8 黒魔女、罪を犯す
細く長い、金色の髪。きらきらひかる、エメラルドグリーンの瞳。陶器のような白い肌。そして、口元に浮かぶ優しげな笑み。まるで精巧な美術品のような、気品ある美しさを持つ彼の名前はオズ・ロックウェル。
五剣の一人であり、マジラヴァの攻略対象である。
オズ様は、私たちが二年生に上がる年、魔法学園を卒業している。
つまり、ヒロイン…マリーとは六歳差。彼女が入学した時、彼はすでに最高学年の七年生だったのだ。十二歳と十八歳。恋愛関係になるには、ちょっとデンジャラスな歳の差な気もするが、そこは乙女ゲーム。深く触れてはいけない。
ゲームの中での彼は、歳の離れた大人な貴族系ポジションを担っていた。
そして見た目に反さず、性格は穏やかで、紳士的。一癖も二癖もあるマジラヴァキャラクターの中で、唯一の正統派である。そんな、見た目も中身も美しい彼の人気は凄まじいものだった。なにせ、あのアランに並んでマジラヴァの人気トップを張っていたくらいだ。多くの乙女が、恋という名の熱病に罹り、SNSにはオズ様ガチ恋同担拒否勢が溢れかえっていた。
……そんなレディキラーな彼には、一つ意外な一面がある。
実は彼は、五剣最強を謳われる魔術師である
彼の存在をこの国で知らない者は、多分いない。
「この国で一番強いのは?」
なんて街の人に問いかければ、十中八九、返ってくるのは彼の名前だ。
それ程までに、彼の強さは凄まじい。
盗賊討伐に、大規模闇ギルドの処分。国を脅かす魔物を退治して見せたかと思えば、今度はサバドに奇襲をかけて、黒魔法使いを一斉逮捕。
これまでに彼の上げた功績は数え切れない。どんな悪党もどんな魔物も、彼の風魔法の前では、ただの塵と化す。あまりの強さに、付いたあだ名はバケモノ。本人は「酷いな」なんてへらりと笑っていたが、間違いなく彼は、魔法使いとして……本物のバケモノだ。
そして、その化け物は今、私の目の前で美しい、至極優雅な笑みを浮かべていた。
「なんだ。始祖の血を引く黒魔女と悪魔なんていうから警戒してたのに……大した事ないね?」
オズ様の声が、耳元でそう笑う。
杖はピタリと私の首元に当てられていて、一歩でも動けば、私の喉に風穴が開くだろう。そこに、ゲームの中の優しく紳士的な彼は居なかった。いつもは優雅で気品に溢れているはずの彼の笑みは、どうしようもなく冷たい。
「私を、殺すの?」
「ああ、殺すよ」
淡々と、当然のことのようにそう答える彼の瞳の奥には、仄暗い色が宿っていた。
……そうよね。そんなの、聞くまでもなかった。
彼は私を殺す。温情も容赦もなく、きっと惨たらしく私を殺す。
かつて、彼の家族がそうされたように。
ロックウェル家は、実はとっくの昔に崩壊している。彼の家族は、彼が十四歳の時に過激派の黒魔術師によって虐殺されたのだ。家には火をつけられ、家族の死体も家も、跡形もなく燃え尽きた。唯一生き残った彼も、その背中にひどい火傷を負っているそうだ。
きっと、その傷を見るたびに。彼は黒魔術師への憎悪を重ねてきたのだろう。彼の強さは、その憎悪の上に成り立っていると言っても過言ではないのだ。
……そんな彼が、始祖の私を見逃すわけもない。
体の震えを誤魔化すように、私は手の中に握った小瓶を、ぎゅっと握った。
「そんな心配そうな顔をしないで。
……神様へのお祈りの時間くらいはあげるよ」
「ああ、君の場合は悪魔かい?」なんて、冗談めかして彼は笑う。杖は首元にグリリと押し付けられたまま。
……生きた心地がしない。
なんとか、なんとかしなきゃ。
どうにかして、彼の手から逃れなくちゃ。じゃなきゃ、私はここで殺される。先程彼に粉砕された壁のように、この首にぽっかりと穴を開けられてしまう。
私は、縋るような気持ちでオルガの方を見やる。
しかし彼は、床にぐったり倒れ伏したまま動かない。オズ様に開けられた
腹の穴から流れる赤い血は、鮮やかにタイルを彩っていた。擦り切れた呼吸音が、変わらず部屋に響いている。
……どう見たって、動けるような状態じゃない。
オルガは、最初にオズ様にやられた。
そして、次にクレアおばさん。
肩を撃ち抜かれたおばさんは、部屋の隅でうずくまり、小さな体を痛みにブルブルと震わせている。
助けなきゃ。私がやるしかないんだ。
オルガもおばさんも何もできない。
彼らと、私自身を救えるのは私しかいないんだ。
「どうやらお祈りは済んだみたいだね?」
なんとか助かろうとする私を見て、オズ様はス、とその端正な顔から表情を消し去った。まるで、仮面を外すみたいに。
本能が、警鐘を鳴らす。
考えろ。考えろ考えろ考えろ!!
