whole lotta love
幻の第8話(かつての最終回)whole lotta love
ゲレンデのカクテル光線が、カーヴド・グラスに反射する。
七色の光が、交錯、混交、様様なスペクトルを放つ。
純白の雪が、跳光し、prizm のように。
multiは、それからも過熱したまま、ぼんやりと。
この、グラス・エリアのキャフェで、浩之の滑りをぼんやり眺めていた....。
ピステのトップ・エンドから、アクセレーションしながら直滑降。
瞬間、左にスキーを押し出し、右ターンを始める。
フリー・ハンドで、右手を雪面につけて、クランマー・ターン。
雪面に、鋭くカーヴィング。
反力を利用し、切り返し、左ターン。
今度は、オープン・スタンスで、鋭く切り込む。
雪面に2本のedgeが、レールの如く刻まれ、綺麗なRを描く。
リアクションで直立し、ベンディングしながらヴェーデルン。
小刻みな、8-beatが軌跡に残る...。
エア・トリック。
ベンドし、テイク・オフで飛翔!
大きく、プロペラ・ターンを決め、ジャープにランディング。
鋭く、大きく、ロング・ターンを決め、雪煙を上げてストップ。
会心の笑顔。
手を振っている.....。
「すごい、すごい....。」multiは、両手を振り返す..。“恋人”に。
ゲレンデの端で、スキーを履いた幼児が、ボーゲンをしながら転倒。
「あ/....。」multiの視界に、それが映る。
顔一杯を真っ赤にし、力の限りで泣いている。
すぐさま、母親らしき女性、抱え上げて起す。
「いいなぁ、親子って...。」
「私にも、家族があればなぁ....。」
multiは、少女らしい思いと、異端の存在である自身の寂しさを
同時に感じていた..。
「....家族?」
....,,,ひろゆきさんは....私の事を....
......でも。私は。
「家族」になれない。
だって。わたしは...。
なぜ、いままで気付かなかったの?
multiは、自分の愚かさを悔やんだ。
「わたしは、資格がないんだわ.....。」
それまでの、砂糖菓子のような気分が、突然、苦いものに変わる。
何も見えない、聞こえない.....。
考える、ことすら出来ない。
ふるえる心で、席を立とうと。
そこに、上機嫌の浩之。
「待たせたな、multi!。」
いとおしげに、multiを見つめる、「恋人」のまなざし。
直ぐに、異変に気付く......。
「どうか、したのか...?」
multiは、表情をこわばらせている。
無言のうち、浩之に“なにか”を訴えている....。
...いえない、言わなくちゃ、でも....言えない。
「あの.......。」
ふるえる唇。
床に落とした視線....。
浩之の、大きな掌がmultiの肩に。
「ああ、疲れたかな、少し、さあ、帰ろう。」
「....は、い....。」
・
・
・
・
時の刻みが、味気なく感じてしまう。
「砂」時計のような、とでもいえるのか。
時間量子は、さらさらと。
無常なようだが、過ぎて行く...。
・
・
・
・
・
・
「ただ..いま.....。」
「おお、multi。どうしたね、元気がないな。」
早瀬も、心の重みを隠し、平静を装う。が...。
「おとうさぁん!」
multiが、早瀬の胸に。
「どうか、したのか!?」
「わたし、辛いです。....わたし、わたし......。」
multiは、泣きながらも、どうにか今日のできごとを伝えた....。
「.....。」早瀬、沈黙。
重苦しい時間が過ぎる.....。
「テストは、止めよう。もう、逢わない方がいい、浩之君には。」
「そんな.....!いやです、私、そんな。」
「....転校することにして、皆とお別れしなさい。」
「そんな、そんな....。それじゃ、私.......。」
また、涙ぐむmulti。
早瀬の実験着は、じっとりと濡れてしまっている。
長い、とても長く感じる時間が、過ぎて行く。
じっと、そのまま、泣き止むのをまっていた早瀬。
multiの背中を優しくさすり、髪を撫でている....。
・
・
・
「ごめんなさい、汚しちゃって....。」
昂ぶりの収まった彼女は、静かに、そういい、力無く離れて行く。
「......。」無言。早瀬。涙を拭ってやる。
赤子のように、泣きはらした顔は、どこか茫洋と。
「....あまり、考えるんじゃないぞ。さあ、もう休みなさい。」
「....は...い.....。」
いままでに見たことがないほど、力無いmultiの後姿。
灰色の stainless-steelのドアが、音もなく閉じる。
「.....。」その後姿が、早瀬の脳裏に残像となって残る。
苦渋。
机に伏し、頭を両腕で抱える。
髪を掻き毟る。
少し、後れ毛が、はらりと。
幾分、白い髪も見え隠れしている....。
その、抜け毛のシルヴァー・グレイを、早瀬はじっと見つめていた.....。
そして、机の端の、倒してあった写真立てを起こし、電気スタンドの灯りでかざし、
しばらく、考え込んでいた....
