立派な道なんかついてないんだ。
途中までは、相馬んとこの寺の墓地があったりして、立派な階段もついてんだけどさ。
そこより上は、獣道程度だぜ。
途中で手を使わなきゃ登れない石垣みたいなとこもあるし、当然街灯はないし、俺らが子供の頃はまだイノシシが出たりしてたんだ。
だいたいてっぺんに上がっても、そこまで広い頂上があるわけじゃないぜ」
「じゃあ、私なんかが暗いときに登るのは無理ですね」
「相馬だって、たぶん寝袋担いで明るいうちに登って、そのまま泊まり込んでたんじゃないかな。
あ、おい沙希ちゃん、その顔はなんだよ」
沙希が笑顔になったので、唐沢は仰天した様子だった。
「その手があったかって顔すんな。
ダメだよ、女の子が野宿なんかやっちゃ」
「唐沢さん……が、一緒でも……ですか?」
唐沢は口をあんぐりあけて言葉を詰まらせたのだった。
道は狭く、急勾配で、しかも突然途切れていたり、倒木に塞がれていたりした。
唐沢はあまり無駄口を叩かず、速足で歩いては、時折沙希の方を振り返って足を止める。
その表情を見て、ああ、怒ってるわけじゃないんだと安心するほど、この日の彼は無愛想だった。
「手を使わないと登れない場所」は、地崩れを防止するために崖の壁面を保護する塗料が塗られている一帯だった。 取って付けたようなデコボコは、到底階段と呼べるようなものではない。
以前は崖よりも手前側に道があったのだが、台風の時に崖が崩れ、道ごとなくなってしまったのだと言う。
「昔はここのすぐ下に家があったんだけど埋まっちゃってさ。
息子がひとり、亡くなったんだよ。
俺が中1だから、弟も相馬も小学生だったんだけど、確か相馬の奴、あいつと仲良かったはずだ」
「友達が土砂崩れで亡くなってるの?」
「そう、さすがに葬式の時には誰も言わなかったけど、後になって、相馬は『呼ばれた』んじゃないか、なんて言い出す奴もいたよ」
沙希は驚いて、坂の下を振り返った。
雑草に覆われた空き地の様な物がある。あれが宅地の跡だろうか。
てっぺんまで登ったらしいことは、まず風が教えてくれた。
山の向こう側から吹き渡る風が、顔面をいきなり撫でたのだ。
視界が開けて、それまで沙希の頭よりずっと上で揺れていた唐沢の背中が低くなった。
「はい、到着。 何にもないとこだろ」
荷物を下ろして見回すと、本当にそこはまだ山の続きの様な場所だった。
狭い平らな土地の半分を、雑多な木が塞いでいて視界もさほどよくない。
上空を見上げても、空が特別よく見えるわけではなさそうに思えた。
「枝が邪魔だな。
こんなとこでどうやって星を見てたんだろうな」
「昔はもっと木が少なかったんじゃないんですか?」
ぐるぐると頭の上を見ているうちに、沙希は妙なものを発見した。
一番高い木の中ほどに、何か赤い物がくくりつけてあるのだ。
「あんな高いとこに誰か登ったのか。
あ、ここに足場みたいなものが作ってある。
釘があちこち打ってあるし……もしかしたら、登れるぞ」
唐沢は荷物を下ろして、太い幹に取り付いた。
「あ、危なくないですか? 錆びてるんじゃ……」
「うん、落ちたらことだから離れてろよ」
唐沢は靴を脱ぎ捨て、足場を頼りに木登りを始めた。