何か、きっと何か助かる道があるはずだ。いや、無くたって無理矢理にでも開かなければならない。
ぐ、と唇をかみしめて、私は覚悟を決めた。
足掻いても、助からないかもしれない。でもやらなきゃ死ぬ。
……それなら、助かる確率が低くても、前へ進むしかあるまい。助かる可能性のある道は、必死に、惨めに足掻くこと以外には残っていないのだから。
スゥ、と心の中で息を吸う。
震える唇で、小さく息を吐き出した。
そして。
「……っええい!!!」
「ぐ……!?」
私は足を思いっきり振り上げて、オズ様のお腹に蹴りを叩き込んだ。
オズ様も完全に油断していたのだろう。あっけなく彼の体は吹き飛び…なんてことはなかったが、ある程度距離を取ることには成功した。
そして、コレで十分だ。
私は側にあった魔法薬の瓶を数本ひっ掴み、素早く栓を抜く。
「っ、やめ……!」
ろ。と。最後の文字を言い終えるのと、私がその瓶の中身を、オズ様に向けてぶちまけたのはほぼ同時だった。
赤。緑。青。
色とりどりの液体は、宙を舞い。
空中で混ざり合って、オズ様の柔らかな金髪に着地する。
「っ、あああっ!!!」
液体をかけられたオズ様は、苦しそうなうめき声をあげながらその場にしゃがみ込んだ。一体なんの薬だったかは知らないが、反応を見るにあまりよろしくないお薬だろう。ジュワジュワと音を立てて、薬の力は、彼の体を侵していく。
よし、今のうちにオルガとおばさんを連れて……!
「ダメだ、こっちに来るんじゃない!!」
「えっ?!」
一歩。……踏み出すことはなかった。
おばさんの方へ駆け出す前に、私の体は後ろへと吹き飛ばされたのだから。
「痛っ」
ドン!と鈍い音がして、背中に痛みが走る。空気が肺から強制的に吐き出される。衝撃に、一瞬視界が揺れる。
クレアおばさんは、こちらへ真っ直ぐに杖を向けていた。
「っ、クレアおばさ…!」
「来るんじゃない!! 今すぐここから逃げるんだ!!!」
立ち上がって駆けよろうとした私を、彼女はギロリと睨みつけ、厳しい口調で一喝した。
こんな彼女、見たことない。
「お、おばさ、で、でも……!」
なぜか、上手く言葉が出てこなかった。彼女の迫力に、気圧されてしまったのだろうか。
……逃げなきゃいけないのに。彼女を連れて、彼女の手を引いて逃げなければならないのに。
その一歩が、踏み出せない。
「ここはアタシに任せて行きな!! そこの悪魔もアタシもまだ大丈夫!! 走るんだよ、さぁ!!」
ぎょろぎょろした大きな瞳をさらに血走らせ、彼女は吠える。
すぐに、嘘だとわかった。
大丈夫なはずがない。だって、クレアおばさんはそう言う今も、肩から赤い血を垂れ流しているのだから。
黒魔術師は、存在だけで罪となる。
……ここでおばさんに背を向ければ、きっともうその顔を見ることは二度とないだろう。
そんなの、そんなの…!
