戸惑って
沙希が10体目の作品を仕上げたのは、8月の終わりのことだった。
橋爪教頭先生は喜んで、校内自販機でコーラを買って来た。
その時アトリエにいた全員で乾杯した。
「10月の頭にやりましょう、作品展」
すでに予定していたらしく、その場で教頭先生は日にちまで宣言した。
「教頭先生のお兄さんが画廊を経営してて、わりかし簡単に個展の世話をしてくれるんだ。
ああ見えて、結構資産家の出らしいぞ、あの先生」
最年長者の、城という先輩が教えてくれた。
この先輩はすでに社会人だ。 鉄鋼関係の工場で、溶接工をやっている。
昨年は、廃材を集めて作品を作った。
鉄製の植物のような、妙に美しいフォルムの物体が仕上がって、話題となった。
「仕事も趣味も鉄いじりの鉄オトコさ」
唐沢が、城を評してそう言った。
作品展は、画廊の細長いビルを借り切って行われた。
こういった縦長の展示場では、入り口に近いところに有名作品を飾る。
ところが今回、一番目立つ入り口付近に、沙希の作品を出したいとオーナーが言い張った。
例年の作品展では、1階に教頭先生の個人作品が来ていた。
2階に先生方の協賛作品と、キャリアの長い生徒の作品を、3階には、今年から始めたばかりの初々しい生徒作品を並べるのが常だった。
それを覆して入り口に置かれたのは、沙希の等身大の男性像だった。
沙希の全作品に付けられた共通テーマは「抱きしめて欲しい人」。
その男性像は腰骨までの半身像だが、腕の中に人が入れるようになっている。
下からもぐりこむと抱きしめてもらえる感じになる。
「これ、胸板が気持ちいい!
女の子の夢よねえ、こうするのって」
水彩画を出品した斉藤という女性教師が、気に入って5分くらい、像と抱き合っていた。
「触れる作品と言うのは、集客率を上げるからね。
これを入り口にするのがベストでしょう」
教頭先生にこう言われると、誰も反論しなくなった。
作品を出すからには、一人でも多くの人に来て欲しい思いは、誰も一緒なのだ。
ただ、沙希の他の作品まで入り口近くに並ぶことについては、何人かの反対が出た。
やはり1階はメイン作品、という概念がある。
一番新参の沙希にそこに来て欲しくない先輩もいたわけだ。
それで一旦、沙希の作品は男性像を残して3階に上がった。
ところが前日になって、やっぱり1階に下ろして欲しいという意見が出て来た。
「抱きしめて欲しくて入ったのに、逃げられちゃった気がするの」
女子教員たちからブーイングが出たのである。
結局、入り口とそれに続く1階手前に沙希の作品を、奥側に重みのある城の作品を置いた。
生徒作品は2階に下りた。
先生方の有難い作品を最上階に置けば全作品を見てもらえるのでは、と言う意見が採用されたからだ。
作品展が始まると、控えめながらメディアがポツポツ取材に来た。
地元テレビのニュースキャスターの女性が、沙希の男性像の胸に頬を預けて、
「すごく気持ちいいです!」
と言ったところが放映されると、わずかながら女性客が増えた。
「若い女の子の作品としては、エロチックじゃないですか?」
インタビューで必ずそう聞かれた。
「抱きしめる」だけなら、相手は母親でも赤ちゃんでもいいのだが、沙希の場合はそれを想定してない。
モデルはどうしても男性になる。
他の作品についても同じである。
「エッチとか、言われませんか」
あけすけに聞いてくるインタビュアーもいた。
「考えたことありません」
と、沙希は答えた。
「19歳の少女がエロスを語った作品」
作品展の評論文の多くは、沙希の作品を取り上げてそう銘打っていた。
不思議なものだと、沙希は思った。
沙希は自分だけの、自分本位な思いを作品にしているだけだ。
亡くなった相馬は、恋人でも家族でもない。
そういう相手への、「追恋」とでもいうような思いなんて、他の誰かにわかってもらえるとは思えない。
相馬が以前言っていた「ありきたりな感じ方をする方が一般受けする芸術になる」という言葉とは、これは一致していないように感じる。
その一人よがりな作品が、「意外性」として世間で大きく取り上げられる。
美術と言うものは、得体の知れないものだ。
作品展が終って、参加者全員で打ち上げをした。
オーナーが料亭に一席設けてくれ、今回出品した教師や学生が集まって乾杯の運びとなったのだ。
沙希はみんながほめそやしてくれるたびに空山に睨まれるので、魔除けに唐沢と教頭の間に座って目立たぬように小さくなっていた。
ところがその席で、ちょっとした騒ぎが起こった。
唐沢が、教頭に向かって、何か大声で抗議を始めたのだ。
作品の評価を聞いているうちに話がこじれたのだが、唐沢が何を怒っているのかは、全部聞いていたにも関わらす沙希には理解できなかった。
作品の方向性に関する事だ、とだけしかわからなかった。
「オレには、他に選択肢があったんですか?
