4-1 黒魔女、禁忌を犯す
悪魔という存在は、この世界のタブーの一つだ。
その存在を口にしてはならず、目にしてはならず、もちろん喚んではいけない。
……悪魔との契約は、契約者に破滅をもたらす。
それは死だったり、或いはそれ以外のもっと絶望的な何かだったり……ともかく、契約者はロクでもない結末を迎えるのだ。
だから国は悪魔の存在を徹底的に『消去』した。悪魔を殺し、契約者を牢にブチ込み、文献を燃やし、関わった人間の記憶を消した。そのおかげで今、悪魔について知るのは国のお偉い様の一部だけだ。
ならどうして、私が悪魔の存在を知っているのか。
答えは簡単。私が黒魔女だからだ。
何を隠そう、悪魔の召喚は、もともと黒魔術の分野、闇魔法の一端である。
自分の望みを叶えるため、遥か昔から、多くの黒魔術師が悪魔と契約を結んできた。そしてある者は特異な力を、ある者は叡智を、ある者は国をも呑み込む強い魔力を手に入れた。
……しかしその誰もが、与えられた力に溺れて死んだ。
最後に微笑むのはいつだって悪魔だった。彼等は私達人間を、餌としか思っていないのだ。次第に黒魔術師も、悪魔召喚からは手を引くようになった。
悪魔は、ただの知識の上だけの存在と成り果てたのだ。
勿論ブラッディ家も、この流れに乗って大昔に悪魔召喚の研究からは手を引いている。今では屋敷の地下室に数冊本が残っているだけだ。
……まぁ、そのページが今、何故か私の手元にあるわけだが。
「えっと、魔法陣はこれでいいわね」
そう呟きながら、私はページの絵と、冷たい石畳の床に描いた魔法陣をじっくり見比べる。
……うん、初めてにしてはなかなか上手く描けたんじゃないだろうか。
そう満足げに微笑み、インクで濡れた指を拭った。
……私はこれから、禁忌を犯す。
エヴァンが『プレゼント』と称して贈ってきたこのページ。悪魔の召喚方法が綴られたそれを受け取った私は……悪魔を呼ぼうと、決めたのだ。
主な理由は二つある。
一つ目の理由は、処刑の日が近づいてきているから。具体的に言おう。明日だ。明日の昼十二時ぴったり、私の首は飛ぶ。そろそろ本格的に手を打たなければ、私は冗談抜きで死んでしまう。
二つ目の理由。処刑は明日だというのに、一向に脱出方法が思いつかないから。どちらかというと、こっちの方が理由としてはデカイ。なにせもう一週間近く悩み続けているのに、逃げる方法が一向に思いつかないのだ。障害を自力で乗り越える、その方法が分からない。
だから。だから、私は仕方なく、本当に仕方なく、エヴァンが垂らした蜘蛛の糸に掴まる事にした。
つまりはヤケである。
私はヤケで、ダメ元で、ワンチャンあればいいな、なんて……そんな軽い気持ちで、悪魔を喚ぶのだ。
「それにしても、エヴァンはどうしてこんなものを持っていたのかしら……」
いや、そもそも、彼がこれを持っていること自体がおかしいのだ。
この本は、秘密の地下室の本棚の端っこに置いてあった。屋敷の地下室の入り口には、家の者しか分からないような仕掛けが施してあるし、いくら幼馴染で、何度も家を訪ねてきたことがあるからといって、エヴァンがそれを知るはずもない。
疑問はまだある。
何故、アイツは私にこのページを渡したのか。
純粋な好意かとも思ったが、そんな考えは二秒で吹き飛んだ。
…アイツはそんな優しさを、甘さを持ち合わせた男じゃない。
エヴァンだって一応、五剣の一人なのだ。国を脅かす私という存在を、立場上許していいはずもないし、そういう風に育てられている。家の名誉の為なら、アイツは私を平気で切り捨てるだろう。
なら、何かの罠か?いや、でも向こうのメリットは?
