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揺さぶられて

 作品の選択を誤ったかもしれない。


 沙希は強烈に後悔していた。 2日目の日没が完了してからの事だ。

 スケッチ2日目は色が塗れるかもしれないと、まだ日が赤くならないうちからカンバスを立て、下絵に描き足しをしながらスタンバイしていたのだ。


 ところが、太陽が西に落ちかかる頃、沙希はそのことに気付いた。

 いつの時間を切り取ったらいいのかわからないのだ。

 自分は、この夕日のどこの段階が描きたいのか、そしてそれがいつ来るのか。

 それをどうやって表現したらいいのか、色は何を使ったらいいのか。

 何もかもがさっぱりわからないではないか。

 

 色づき始めた空は、毎秒毎秒その色合いを変えて行く。

 どこからが夕日なのか、どの色を作ればいいのか、初心者の沙希が迷っているうちに、空には薄墨の黒が混じり始め、あっという間に手元が見えないほど暗くなってしまった。


 数秒で判断し、数分で描かなければならない!

 気づいた途端、沙希はカンバスを畳んでしまった。 

 自分には無理なモチーフなのだと思ったのだ。 

 もっと素早くて頭が良くて優秀な人が描く絵だったのだ、と激しく後悔した。


 アトリエに通うようになってから、久しく感じていなかった卑屈な感情。

 自分の鈍重さを呪うあの苦い思いが、沙希の気持ちを高校時代の陰鬱さに引き戻そうとしていた。



 (ちょっと考え直してみよう)

 次の日は、スケッチを取りやめにして、アトリエに戻ってみることにした。

 そしてそこで、沙希は「それ」に出会ってしまったのだ。

 誰もいない午前中のアトリエに入って行くと、見たことのなかったカンバスが一脚、布を掛けずに置いてある。

 思わず近づいて、あっと息を飲んだ。

 

 そこにあったのは、鉛筆だけで書かれた、白黒の風景画だった。

 繊細な濃淡でデフォルメを加えながら描かれているのは、高台から見下ろしたあの夕焼けだった。

 何故、赤い色が塗っていないのに赤く感じるのかわからない。

 でもそこにあるのは、間違いなく沙希が昨日描こうとして失敗した、夕焼けの展望だったのだ。


 精巧で緻密なタッチ。 一方で、強烈に何かを訴えるための、一つの方向性。

 「すご、い」

 足が震えたのは、作品自体に対する感動からだったろうか。

 それとも、たった1日でここまでのものを描きあげた、そのスピードに対する嫉妬のためか。

 沙希は長い時間、震えながらただその絵を見ていた。


 気が付くと、その絵は本当に赤く色づいていた。

 一瞬、魔法を見たような気がしてあたりを見回すと、窓の外が夕日に染まっていたのだった。

 何時間も馬鹿のように突っ立って、ただ絵を見ていたのだという事に気づき、沙希は突然腹立たしくなった。 

 吐く息吸う息、全てがとろくさい自分に嫌気がさす。 

 さらりとこれだけの物を描いてしまう唐沢から見たら、自分のような人間がカンバスを立てていることはさぞ滑稽に見えるだろう。


 水彩画を描くのはあきらめよう。

 自分に合ったものを見つけるためにここに来ているのだ。 現に自分のテンポで勝負出来るものが、ここには他にいくらでもあるじゃないか。

 踵を返して帰りかけた体が、ドンと固い物にぶつかった。


 悲鳴と共に床に尻餅をつく。

 その沙希の体の上に、何か木材で出来たものががらがらと落ちかかって来た。

 「わ、わ、わ、わ、ごめん!」

 あわててそれを払いのけ、沙希の腕を取ったのは唐沢だった。

 「ごめん、沙希ちゃん急に振り向くから、よけられなかった。 怪我ないか」

 「あ。 いえ」

 助け起こされて立ち上がりながら、咄嗟に言葉が出ないでいると、沙希の口元に温かい物がつーっと垂れて来た。


 「やだ、鼻血」

 「うわわ大変だ。 あっ馬鹿、手で触るな」

 唐沢は素早くティッシュを取り出して沙希の鼻に当て、それを沙希に押えさせた。

 そして自分はもう一枚のティッシュを丸め、子供にするように沙希の鼻に詰めてくれた。

 器用で落ち着いた、的確な手当てだ。


 (ほらね。 要領のいい人は、何やっても素早いんだ)