そんなのなかったじゃないですか!」
少し酔っているらしく、唐沢は涙声になっていた。
9時半にお開きになった時、唐沢の姿は席になかった。
沙希が探しに行くと、男子トイレからよろよろ出て来た。
「唐沢さん、気分悪いんですか?」
沙希は手を貸した。
「おう、酔った酔った」
肩につかまりながら、唐沢はうめくように言った。
「沙希ちゃん、このあとどっか出る?」
「いえ、終電までに帰るって言ってあるので」
「じゃあ、明日用事ある?」
「明日、ですか」
沙希はちょっと迷った。
「じつは夕方、天気がよかったら行こうかと思っていたところがあるんです」
「ひとりで?」
「はい、ひとりで。
あ。 もし良かったら唐沢さんも一緒にいかがですか?
浦上町ですから地元ですよね?」
「町内だけど、何しに来るの?」
「夕焼けを見にです」
「夕焼け‥‥」
「相馬くんの日記に、『ここからの夕日が世界一』って書いてあった場所が見たくて。
10月が一番綺麗な赤が出るんですって。
だから一度見て、よかったら書いてみたいって思って、この季節まで待ってたんです。 私のやり方じゃ来年になっちゃいそうですけど、ゆっくり見てから決めたくて。
唐沢さん、場所がわかれば案内して貰えますか?」
「夕日」
唐沢は、何故か顔を曇らせて返事をしなかった。
「その坂の上に、星の観測スポットと書かれた山もあるんです。
そこからの星も見てみたいけど、夜中に山に上がるのは怖くて。
唐沢さん、尾節山って、登ったことありません?」
「ないね。 登山も坂道も嫌いだからね」
不機嫌な声でそう言うと、唐沢はひとりでさっさと行ってしまった。
「あー。 言っちゃったんですかぁ。
先生、今回あいつコタえてますよ」
「わかってはいたんですがねえ。
そろそろ変わらなきゃならん時期でしょう、あの子も」
橋爪教頭先生と城が、唐沢のことを話している。
彼はどうも、挨拶なしで帰ってしまったらしい。
「あの、私、唐沢さん怒らせちゃいましたか」
沙希は城に聞いてみた。 夕日の事を聞いた唐沢の態度が気になったからだ。
「あー、違う違う。 もともとだよ。
あいつ、今回の作品、ボロボロに叩かれてたんだ」
「そうなんですか?」
「本当にやりたいものを出さないから限界が来るんですよ」
教頭が、珍しく渋い顔で言った。
「君は君だけにしか作れない世界をまだ作ってない。
ついそういう言い方をしたら、むきになってしまってねえ」
「その言葉、微妙ですね」
城がうなった。
「何かいけないですか?」
沙希が聞くと、
「あー、沙希ちゃん、知らなかったんだ。
唐沢は、重度の色盲なんだ。 色がわからないんだよ」
「え‥‥」
「運転免許が取れないくらいだから、結構深刻な色盲ですよ。
ただ、彼は負けん気が強いのでねえ。
ここに来たはじめのうちは、そのことを隠して油絵を描いてましたよ」
「油絵ですか? でも、色はどうやって?」
「勘ですかねえ。
まあ、写真みたいにそっくりに描かなくていいわけですから。
あのデッサン力と、色の意外性のギャップで、結構面白いもの描いてたんです。
でも、まあ何かのきっかけで色盲だってバレてしまうとね。 途端に造形のほうに転向したんです。
色眼鏡で見られるのは嫌だといってね」
「色盲って、赤い色が見えないんですよね」
沙希は、唐沢の押し殺したような声を思い出していた。
「夕日」と。