5-1 黒魔女、覚悟を決める
遠くで、扉が開く音がする。
「…い……!」
足音が、石の床を打つ。
「…ろ…! おい…!」
____すぐ近くで、声が呼んでいる。
「いつまで寝ているつもりだ、この黒魔女め!!!」
「っ!!」
腹部に走る、鈍い衝撃で私は目を覚ました。目を開けば、鉄製の脛当てのようなものが、外からのうけて鈍く光っているのが視界に映った。
……どうやら、これでお腹を一発、ガツンとやられてしまったらしい。
「……眠っているレディに暴力を振るうなんて、随分乱暴な殿方じゃない。一から騎士道精神を学び直してきた方がよろしいのではなくて?」
起き上がりながらそう憎まれ口を叩くと、兵士は、大きく右手を振り上げてバチンと私の頬を殴った。
「黙れ黒魔女! 貴様がレディなどと、笑わせる。黒魔女に人権などあると思うなよ」
「……っ」
焼けるような痛みを訴える左頬を抑え、私はギロリと兵士を睨みつける。
ああ、そうだよな。普通の人間は、私のことなんて、黒魔女なんて人間とも思ってないんだ。だからコイツらは、嬉々として黒魔術師の首を跳ねる。
……正義の名の下に。
どうやら兵士は私の目つきが気に食わなかったらしい。「何だ、まだやるか?!」とまた手を振り上げた。
衝撃に備えて、ギュッと目を瞑り、歯をくいしばる。
「おい、その辺にしておけ」
しかし、衝撃がもう一度頬を襲うことは無かった。兵士の後ろにいた、水色の髪の青年が、彼の手を取ったのだ。
……青年は、私を侮蔑するでも憐れむでもなく、ただただ無機質な、無感情な空っぽの瞳でこちらを見つめていた。
「おはよう、エレナ・ブラッディ。俺の名前はシド・ヒュドール。貴様を今から、処刑台へと連行する」
……シド様は、やはり淡々とした口調でそう告げた。
シド・ヒュドールの名前は、私は学園時代ルース様からよく聞いていた。
…大体の場合、悪口とセットで。
どうやらルース様とシド様は所謂ライバルポジ、というやつらしく、事あるごとに喧嘩してはいがみ合っていたらしい。そして思い出してみれば、私はルース様の話を聞く前から、彼の名前を知っていたのだ。
シド様は、アランやルース様、エヴァンと同じようにマジラヴァの攻略対象だった。
年齢は主人公の一個上。
つまり私の一個上でもある。
同学年で幼馴染のルース様とは違い、成績優秀な青年で、絵が得意。
一方人付き合いは苦手で、口調もそっけない。
いわゆるクール系、ツンデレ系というやつだ。
まぁ、基本的にはドライだが、イベントを進めると段々甘える姿を見せるようになる。この甘え方がまた可愛くて、彼には多くのファンが付いていた。
ちなみに彼の家、ヒュドール家もまた、エレミア王国の中では有数の勢力を持っており、五剣の一つに数えられている。
ヒュドール家は代々水魔法の使い手が多い。そしてもちろん、シド様が扱うのもその水魔法だった。魔力量はそこそこだが、彼は何より詠唱が上手く、攻撃の速さは五剣一。
ルース様とシド様だけは敵に回してはいけないというのは、学園内での暗黙の了解だった。
一度彼らに正々堂々喧嘩を売ったボンボンのバカがいるらしいが、次の日泣きながら退学届けを出したという。
そんなシド様も、去年卒業と同時に家督を継ぎ、今はルース様と共に王の下で働いている。
……そしてどうやら、今回のお仕事は、罪深き黒魔女のお迎え……ということらしかった。
って、ん??
待て。待て待て待て。ちょっと待てよ、冷静になってみればこれ、おかしくない?
