9-1 黒魔女、連れ去られる
黒猫といえば、この世界では不幸の象徴、魔を呼び込む邪悪な生き物だ。
特に黒猫は黒魔女の使いとされ、人間に毛嫌いされてきた。そのため街にいる野良猫の大半は黒猫で、この世界では猫を拾う人なんてほとんどいない。
拾うとすれば、それはよっぽどお優しい人か、相当な変人かのどちらかだ。
私を拾ったこの青年が、そのどちらかは知らないが。
青年の腕の中で揺られながら、私はぼうっとそんなことを考えていた。
路地裏で、彼に確保されてから三十分。
私が連れてこられたのは、ボルノワの隅の小さな古いアパートだった。
……どうやらここが、青年の自宅らしい。
「ちょっと待っててくれよ…」
そう言うと、青年は片腕で私の小さな体を抱きとめながら、カバンから鍵を取り出し、それを錆びかけた鍵穴に差し込んだ。
玄関の扉が、ギィッと嫌な音を立てて開く。
「今日からここがお前の家だ」
青年の声と共に、私はそっと、リビングのラグマットの上に降ろされた。
埃一つない床。整頓された机。
お行儀よく整頓された本棚。
蜘蛛の巣が張っていた外とは違い、中はしっかり掃除されていた。綺麗好きなようだ。
「シャワーを浴びてくる。
……ちょっとだけ待っててくれ」
そう、安心させるような優しい手で私の頭を撫でると、青年は部屋の奥へと消えていった。
「にゃあ」
可愛らしい鳴き声が、静かな部屋に響く。これがため息だなんて、まさか誰も思わないだろう。
流石の私も、誰かに連れ去られるとは考えもしなかった。いや、そもそも黒猫なんて拾うほうがおかしいんだけど。しかもここはアパート。黒猫なんて飼っているとバレた日には、近所から大ブーイングを食らうこと間違いなしなのに。というか、下手をすれば「不吉だ!死ね!」なんて近隣のおばさま方に殺されかねない。
……やっぱりここにいるわけにはいかない。
早く逃げよう。
想像してしまった光景にぶるりと体を震わせ、心の中でそう固く決意する。
まぁそうでなくても、薬の効果はどうせ二十四時間しか持たない。本当の姿を見られるまえに、どちらにせよここから逃げなくてはならないのだ。
魔法の使えない私と、彼。
どちらが強いかなんて一目瞭然、取り押さえられて自警団に突き出されるのは目に見えている。
____とりあえず、彼がシャワーを浴びているうちに、逃げられそうな場所を探してみましょう。
とにかく、行動しないことには始まらない。私はぴょんっと地面を蹴り、リビングのローテーブルの上に乗っかった。あたりを小さな瞳でぐるりと見回してみる。
窓は……鍵がかかってる。
玄関は……まぁ、この身体じゃ開けられないよな。それに、さっき彼が鍵をかけるのをちゃんと見た。
めぼしい出入り口は、全て封鎖されているみたいだ。いくら古いアパートとはいえ、壁に穴が空いてたりはしないだろうし……。
____まぁ、そう上手くはいかないか。
まだ時間はある。彼がボロを出してくれるのを待とう。猫は俊敏な生き物だ。
多分逃げ切れる……筈。
とりあえずおばさま方にバレないように、なるべく声は出さないようにしよう……。
そう、ちゃんと心の中で呟いて、私はテーブルから降りようと足を踏み出す。すると前足の肉球が、何かを踏んだような気がした。
「……?」
なんとなく目をやると、それは一枚の書類だった。書類の一文目には、大きく『調査報告』と綺麗な文字で書かれている。そして、その隣には同じ書体で『ジャック・スミス』の名前があった。
ジャック・スミス。
どうやらこれが、青年の名前みたいだ。調査報告…ってことは、職場に提出する書類か何かだろうか。ふむ、とさらに書類の文字を目でゆっくりと追っていく。
なになに……。
『件のダンジョンに、強力な魔力反応有り。石の在り処はほぼ確定。侵入は困難___』
「あ、こら何やってる」
「に"っ!?」
突然身体を持ち上げられ、思わず変な声が出てしまった。くるり、と振り向けば、咎めるような金色の瞳と、目がかち合う。
「悪い子だな…ダメだろ、イタズラしちゃ」
まるで小さな子供を叱るようにそう顔を覗き込まれる。なんだかきまりが悪くて、私はふぃっと目を泳がせた。
「ったく、まぁいい。ほら、ちょっとどいててくれ」
彼はため息を一つ吐くと、私を床の上に下ろし、机の上の書類を片付け始めた。
……ダンジョン、ねぇ。
