描いて
住宅街の坂道は急勾配だった。
スニーカーの足を踏みしめて登り始めて間もないと言うのに、すでに息が弾んで来ている。
傾いた太陽は、まだ赤くない。 あの光が西の地平線に近付くまでに、目的地までのぼらなければならないのだが、沙希はその場所がまだよくつかめていなかった。
公園の入り口で振り向いた。
もう1つ2つ上のブロックではないかと思うのだが、電話帳に付いていた大雑把な地図ではよくわからない。
後ろの坂を振り返り、振り返り、登った。
相馬の書き残した「夕日の絶景ポイント」は、何の目印もない、住宅地の中の普通の道の途中だった。
角を曲がったところの右手を見ると美しい、と書かれていた。
沙希はそこで、その景色と出会った。
洪水のような金色の光が、赤く色づく瞬間を見た。
宇宙唯一の画家が描いた、奇跡の景観だった。
赤い空は、うねりながら、はるか遠くで地面とつながっていた。
おまけにその画家は、一分ごとに全ての色を塗り替えてしまうのだ。
息を飲んで見つめるうちに、涙が出て来た。
この夕日の果て、視界の届く先のもっと向こうに、この世ではない世界もあるような気がした。 このジオラマの奥まで潜り込むことができたら、この世界にいない相馬とも、巡り会えそうな気がする。
その想像は、自分が死んでからあの世で会える可能性よりも、より現実的な気がした。
同時に、ひとつの衝動が沙希を襲った。
塗りたい!
赤でも黄色でも橙色でもない、逃げるように刻々と変わるこの夕日の色を、自分が塗ってみたい。
沙希は次の日、スケッチブックを準備して、そのポイントに立った。
夕方にはまだ遠い時間だ。 色を塗るには、その前に下絵を描かなければならない。
沙希はこれまで、小中高校の授業時間以外に絵を描いたことはなかった。
何から始めたらいいのかわからないので、4Bの鉛筆で横イチの線をまず引いてみた。
空と大地の接点のつもりだ。
たったそれだけで、突然沙希は失望した。
一本描いただけで、気付いてしまったのだ。 その線の上にもまた下にも、何をどう載せていいのか、全くわからない自分がそこにいた。
選択授業の美術で、基本的な技術は教わった。
でも、何をどうあてはめていいのかわからないのだ。 ビル街の街並みのような法則性とは無縁の山や川、ぎっしりと雑多なものが詰まって美しい風景は、雑多であるがゆえに画面に落としにくかった。
どこから何を詰め込んだら、こんなにたくさんの情報が、小さくて真っ平らな紙に収まるのか。
これまで直感的に物を作っていた沙希には手に余るテーマだった。
「やっぱり、昨日長いことそこに立ってたのは沙希ちゃんか」
携帯で連絡すると、唐沢は家にいていの一番にそう発言した。 展示会準備の時に連絡網を作ったので、イエデンなら登録してあったのを沙希が思い出して電話したのだ。
「わたしの知る限りで一番デッサン力があるのって、唐沢さんなんです。
お願いします、どうしたらいいのか教えて下さい」
唐沢は、予想を超える短時間でやって来た。
思った以上に家が近くなのだろう。 カンバスとスケッチブックを抱えて、息を切らすこともなく歩いて現れた。
「貸せ」
唐沢は、沙希からスケッチブックを奪い取った。
沙希の引いた横イチの線に向かって、上に2本、下に2本、放射状の薄い線を、無造作に引いた。
「あ‥‥」
驚いたことに、それだけで、スケッチブックの上は立体に見えるようになってしまった。
その上にこれから描くべき物が、沙希にも見えて来たのだった。
「すごい。 まず頭の中にかくんだ。 絵を描くって、そういうことなんだ‥‥」
何もないところが、感性によって突然変化する。
何もない紙に描くんじゃない。 そこに何かが見えて、初めて描くのだ。
「すごい、すごい。 魔法みたい。
唐沢さん、すごい‥‥」
唐沢から受け取ったスケッチブックに、わかるところから描き込んで行く。
沙希はすぐ夢中になって、その作業に没頭して行った。
唐沢は黙ってしばらくそれを見ていたが、唐突にぽつりと言った。
「色が見えなくても、形はわかるから、俺でも役に立つと思った?」
「俺でも」の部分に殊更に力を入れた言い方が挑戦的だ。 顔を上げて唐沢を見ると、唇を噛んで夕日を睨みつけている。
唐沢の横顔の、夏の日差しに焼けた肌に、赤い色が乗って輝くのが息を飲むほど美しい。 沙希は感動すると同時に、この赤が唐沢の目にどんなふうに見えているのかを想像できなくて、苛立たしい思いをした。
「形はいいですけど、唐沢さんから見たら、この色ってどう見えるんですか?」
率直に聞いてみる。 相手が息を飲んで一瞬黙るのが判った。
「そんなこと、聞かれたの初めてだな」
「誰も聞かないですか」
「子供のころはよく聞かれたよ。
でも大きくなると周りが遠慮して聞いて来ないね。
とりわけ、美大で絵を描いてる同士だと聞かない。 そんなこと聞いたら失礼だって思うんだろうかね。 つまりは自分の優位性を感じてセーブしてるわけ。 ありがてーこってす」
「傲慢に感じますか?」
「もろ傲慢だろうぜよ」
いつも軽口ばかり叩いて賑やかな唐沢が、その日はそれきりしゃべらなかった。
黙って自分のスケッチブックを出し、鉛筆で何かを描き始めた。
傲慢だろうか。
トラックを走りながら見た、涙でゆがむ級友たちの背中を沙希が思い出すのは。
自分の味わった思いは、そもそも得手不得手のレベルであって、唐沢の悩みに投影してしまうにはちっぽけすぎるだろうか。
それでも、クラスの中でポツンと孤立した気持ちになったあの瞬間を、睨みつける彼の眼もとにどうしても見てしまうのだ。
日暮れまで下絵を描いて、やっと大雑把に仕上がった。
残りは次の日に回すことにした。
沙希は荷物を片付けて、唐沢にもう一度お礼を言った。
「明日ももし天気が良ければ、続きを描きに来ます」
「頑張れ」
自分も来るとは、唐沢は言わなかった。 ただ書きかけの画を破らずに、きちんとスケッチブックを閉じて保護する様子が、これきりで描きやむつもりはないと感じさせた。