最早、猶予は一刻もない。
こんなことをしている場合じゃないぞ!
そう、「青年の自分」が語りかけている。ように思え、”はっと”する早瀬。
椅子から立ちあがり、生化学実験棟の方に、ファイルを抱え、足早に去った...。
・
・
寝室に入り、半ば自暴自棄にベッドに突っ伏す。
multiは、眠れない。
....どうして、私はhumanoidなの?
....どうして、普通の女の子じゃないの?
....どうして、人を好きになったの?
....どうして。
どうして!
どうして!
どうして!
無限ループが続いている。
枕に顔を埋め、声を殺してまた,,,,涙。
Thorn tree in the garden.....。
・
・
・
・
それでも時は、流れつづける。
はじめとおわりを見届けながら。
また、朝がやって来た。
「いって...まいります...。」
「ああ、気をつけてな。」
「.....はい...。」
やはり、元気がない。
彼女にはどうしようもない "Disteny"。
その単語のもつネガティヴな意味合いを、かみしめるように歩む彼女である。
さくさくと、霜柱の崩れる音。
中庭を、ゆっくりと。
こんな、軽やかな音すら、何か空虚なものの思えてしまう....。
と、multiの視界に、黒い外套を羽織った少女が映る。
...いつか、ここで会った....。不思議な。
「....あ、おはようございます....。」
「......。」静かに、頷く。
すれ違いさま、少女は呟く.....shootin' the..moon...。
「....え....。」multiは振り返る。
穏やかな微笑が、multiの瞳に映る.....。
静かな瞳。慈愛。
「.....。」どこか、安らぎを覚え、multiは。
ゆっくりと礼をし、静かに歩いてゆく....。
・
・
・
・
・
いつものように、LRTを降り、学校に向かうmulti。
どこか,落ち着かない表情。誰かを探しているようにも見える。
遠方、だらしなくスニーカーを引き摺る浩之。と、あかり。
「.....。」
その場を去ろうと。早足で。
「これで、いいのよね。これで....。」
...ひろゆきさんには、幸せになってほしいから.....。
multiの眦に、一筋の涙が伝う.....。
・
・
・
「あれ?」
「どうしたの、浩之ちゃん?」
「今の、multiじゃないか?」
「....そう、みたいね....。」
「なに、急いでんだ、あいつ。」
「........。」
・
・
・
・
....さよなら、をいわなくちゃ...。
....でも、わたし...いえない.....。
・
・
・
・
無為な時間は走馬灯の如く。
やがて、放課後がやってきた。
「転校!?multiがか?おい、それ、ガセじゃねえだろうな。」強い口調。
「なにいってんのよぁ。このスペシャル志保ちゃん情報に間違いなんでないわよ。」
脱兎の如き勢いで、廊下を走り去る浩之。
「は~、なーにあわててんだろ。あいつ。」
1-E、1-E は 何処だ!
階段を駆け抜け、一年のフロアへ、
1-C、1-D、1-E!