貴族の私も、学校で習ったことがある。ダンジョンは、迷路状の、主に地下に造られた構造物だ。世界各地に点在しており、ダンジョンによって中身は様々。国でも研修が進められているが、なぜこんなものがあるのかはわからない。分かるのは、たくさんの魔物がいることと、大抵の場合金銀財宝なんかのお宝があることだけ。大抵の場合、なんていうけど世界にあるダンジョンのほとんどはまだ未攻略で、人間にとっては未知の領域。宇宙、海、に次ぐ謎多き場所なのだ。
そして、ダンジョンへの民間人の侵入は、現在法律で固く禁じられている。
理由は二つ。まずは普通に危ないから。先程も言った通り、あそこは魔物の巣窟。軍隊が突入しても、帰ってくるのは数名、という過酷な場所である。訓練も何もしていない民間人なんかが、近寄っていい場所じゃない。
そして、二つ目の理由。ダンジョンの宝に手を出されると困るから。こちらもさっき言った通り、ダンジョンにはさまざまなお宝がある。それは金銀宝石だけなんかじゃない。むしろ、そんなのはサブだ。メインはこっち……魔道具の方だ。
ダンジョンにある魔道具。まだ持ち帰られた例は数件しかないが、とんでもなく強い力を持っているそうだ。それこそ、国を滅ぼしかねないくらいの。
だから国は、ダンジョンの侵入、攻略、どころか接近すら禁じている。ダンジョンの周りには、常に衛兵がいて、侵入者がいないか見張っているのだ。
……そんなダンジョンの文字が、報告書にあったということは。
十中八九、彼、ジャックは……
「あ、そうそう」
「にゃっ!?」
考え事をしていると、またジャックが私の頭を撫でた。……本当、突然撫でてくるのやめてほしい。心臓に悪い。ただでさえ、こちらは今、知らなくていいことまで知ってしまったところなんだから……。
ジト目でジャックの方を見やると、彼は「驚かせたか、悪い」と小さくはにかんだ。
「お前に名前をあげなきゃな」
言って、彼は優しく目を細め、私をその手の中に抱える。
名前なんて付けても、どうせ明日には出て行かなきゃいけないんだけどなぁ。でも、嬉しそうな彼の顔を見ていると、なんだか少し申し訳ない気持ちになってくる。
ごめん。また新しい猫でも飼ってくれ……。
そう、心の中で私が小さく謝ったのと、彼が口を開いたのは全く同時だった。
「エレナ」
「…!?」
彼の声で呼ばれた名前に、思わず肩が跳ねた。
……え?今、なんて?
「エレナ……なんてどうだ?」
そうこちらに問いかける彼は、しっかりと私の名前を呼んでいた。これで二度目だ。間違えようもない。
まさか正体がバレた……?
って、そんなわけないか。彼の、私を撫でる手つきを見ればわかる。完全に彼は私のことを猫だと思っている。そもそも、エレナなんてよくある名前だし…。
「……やっぱりやめだ」
自分に言い聞かせていると、彼はそう、小さく呟いた。口元は笑っているのに、何故かその瞳には、寂しげな色が浮かんでいる。
「お前は、お人形じゃないもんな」
自嘲めいたその言葉に、何か引っかかるようなものを感じた。
……どうにも、彼はこのエレナという名前に思い入れがあるようだ。彼女にフラれでもしたんだろうか。
「マーガレット、パトリシア、ブラン……ううん、何がいいんだ…?」
彼はまた、うんうん頭を悩ませ始めた。気がつけば、窓の外はもう夕方で、街を燃えるような眩い茜色が照らしている。
……あの後、どうなったんだろうか。
店は?おばさんは?……オルガは?
もしかしたら生きているかもしれない、なんて思ってしまう。縋ってしまう。
そんなはずないのは、私が一番よく分かっているというのに。
一度考えだすとキリがない。センチメンタルな思考に、ズブズブとはまってしまう。溺れていってしまう。
フラッシュバックするあの光景に、猫でよかったと思う。きっと人間だったら泣いていた。
……思考の海から私を引き上げたのは、チリン、と鳴った呼び鈴の音だった。
「誰だ、客か?」
こんな時間に、と訝しげな表情を浮かべながらも、ジャックは私を連れたまま玄関へ向かって歩き出す。
彼は鍵を開けると、少し警戒気味にゆっくりとドアを開いた。
……目の前に立つ人物は、酷く汚れていて。
ボロボロで。血まみれで。
ムカつくほど見覚えのある、顔だった。
「こんばんは、お嬢様。お迎えに上がりました」
「に"、にゃーーーーーー!?」
(オ、オルガーーーーー!!?)
私の、文字通り言葉にならない大絶叫に、殺されたはずの悪魔……オルガはニコリ、といつもの胡散臭い笑みを浮かべていた。