 沙希がまたひがみ根性をぶり返させていると、唐沢は突然妙なことを始めた。

 新しいティッシュを取り出すや、突然沙希の服の胸元をごしごしと拭き始めたのだ。

 「ええ? な、なんですか?」

 何もついてない服の上を、しかもバストの真上をこすられて、沙希は飛び上がって体を引く。

 「血が付いたらすぐ拭かないと」

 「付いてませんよ」

 「だって、ここにポチポチ……」

 「それはシャツの模様です!」


 唐沢の手が止まった。 

 呼吸も一瞬止まっているように見えた。

 彼が拭いていたのは、沙希のTシャツにあしらわれた、紺色のぼかし柄だったのだ。

 夕暮れに薄赤く染まってきたアトリエの中で、それが唐沢の目にどのように映ったのか。

 少なくとも、沙希の鼻から滴った真っ赤な鮮血が、他の人のようにとんでもないインパクトを持って唐沢の目に飛び込んではいなかったという事だけはわかった。


 「色は」

 唐沢が口の中で呟くように聞いた。

 「は?」

 「何色の模様だ? 赤?」

 沙希がフルフルと首を振る。

 「紺色、です」

  

 ふう、と音を立てて、唐沢が止めていた息を吐き下ろした。 そのあと唐突に質問を放つ。

 「その絵、見た?」

 「あ、はい」

 「ついにこういうことになったか、って思わなかった?」

 「え。 ついに?」

 「もともとこんな風にしか描けないはずだったのに、今まで無理してたんだなあと思わなかった?

  なあんだ、蓋を開けたらこういう事か、って思っただろ」

 「そんなこと……」

 「言われたんだよ!『なあんだ』って!

  不思議な色を塗るから発想力のある男だと思っていたら、もとがゼロだからできるんだなあ、なあんだ、ってな!」

 「だ、誰にそんなこと」

 「ここにしょっちゅう来る画壇の連中だよ」



 沙希は唐沢の顔を見直した。

 視線を外した彼の瞳に宿っている卑屈さは、沙希の心そのままだった。

 沙希が諦めなければならない世界を、彼は描けるのに。

 

 その時心に満ちて来た思いは、解析不明の混合物だった。

 唐沢のコンプレックスへの同情、才能に対する傲慢さへの怒り。

 慰めたいという感情と、叱りつけたい衝動。

 中傷誹謗への腹立ちも、それに負けそうになる唐沢への抗議の言葉も、何もかもがいっぺんに沙希の心の中で膨らんで、不器用な彼女の声を奪ってしまった。


 

 「なんだよ」

 暗い声で、唐沢が聞いた。 あたりには、夕日の赤に変わって青みのかかった闇が込め始めている。

 「なんで、睨むんだ沙希ちゃん」

 「睨んでません」

 「怒ってるだろう」

 「怒ってません」

 「怖いよ」

 

 言うべき言葉が見つからないので、沙希は床の上の物を片づけ始めた。

 その時になって、自分が鼻に詰め物をした滑稽な顔のまま、唐沢の顔を見ていたことに気が付いた。

 普段人を食ったような話し方しかしない唐沢が、それを見てもにこりともしなかったところを見ると、本当に怖かったのかも知れない。

 

 唐沢が隣にしゃがんで、散らばった画材を一緒に拾い集める。

 「あの」

 その横顔に、沙希は衝動的に話しかけた。

 「星を見に行きたいんですけど。

  場所が判らないので、付き合ってもらえませんか」

 唐沢が、いぶかるように視線を上げる。

 「相馬君が日記に書いてたポイントに行きたいんです。

  そこで絵が描けたらもっといいんですけど、一晩じゃ無理かもしれない。

  一緒に行ってもらえませんか」


 自分でも、何故そんなことを唐沢に言ったのかわからなかった。

 ただ、星空なら赤い色が見えなくても、二人同じものが描けると思った。

 大騒ぎで色を付けなくても、家に帰ってから着色できると思った。

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