「multi、multiはいるか!」
「早瀬さんなら、今日は早退です。」
ショートカットの活発そうな女のコ。体操着で。
いつか、廊下の掃除をいっしょにやった子だ。
「そうか、ありがとう!」
言いきるか 言いきらないか、のうちに、廊下を駆け抜け、校外へ。
...と。
「あいつの家、どこだっけ?....。」
....そうか..俺、何も知らないんだな...あいつのこと。
歩調を緩め、思案している浩之の目前に、いつかの中年の男。
古臭い外套に、擦り切れた靴。
早瀬である。
「やあ、浩之君」
「,,,おっさん、なんで俺の名を。」
「早瀬、源五郎です。」
「!.....それじゃ。」
頷く、早瀬。
「ちょっと、話したいんだが....いいかな。」
いつかの公園のベンチへ。
広葉樹の枝が細く、寒々しく。
澄んだ青空に尖っている。
時折、風が渡ると、かさかさと音をたて、枯葉が舞いあがる...。
「転校って....。」
「うむ、ちょっと、私の都合でね、海外に行くことになった。
それで、娘を一緒に連れていこうと思うのだがね。」
「もう、日本には、戻らないのですか?」
「そうだな。2年になるか、10年になるか...。」
「じゃあ、multi、あ、いや、彼女は、ずっと....。」
「そういうことになるかな。」
「そう、です、か.....。」
「近いうちに出発すると思うが、娘が世話を掛けたね、有難う、浩之君。」
「いえ....。」
浩之の表情が曇る。
......もう、会えないのか!あの、笑顔に!。
......俺は、俺は、.....。
「お父さん!」
急に、そう言われ、早瀬は驚いて浩之を見る。
真摯に、早瀬を見つめる真っ直ぐな瞳。
早瀬は、固唾を飲む....。
「俺は、multiが好きです。離れたくない。」
「.........。」
「浩之君、君には、話しておかなくてはならないようだな、どうやら。」
「multiは、人工生命体だ。」
「!」
早瀬は、これまでの経緯を、手短に話す。
「そんな.....だって、multiは。」
少なからず、衝撃を受ける、浩之。
「うむ。制御系以外はほとんどヒトと同じだ。だが。」
「だが?」
「存在を、国家が認めない、というのだよ。」
「そんな、ばかな!」
「私は、繰り返し主張した。しかしな、頭の固い連中というのは
それを認めないんだな。『人間は特別の存在だ』とな。18世紀じゃあるまいし!
『神の冒涜』だともな。」
「.....。」
「そこで、私は学会を無視した。ところが、連中は研究所に圧力をかけた。下らん連中の
やることは いつも同じだ。」
「で、どうしろと?」
「研究を中止し、multiを学会で共同研究させろ。とな。まあ、手柄を横取りしたいんだ
ろう。」
「そんな!冗談じゃない!彼女は物じゃない!」
「無論、私もそう主張したんだがね。解っとらんのだよ奴等、『生きる』という意味が。
すでに生きているのだから、multiは。」
「なあ、浩之君。」
「はい。」
「いつか、君に聞いたな、『生きる』ってなにか、と。」
「....ああ、あのことですか。」
「あのときは済まなかった、本当に。」
「だから、いいんですって。」
「いや、学者連中ですら解らん難問だったと、反省しとるんだよ。少年の君には
ちと酷だった、とな。」
「そんなことないですよ。理屈、わかんなくたって、俺は生きてるし。」
少年らしい自尊心を見せる、浩之。
「うむ。その通りだ。」
「え....。」
意表を突いた返答に、浩之は驚く。
「生きるという行為に意味なんか無いんだ。本当は。生物学的には子孫を作れば
それで生きた事になる。自意識した瞬間『生』は始まるんだよ。」
「.....。」
「君だって、赤ん坊の頃は、『生きている』なんて実感なかっただろう?」
「....。」
「『意識』が生まれ、『知』が発生し、初めてヒトは生きている、と“考える”。それまでは、
生物としてaliveだというだけだ。そして遺伝子を後世に伝え、死んでゆく...。」
「....。」
「だがね、浩之君。ヒトは知能のある動物だ。自分が『生きた証』を残す事は生殖以外で
もできるだろう?」
「....そう、ですね。」
「本能は『自分のコピー』を残したい。文明は、言葉を作り、文字を作り、
音楽を作った。皆、自分の『生きた証』を残したかったからだ。」
「.....。」
「君も僕も、いつかは死んでしまうが、君の想い出は、子供が受け継ぐ。
そして、君の友達は君のことを憶えているだろう、いつまでも。」
「だから、私はmultiに、僕の全てを受け継がせよう、と思ったんだよ。
永遠に。」