「あ、あの……スミマセン、今何時ですか?」
「……? 十一時半だが」
不思議そうな顔をしながら、シド様は懐中時計を見せて時間を教えてくれた。
時計の針は確かに、文字盤の6と11を指している。
「うわぁぁ……」
最悪だ。寝落ちした。
どうやら脱出方法を考える内に、いつのまにか寝てしまっていたらしい。
そう、認めるしかなかった。
証拠に、石畳にはよだれの跡がくっきりと残っている。追い込まれている割に、私というやつは随分ぐっすり眠っていたようだ。
……完全にやってしまった。
絶望感に打ちひしがれながら、私は頭を抱える。
……なんだろう、この状況……そう、例えるなら、テスト前夜に徹夜で勉強するつもりが、気がつけば朝だった時みたいな。
いやまぁ、現状は、そんな可愛いもんじゃないけど。死亡フラグ、ビンビンだけども。
「いやぁ愉快ですねぇ」
「黙りなさい捻り潰すわよ」
いつのまにか耳元をふよふよ漂っていた悪魔の楽しそうな声を、小さな声でそう切り捨てる。すると悪魔は、またけらけら笑って、スゥッと姿を消した。
……姿を消せるのか。便利な奴だ。
シド様は、露骨に苛立った様子を見せる私を、水色の瞳で無感情に見下ろしていた。
「おい、早く枷を外せ。もう時間がない」
シド様が淡々とした口調でそう命じると、兵士は「はっ」と敬礼をして、私の手をとり、枷に鍵を差し込んだ。
枷が、外されていく。
……さて、どうするか。
本当の本当に、追い込まれてしまった。
最早時間も猶予もない。今、ここで、何か手を打たなければ、あとは処刑台に送られてジ・エンドだ。
私を牢に縛りつけていた枷は次々と音を立てて硬い床に落ちていく。
最初に右手。次に左手。右足……そして、左足。
最後の枷がガチャリ、と音を立てて外れたところで……
私は、覚悟を決めた。
「“メナ・イグニス“!!」
あえて大きな声で呪文を唱え、私は立ち上がって部屋の隅へと駆け出す。
勿論呪文に効力なんてない。
これは虚をつく為の、ただのハッタリ。
「なっ、捕らえろ!!」
シド様の声が、牢獄に響く。その声は、明らかな動揺の色を帯びていた。
……そう、それで、十分だ。その動揺が、一瞬の隙が欲しかった。
私はニヤ、と小さく微笑んで、素早く目の前の蝋燭を取り……
それを思いっきりシド様へと投げつけた。
「っ!シド様!!」
蝋燭の火は、風圧でいとも容易く吹き消える。……しかし、一瞬兵士の目は、しっかりとシド様の方へと引きつけられていた。
____しめた!
勝利を確信した私は、地面を強く蹴り、光の方へと駆け出す。そして、兵士の間をすり抜け、出口へと手を伸ばした。
その時だった。
……突然、私の体が、宙を舞った。
「っ?!」
驚く声を上げる間も無く、私はズシン!とみっともない音を立てて、固い床へと叩きつけられる。そして気がつけば、私の両手はしっかりと捻りあげられ、体はシド様の細い腕で地面に取り押さえられていた。
「……甘い。俺から逃げられるとでも思ったか」
「……いっ!」
苦痛の声を上げる私を冷たく一瞥し、彼はまたギリギリと私の腕を捻りあげる。
「っああ……! 痛、い……痛い痛い痛い!!」
関節の軋む音がする。身動きなんて、一つも取れない。彼は折れるか折れないかの絶妙な力加減で、私の腕を捻りあげていた。
圧倒的な力の差を、これでもかと見せつけられている。
「聞け。次、反抗したら俺はお前の四肢の骨を容赦無く砕く。……いいな?」
「……っ!」
…私は仕方なく、唇を噛んで、小さく頷いた。
__悟ったのだ。彼には、敵わないと。私にもう未来は無いのだ、と。
腕を引かれ、私はその場に立ち上がる。
悔し涙が、密かにポツリと床に落ちた。
……落ちた三滴の涙は、まるで泣き顔のような模様のシミを描いていた。
それを見るとなんだか余計に惨めな気持ちになって、泣くのを必死で堪える。
……きっと今も、悪魔は笑っているんだろう。
「手を出せ」
「……」
命令に従って、そっと手を出せば、重たい手枷がまた私の腕にかけられる。
手枷の質量感は、私の心に鉛のように重くのしかかる。
シド様は、しっかり手枷がはまったことを確認すると、直々に私の鎖を手に握った。どうやら、私がまた逃げ出すことを警戒しているらしい。
……そんなこと、したくたってもうできやしないのに。
彼は手枷の鎖をぐいと引っ張り、歩き出した。