……ない。
私を悪魔と契約させて、利用するつもりかとも思ったが、潔癖主義の国が悪魔なんてものを使うはずがない。たとえ黒魔女を間に挟んでいるとしても、彼らは悪魔のヤバさを身に染みてよく知っているはずだ。
……分からない。全く読めない。一体アイツ、何のつもりで……。
「……っあー、やめた!分からないものは分からないもの。考えたってどうしようもないわ」
ぐるぐる巡る思考に終止符を打つように、頬を叩いて喝を入れる。
……それに、どれだけ考えても、結局のところ私には、この道しか残されていないのだ。ぐじぐじ悩んで、尻込みしていても仕方がない。
……覚悟を、決めなければ。
描き上げた魔法陣の中心部へと立つ。手は小さく震えていた。
……やっぱり、いくら言い聞かせたって怖いものは怖いらしい。
震える体をいなすように、グッと拳を握りしめ……私は、そっと反対側の手袋を外した。
そして、歯を、指に突き立てる。
「痛ッ」
傷口からぷっくりと滲んだ赤い血は、ゆっくりと白い指を伝い、魔法陣の中央へと滴り落ちていく。
息を吸う。
息を吐く。
大丈夫、大丈夫。
だって何度も練習した。
きっと、上手くいく。
そう自分に言い聞かせ、私は頭の中に呪文を思い浮かべる。何度も何度も練習したあの言葉。
……禁じられた呪文を。
「来たれ、地獄を抜け出しし者よ。汝、夜を支配する者、汝、闇に棲み昼を疎む者……、っ!」
最後の言葉を紡ごうとしたところで、突然、ぞくりと何か冷たいものが背筋を駆け抜けた。足元を見れば、黒いインクで描かれた線が鈍く光り始めている。
「…くっ…」
……魔法陣の輝きが増し、紅い閃光を放ち始めた。牢の中に渦巻く強い魔力がピリピリと肌を刺す。
ああ気持ち悪い。不快だ。怖い。吐きそう。
全身が警告している。その先を唱えるなど。その名を呼ぶなと。まるでこの場にいることを拒むように、胃が吐き気を訴えている。
……これが、悪魔召喚。
なるほど、確かにキツイ。
強すぎる魔力の所為で、頭はグラグラするし、気持ち悪いし、寒くて鳥肌は立ちっぱなしだし。
……なにより、この恐怖感。深い深い闇に、自分の心が落ちていくような錯覚にすら陥る。
きっと純粋に、本能が怖れているのだ。
今から現れるであろう、悪の怪物を。
自分の中の恐怖を紛らわせるように、私はさらに強く拳を握りしめる。
そして、高々と声をあげた。
「月の庇護の下、我が黒き魂と契約を結ばん!いでよ、悪魔!!」
……魔法陣の中央に、一際強い閃光が立ち上る。閃光は光の柱と変わり、部屋を呑み込んでいく。
眩しい。何も、見えない……!
眼球の奥の奥に焼け付くような眩い光に、反射的に目を閉じようとした、その時だった。
地を這うような、男の低い声が聞こえたのは。
「……ああ…酷い……酷い目覚めだ…」
声の主が、そう酷く不快げに言う。すると魔法陣の光が、まるで役目は果たしたと言わんばかりに、だんだんと小さくなりはじめた。光は中央に向けて収束し、やがて完全に消えてしまった。
後に残ったのは、元の暗闇と、冷たい静寂。
……って、あれ?
「あの……悪魔、いなくない?」
そう。そうなのだ。本当なら、少なくともあの本のページの通りなら、魔法陣の中央にポンッ★と悪魔が現れている筈なのに、そこには見える限り何もいない。悪魔の『あ』の字すら、影も形もないのである。
あ、あれ、おかしいな……??
声……したんだけどなぁ……??
「ま、まさか失敗……した?」
逆五芒星の中央へと駆け寄り、色々と調べてみるも、やっぱり何もいない。
あるのは色味のない石畳の床だけだ。
う、うそ……!?じゃあ本当に、これは失敗……
「してませんよ、残念ながらね」
「っ!?」
背後からした声に、考えるより早く、体は反射的に反応していた。息を吐く間も無くぐるりと振り返り、声のした方に目を凝らす。
確かに、そこには『何か』がいた。
……ふわふわと辺りを漂う、緑色をした、小さな小さな、埃のような何かが。
「……どうも、はじめまして。悪魔です」
「……はい??」
一瞬、自分の脳のバグを疑った。
評価、ブクマありがとうございます。嬉しいです。国盗り復讐劇の開幕まであとちょっとです。