「永遠に?」
「そう、永遠だ....。」
「multiは、私の全てを受け継ぐ『後継者』だ。」
「....?」
いつのまにか、夕暮れが。
烏やひよ鳥たちが、さえずりながら帰巣してゆき、夕陽は、今日にさよならを告げに来る。
「じゃあ、浩之君、いずれまた。“娘”にも会ってやってくれたまえ。」
「...はい....。」
浩之は、複雑な面持ちで、早瀬の背中を見送った。
研究所の前の、だらだら坂を暗澹とした気持ちで。
早瀬は、登る、一歩一歩。
.....間違いだったのだろうか。私の考えは。
.....multiの幸せは?どうすれば、いい。....。
その帰結は、既に用意されている...。しかし。
「ただいま、multi」
「...おかえり、なさい....。」
「彼に、会ってきたよ。」
「そう、です、か....。」
もう、呆然として、何も考えられない、という風な。
無理も無いことだ。初めての恋が、運命によって引き裂かれたのだから。
しかも、“永久に不変”な。
「あした、ここを出よう。」
「は...い....。」
「おとうさん。」
「....ん....。」
「わたし、きちんとお別れしてきたい。」
「...........。」
真剣な表情。
真っ直ぐに、早瀬の瞳を見ている。
「そうか....。独りで大丈夫か?」
「はい.....。」
静かにドアを閉じ、
廊下を遠ざかる足音が、細く、小さく。
その足音を聞き、決意を固めた早瀬。
封印してあった、multiの機能を解除した....。
それはまた、科学者としての自分への訣別を意味するものでもあった。
multi console login :root
password:
# cd /etc
#chmod 777 prgn.sh
#logout
悲痛な面持ちで、作業は終了した、
もう、賽は投げられたのだ。
「....ふう。」
すこし、ほっとしたような、憑き物が落ちたような表情で、
早瀬は、机の端にある写真立てを見、頷いた。
「これで、いいんだよな。これで。」
.
.
.
高台の住宅地の一角に、浩之の家はある。
On- Demand EV を降り、multiはひとり。
細い靴音が、暗い舗道に響いてゆく。
玄関先にたち、呼び鈴を押す。
浩之が。
「こんばんは....。」
「....multi....。」
「もう、会えないかと思ったよ。」
「...........。」
「とにかく入れよ、寒いから。」
「は..い。おじゃまします...。」
今日も、浩之はひとり。
いつものように、両親は多忙なのだ。
Living-room。
静かな、音のしない環境というのは、どこか緊張的なものだが....。
「俺、まだ信じられないよ。お前が...。」
人間じゃないなんて。
言葉を抑える、浩之。
「.....。
「でも、俺の気持ちは変わらないよ。ずっと。」
「ひろゆき、さん....。」
浩之の手を取り、胸に押し当てるmulti。
「あ、;;;; おい、何する;;;;.。」
慌てる、浩之。
「感じないでしょう、鼓動!私は、私は。それでも私を想ってくれますか!」
涙をためて、浩之を見つめる。
.....おねがい..私を嫌いにならないで.....。
浩之、肩をひきよせて。
「俺はお前が好きだ。たとえ、何があったとしても。
お前の寂しさも、哀しみも。全部、俺にわけてくれ!」
「ひろゆき、さん....。」ふっと、柔らかく、微笑む。
「愛、しているよ....multi。」
感涙に咽ぶ、彼女。
こんなに暖かく、柔らかい。
「生きて」いるのだ。
・
・
・
暗闇に浮かぶ起伏の少ない裸身。
狂おしい程の想いと、愛おしさで、浩之は胸が一杯だ。
・
・
・
・
・
・
・
薔薇の花弁はひそやかに
花芽を濡らし しっとりと
蜜の匂いを漂わせ
僕の心を 狂わせる
君は ほのかにさくらいろ
固い蕾は 春風に
ふるえるかのよに 揺れている...。
君の歌声
僕の指先 触れるたびに
愛を、奏でるヴァイオリン
ストラディヴァリの 音色よりも
切なく 優しく 香しく...。
漂う波間 ゆらゆらと
ゆれる気持ちで 想いを放つ
薔薇の花芽は 涙の雫
いっぱいためて ふるえてる....。
・
・
・
・
・
翌日。
靄が立ち込める朝。
ギンガム・チェックのカーテン越しの曙光。
浩之は、朦朧と。
......昨夜の出来事を、反芻し始めた.....。
「!」
階下に、駆け下りる。
Livingのテーブルに、置き手紙。
・
・
ひろゆきさん、ありがとう。
短い間でしたが、私はとても幸せでした。
あなたの幸せ、遠い空から祈っています。
multi.