勿論、私もそれに引っ張られるようにして牢を後にする。兵士は、私の後ろをニヤニヤ笑いながらついてきていた。ざまぁみろと言わんばかりの笑顔だ。普段の私なら、後ろから回し蹴りを食らわせてやっただろうが、生憎そんな元気はない。
……はち切れんばかりの真っ黒な絶望感と、無力感だけが、今の私の心を支配していた。
蝋燭の炎の小さな灯りが、地下の廊下を照らしている。薄暗くジメジメしたその道をしばらく行くと、上へと繋がる階段があった。
上の方からは、眩い陽の光が差し込んでいる。
「処刑場へ直接繋がる階段だ」
機械的にそう言って、シド様は先に階段を登り始めた。
……私は、その場を動くことができなかった。
怖かったのだ。今から訪れる、死というものが。この階段を登りきれば、ギロチンが私を待ち構えている。
……今から、それに首を刎ねられる。
自分の死は、もうすぐそこにあった。
それを意識すると、無性に体がガクガクと震えだす。
……きっと私は、無意識のうちに自分自身の心にフィルターをかけていたのだ。死を、直接見なくて済むように。実感しなくていいように。自分の心をごまかした。強がりとも言える。
……だから今の今まで平気でいられた。
しかし、死への階段を今、この瞬間目にした途端、死は目の前にいるのだと分かってしまった。今だって死は、私のすぐ目の前に横たわって、こちらをおいでおいでと手招きしているのだ。
……それに向かって、一歩を踏み出すなんて。
私には、できない。
私の足はその場に止まったまま、とうとうまるで、痙攣しているようにガタガタとみっともなく震え始めた。
シド様はそんな私を見て小さくため息をつき、鎖を強く引く。
「モタモタするな、早くしろ」
仕方なく、ズルズルと引きづられるように、私は少しずつ歩き始める。
……地上へ出ると、そこは王城の前の中央広場だった。
私も何度か、来た事がある。
最後に訪れたのは……卒業パーティに、出席したあの日。
ああ、もしあそこで参加を拒否していればのなら、きっと、こんなことには、ならなかったのに。
惨めに鎖に繋がれることなんて、きっとなかったはずだ。
……今更遅い後悔が、私の頭の中をぐるぐると渦巻く。
広間には、多くの民衆が集まっていた。
王家のことだ。どうせ『黒魔女を処刑する』と大々的に触れ回ったのだろう。得意げなアランの顔が目に浮かぶ。
「死ねこの黒魔女!!」
「地獄に落ちろー!!」
民衆は私の姿を見るなり、そう口々に罵声を上げ始める。その内石を投げる者まで現れた。
だが、どれだけ彼らが私を詰ろうと、どれだけ石を投げつけようと、それが私の心を殺すことはない。
……私の心は、もう死んでいるのだから。
礫に打たれながら、私は処刑台の階段を上がる。
一段登れば、私の首を狩る死神の頭が見えた。
二段登れば、鋭い刃の先が見えた。
三段登れば、ナニカを片付ける兵士の姿が見えた。
そして、階段を全て登れば。
……血の海に沈む、誰かの死体が見えた。
「……っえ?」
言葉を、失った。
一瞬、夢を見ているのかと思った。
いや、夢であって欲しいと願った。
目の前の光景が信じられなくて、目を何度も何度も擦る。
……しかし、いくら擦れど、目に映るものが、変わることはなかった。
そこにあったのは、二体の首無し死体。
一つは真っ黒なドレスを着た、女の死体。その細い指には青いサファイアの指輪をはめている。
もう一つは、黒の燕尾服姿身に纏った男の死体。そして指には、ドレスの死体とお揃いの指輪。
……それらは、ブラッディ家の者が代々受け継ぐ、蛇の紋章が入った指輪と、そっくりだった。
……黒魔法は、関わるだけで即処刑される禁忌の魔術。……その始祖の家系を、王家はずっと探していた。黒魔術師という悪のトップを、殺すために。
脳がゆっくりと、残酷な事実を呑み込んでいく。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
そんなはず、そんなはずがない。
こんな事が、あっていいはずがない!
その場にへたり込み、涙と嗚咽をこぼしながら、私は否定する。
現実を、拒絶する。
「ハハ、おいおい泣くなよ黒魔女様ぁ?心配するな。お前もすぐ、両親と同じところに連れてってやる」
兵士は後ろでそう、下卑た笑い声を上げた。
……そしてその瞬間。
死んだ心が、再び燃え上がるのを、私は、確かに感じたのだ。
「……殺して、やる」
この日。罵声と怒号と嘲笑が入り乱れる断頭台の上で……私は、覚悟を決めた。
ちょっぴり鬱ですが次の次あたりからシリアスは死にます