・
・
・
・
「.......。」
手紙の文字に、彼女の顔がオーヴァーラップし、浩之は不覚にも
涙を零してしまった。
便箋の青インクが滲み、ひろがってゆく.......。
時が来れば、想い出は消え去る.....。
雲のように、風のように.......。
古い詩の一節を、ふと思い出す浩之。
想い出になんて、するものか!
俺は、俺は!
そう、誓いを立てた。
少年らしい、力強さで。
・
・
・
・
・
・
そして.....正午。
浩之は普通に登校し、いつものような屋上の風景。
飛行機雲が、くっきりと。
青空に、ひとすじ、まっすぐな。
「こ~ら、ひろ。何、ボーッとしてんだよ。」
「..........うるせぇなぁ。」
まっすぐ、ひとすじ。
....multiみたいだな。.....。
彼女の笑顔を思い出し、微かな痛みを覚える浩之であった.....。
「マルチちゃん、今頃飛行機の中かしら。」
「..........!」
「あかり、今、なんて?」
「飛行機の中かなって。」
「multi、もう引っ越したのか?」
「...さあ、今日じゃなかった、出発?ねえ、志保。」
「どーだったかなぁ。ああ、確かそんな事いってたような...。あ、おい、何処行くのよ!」
「まーた行っちまった、あいつ。鉄砲玉ね、ほんと。」
「.......。」
・
・
・
浩之は、走った。とにかく、一目、もう一目、会っておきたかった。
甚だ理不尽なようだが、ヒトのこころなどというものはもともと理屈では割り切れない。
自転車置き場のところで、サッカー部の垣本が、オートバイを磨いていた。
「おう、ヒロ、なんだ、慌てて。」
「バイク、貸してくれ。頼む。」
「...いいけどさ、壊すなよ、これ、アンティークなんだから」
流線型のグラマラスなボディ。
跳ねあがる美しいマフラー。
戦闘的なセパレート・ハンドル。
2-Stroke V型4気筒。500cc。
一時代を築いた、GPマシン・レプリカだ。
「じゃ、借りるぞ!」
「....おお。」
イグニッションをいれ、シフトを1速に。
クラッチを握り、半歩押しだし、ハーフ・クラッチ。
軽く、エンジンは始動し、そのまま飛び乗る。
ガソリンとオイルの混じった、排気煙が紫色。
5000rpmでクラッチをつなぐと、矢のように飛び出した。
前輪を軽々と持ち上げて、吹っ飛んで行く.....。
「それにしても、凄まじいな、これは......。」
前輪を持ち上げたまま、校門を飛び出し、坂を駆け下りていった....。
3速に上げる頃には、軽く100km/hを越えている。
レーン・チェンジを繰り返し、スロットルは戻さない。
公園通りの交差点。
2速に落とし、フル・ブレーキング。
腰をインサイド・フロントに落とし、ブレーキをリリース。
残しておいた荷重を一気に掛け、フル・スロットル。
88psは、容易にリア・タイアをスキッドさせ、マシンは綺麗な放物線を描く。
パワースピン・スライドという走法だ。
そのまま、前輪の浮きを伏せ身で抑え、シフト・アップ。
3速で、ピーク・パワーを得、またフロントが浮く。
だらだら坂を登ると、研究所が見えてきた.....
「お父さん.....。」
「さあ、multi、そろそろ空港に行くぞ。」
「はい......。」
明け方、戻って来たmultiを、早瀬は無言で暖かく迎えた。
全てを察し、しかし父親として、男として一抹の寂寥を禁じ得ず。
2ストロークの甲高いサウンド。ブレーキングのスキッド音。
間に合った。
「multi!」
「ひろゆき、さん.....。」瞳潤ませ、笑顔になるmulti。
「見送りに、来たぜ。黙っていくなよ、俺に。」
「やあ、浩之君、よく来てくれた、有難う。」
「悪いが、時間がない。浩之君、空港まで来てくれるか?」
「はい、そのつもりです。」
廊下に出ようとすると、北白川所長が、そこに。
「早瀬、何処に行く。」
「.....北白川!」
「学会から、君達を国外へ出すな、と連絡があってな。」
「北白川、行かせてくれ、multiが、奴等に拉致されてしまう。」
「ここを通すわけにはいかない。」
「北白川!multiを連中に渡すつもりか!」
「気でも狂ったか、早瀬。そいつはお前がプログラムした機械だろう。
お前は、人生を棒に振るつもりか!」
「multiは、機械じゃない!『生きて』いるんだ。お前と俺のように。」
「ははは。すっかりいかれてるな。頭を冷やせ。さあ、部屋に戻るんだ。」
「くそーっ。」
浩之は、北白川に殴りかかろうとする。..と。
「おやめになって!」
「芹香!」
「先輩....。」
「その子を、いかせてあげて、お父さま!」
「口をだすんじゃない!」
「いいえ、お父様は間違ってるわ。すべてのものには魂が宿っているのよ。
邪悪な心に天は処罰を与えるわ。いつか、必ず。」
「なにを馬鹿なことを。」
「どうしても、というのなら、私はこの場で死ぬわ。お父様。
私の命に代えても、譲ることはできないわ。」
懐から、短い白刃。
「....。」力尽きる、北白川。諦めの表情。
「先輩、有難う。」
「ありがとう、せりかさん!」
「お嬢さん、この恩は忘れない!」
静かに微笑む、芹香。
「さあ、行くぞ!」
玄関から外に出る、と....。
「早瀬源五郎さんですね。」中肉のがっしりとした男、スタンド・カラーの革灼・。
「だれだね、君は。」
「科学技術倫理審査委員会の者です。ご同行願えますか?」
「君はなんだ、無礼だぞ。」
「あなたには動向監視命令が出ています。さ...こちらへ...うっ!」
背後より、浩之、インディアン・グリップで仁王立ち。
「浩之君....!。」
「君、自分のしていることが判っているのか!」
男、鋭い視線。
にじり寄る......。
「待て!」
張りのある、声、力強く。
空手着に、防具をつけている。
どうやら、格闘家のようだが.....。芹香にそっくりだ。
「あやかさん!」
「お嬢さん!」
「ああ、早瀬さん、ここは私に任せて。
お父様の車を使うといいわ。」
キーを放り投げる、綾香。浩之がそれをキャッチ。
「さあ、行きましょう。」
「こら、早瀬!待て!」
「おっと、あなたの相手は、私よ。それとも、警察でも呼ぶ?呼べないわよね...。
おとなしくしてたら、何もしないわよ.....。」
不敵に笑う、綾香。
強者の持つ、危険な雰囲気を全身に漂わせ、
周囲を圧倒している。
一応は勘が働くのか、おとなしく諦めた委員会の男だったが....。
・
・
・
・
半地下のパーキング。
そこに、マシンは眠っていた。
低い、地を這うようなノーズ。
ティアドロップ・キャノピーの3次曲面グラス。
強い、ウエッジ・シェイプ。
コーダ・トロンカ・テイルは1960年風な処理。
Italian-redの ボディは流れるように....。
「凄い車ですね...。」
浩之は、ガル・ウイング・ドアを
開け、太いサイド・フレイムをまたいで座席へ。
早瀬は、イグニションを入れる。
長い、猫の鳴き声のようなスターティング・モータの響きの後、
12シリンダー・ユニットが目覚める。
衣擦れのようにしなやかなエキゾースト・ノート。
思わず、浩之は耳を奪われる。
すこし、乱暴にクラッチをつなぐ。
トリプル・プレート・メタル・クラッチが激しく摺動音を立てる。
5.2リッター、DOHC V12シリンダーは、天使の歌声を奏で始める。
475psが、叩きつけるロード。
テイルを振り、斜めに滑りながら、発進。
直ぐに1速は使い果たしてしまう。
カウンターを軽く当て、早瀬は右手で2速にシフト。
既に、制限速度の2倍は軽く超過している。
ランプウェイより、Freeway-Line #3に流入。
「.....早瀬、さん?」
浩之は心配になる。大丈夫かな、このヒト。
「ああ、心配するな、こう見えてもな、君の頃には“立派”なRollin' kidsだった。
工学部に行ったのも、機械が好きだからだ。」
「でも.....。」
「こうなったら、法律なんぞクソクラエだ!私はmultiを守る!私は『父親』なんだ!」
そう叫ぶ、早瀬の頬に一筋の涙。
会心の、微笑み。
抑圧からの、解放.....。
内なる攻撃性の、発散......。
3速にUP。
赤い跳ね馬は、天馬の如き早駆けで。
Freeway C1は、空いていた。
リア・ヴュー・ミラーに、閃光が見えたような気が。
「今、何か光りませんでしたか?」
「....来たか。」
遥か後方、ヘッドライトを光らせた車が、ぐんぐん近づいてくる。
「すこし、飛ばすぞ...。」
「連中だ。」
「どうして...。」
「力ずくで、阻止するつもりらしい。表向きは『技術の流出を防ぐ』とかいってな。
奴等は、どんなことでもするんだ。本当に....。」
シフト・ダウン。
フル・スロットル。
レヴ・カウンターが一気に跳ね上がる。
475psが、トラクションを超え、一瞬、リア・タイアがスライドする。
爆発的に、3速はレブ・リミットに到達する。
周囲の景色が、ヴィデオの早回しのように後方に飛び去って行く。
最早、スピードメーターはフルスケールを示し、速度を知る手がかりにはならない.....。
すばやく、4速に。
速度は、Linearに増加する...が。
リア・ヴュー・ミラーの光芒は、大きくなってきたようだ....。
4速を使い果たし、5速へ。
6速に入れようと、シフト・ノブに触れた早瀬の右手が、硬直する。
サイド・ウインドウ越しに、シルヴァー・グレイの流面形。
「しまった....。」
死んだ金魚のような、グロテスクなフェイス。
水平対向6気筒、ターボ過給特有のサウンド。
「意外に、速かったな....。」
連中だ。
こちらを睨んでいる。
早瀬は、シフト・アップをせずに、そのままスロットルを踏みこむ。
一瞬の、オーヴァーレヴ。
過給エンジンには不可能な芸当。
V12ユニットは、悲鳴を上げる。が、鍛えられた心臓は
この程度ではびくともしない。
レーサーの、レーサーたる所以だ。
(本来、レーサーとは、マシンそのものを示す)
僅差で、ノーズを抑え、フロント・ロゥへ。
電光石火の早技で、6速に。
トップ・スピード領域では、空力に勝るこちらに分がある。
しかし....。
Freeway C1は この先で分岐している。
ほぼ、T字型にカーヴしているために、150km/h程度には減速が必要だ。
テイル・トゥ・ノーズで、ぴったりと付いて来る。
スリップ・ストリームで空力を補うつもりだろう。
多分、コーナーの手前で、インに出るはずだ......。
フラット・アウトのまま、ベイ・ブリッジが近づいてくる。
コーナーが近づく。迫る。目前!。
インサイドに、シルヴァーのノーズが見えた!
やはり、イン狙いか。
Brake!
アウトサイドぎりぎりを、舐めるように。
Bremboが、カーボン・ディスクローターを咥える。
火花が飛び散る。
と....。
ブレーキを緩め、早瀬は緩やかにインへステアリングを切る....。
「....?」
なだらかな、ヨー・モーメントが、発生する。
インサイドの、シルヴァー・グレイは、フル・ブレーキングの最中に寄ってきたマシンに
驚き、一瞬、ステアリングを動かしてしまった....。
激しいヨーが発生し、テールアウト。
RR駆動の最大の欠点。
スロー・モーションのように、回転し、コンクリート・バリアに吸いこまれる
シルヴァー・グレイ......。
綺麗なサイド・フォース・ドリフトで、コーナー・アペックスを舐める赤い跳ね馬。
「やったぞ!はっはぁ!」
子供のように笑う、二人。
ドライヴァーズ・シートとナビ・シートで、右手と左手で握手。
その情景は、真の親子のようであった.....。
天使の歌声、前途を祝福するかのように高まる....。
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ざわめきと、硬質な残響。
識別不能な言語が交錯する音場。
「じゃあ、ここまで、だな。」
空港ロビー。
搭乗口。
「卒業したら、きっと、行くから!待ってろよ!」
multiは、もう、言葉が出ない.....。
俯いたまま、ハンカチ-フを顔に当てている。
いつかの、木綿のハンカチーフだ。
浩之は、これまでの駆け抜けてきた日々を回想した....。
雪の朝の出会い。
屋上の陽だまり。
初めての....。
胸の奥が、どこか締め付けられるような、想い....。
目の前の、ちいさな女の子が、誰よりも愛しく、何よりも美しい。
そう、こころから思った。
「ひろゆき,,,,さん..あり、が、とう。」
やっとの思いの、一言。
涙で一杯の、笑顔。
浩之は、仕切りのチェーン越しのmultiのみみもとに....。
「愛、してるよ。」
自然に、本当に自然に、口をついて。
multiの笑顔が、大輪の向日葵のようにほころんだ。
その涙、朝露の如く輝いて。
虹の煌きで、二人を彩る......。
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そして......
一年後。
浩之は、いま、異国の地に立っている。
オリーブ畑に、南風。
さわやかに、こだちを渡る。
深い群青の、空。
純白の、壁。真紅の屋根。
オレンジの香りがする....。
はじめての風景に、とらわれる心。
こんなに美しい風景が、地球の上にまだあったのか!
昂ぶり。
それは、久しぶりに「恋人」に逢える喜びのせいもあったかもしれない。
土が剥き出しの田舎道を、歩きながら、予感と期待に打ち震える浩之であった。
やがて、目指す建物が見えてきた。
研究所というより、ほとんど古い農家のように見える。
白い壁を、赤い屋根は、周囲と全く同化している。
庭のような一角から、ひとりの男が、顔を綻ばせた。
「やあ、ようこそ、浩之君」
早瀬源五郎。
健康そうに日焼けして、別人のようだ。
「おじゃまします。」
「ああ、よくきたね。お待ちかねだぞ。multi、multi!」
「はい、おとうさ...ひろゆきさん!」
multiは、幾分大人びたような雰囲気で。
それでも、大輪の向日葵のような笑み。
家の方から、泣き声が。
「?」
「ああ、ごめんねごめんね、起きちゃった?」
multiは、赤ん坊を抱き上げる。
碧の髪の、可愛い赤ん坊。
表情は、どこかmultiのようだった.....。
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「早瀬さん?あの子....。」
「ふふ....。
「私の孫、かな。まあ、multiの子、だから。
嫡子とは認められないがね。法的には。」
「どうなってるんですか?」
「私のゲノムを解析し、multiの受胎因子を遺伝子工学的に合成した。まあ、技術的には
それほど難しくはない。倫理的な問題がクリアできれば。」
「はあ......。」浩之、俯く。
「で、委員会の連中は私を迫害した。だから私はためらうことなく実行できた。
もっとも、科学者生命は絶たれたがね。」
「でもね浩之君、私は、今、幸せだ。家族がいて、毎日が楽しい。
それだけで 生きていてよかった、と思える。ヒトの幸せなんてのは
プリミティブなものだ。」
早瀬は、南の太陽を仰いでそう告げた。
「まあ、パイオニアはいつも苦労するのさ。
僕の前に道はない、僕の後に道は出来る。
“見る前に跳べ!”だよ、 はっはっは!......。」
「早瀬、さん?...。」
浩之は戸惑う。
.....どうなってんだ?、一体。^^;
.....そうだ、multiは?
浩之は、小屋の裏手に回ってみた。
オリーブの畑を望む、陽だまりにラタンの揺り椅子。
芝生と、香草の花壇...。
我が子を抱え、すやすやと眠るmulti。
その情景、宗教絵画の如き神々しさ。
浩之は、眩みを覚える。
聖母、生誕......。
午後の陽ざしは饒舌に、愛の甘さを語り出す.....。
偏西風はさりげなく、恋の想いを醸し出す.......。
Love , Renaissance ......
21世紀の、レオナルド・ダ・ヴィンチたちは、
今、歩み出す......。
とりあえず....了。