「い、嫌に決まってるでしょう!?私がおばさんを見捨てられるわけ……!」
「……“マリオネット“」
おばさんが、呪文とともにこちらに向けて杖を振った途端、急に体が動かなくなった。聞き覚えのある黒魔法。
……人の体を、操る魔法。
「嫌、ねぇおばさん、お願い!」
首を振りながら、必死に懇願する。
だめだ。こんなの、絶対にだめ。
もう誰かが目の前で死ぬのは……!
「エレナちゃん、ありがとうねぇ。
………しっかりやるんだよ」
彼女の最後に向けた笑顔は。涙のせいで、酷く霞んで見えた。
「っ!」
ぶん、とおばさんの杖が空を切る。
すると私の体はぐるりと勢いよく後ろを向き、空いた穴から外へと飛び出した。
「っ……クソ!」
美しい顔を歪めて、オズ様はギロリとこちらを睨みつけていた。
走る、走る、走る。
転がるように、みっともなく足をもつれさせながら、人混みを切り裂く。
まるで見えない糸に操られるかのように、体は、私の意思に反してただただ走り続ける。
「っは、はぁ……っ!!」
苦しい。辛い。怖い。そんな感情が、じくじくと心を蝕む。涙のせいで、前なんてほとんど見えない。それでも体は勝手に進んでいく。
ああ、お願い、お願いどうか。どうか神さま、あの人を助けてください。お願いします。もう、これ以上、誰かを失うのは…!
「おい、見ろよあれ!! あの店の中……!!」
どこからか聞こえた男の声に、元いた方向に目をやった…その刹那。
ドォン!!!!!
耳をつんざくような轟音が、辺りに響いた。
……突如現れた竜巻は、ぐるぐると渦を巻き、まるで天まで届く柱のように太く、高くそびえ立っていた。
そこにあったはずのおばさんの店がどうなったかなんて、考えるまでもない。
「っあ、ああ………!!」
絶望感が、ゆっくりと心を呑み込んでいく。
いつのまにか、体は走ることをやめ、足はただただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
魔法が勝手に解けた。
……それは、術者が死んだ印だ。
神様は、やっぱり黒魔女なんかを許してはくれなかった。
「ひ、ひどい……こんなの、酷い!!!」
くたりと体から力が抜け、私はその場にへたり込む。涙は、真っ赤な瞳から勝手にぼろぼろと溢れ出した。
どうして、こんなことに。誰が悪い。誰が、誰のせいで、こんなことになった。オズ様のせい?それとも黒魔法使いを許さない、国のせい?アランの、シド様の、ルース様の、エヴァンの……
「……君のせいだよ、エレナ・ブラッディ」
「っ?!」
鼓膜を震わせた男の声に、反射的に頭をあげる。……そこにいたのは、たった今、クレアおばさんを、そしてオルガを殺した男。
……オズ様、いや、オズ・ロックウェルだった。
「ど、どういう意味よ」
一歩、二歩と、後ずさりながら、私は彼をギロリとにらみつける。しかし彼は、先程と変わらず優美な笑みをその口元に浮かべていた。
……本能的に感じた恐怖に、背筋がぶるりと震える。
「どういう意味も何も、君が一番よく分かっているだろう?」
一歩、二歩と、彼は、まるで獲物を追い詰める獅子のようにゆっくりとこちらへ歩み寄る。
…血で赤く染まった衣装を纏って。
「君がいなければ、彼女は死なずに済んだ。君があの場で逃げ出そうとなんてするからだよ。大人しくしていれば、あの黒魔女はあんな死に方はしなかったんだ」
「っ!」
ぐさりと彼の言葉が心に突き刺さる。痛いところを、傷口をグリグリとえぐるような言葉に思わず唇を噛んだ。
……ああ、そうだ。ダメだな私は。
いつもこうやって人のせいにばかりして。そうだ。この人の言う通りだ。
お父様も、お母様も、オルガもおばさんも……
全部、私のせいで死んだ。
私が殺して、踏みつけて、踏み台にした。
「っ、う、ぁ……」
涙が止まらない。罪悪感に心を喰われて、呼吸すらままならない。
……彼は、そんな私を冷たく見下ろしていた。
「……君は、可哀想な人だね。もういいよ。終わらせてあげる」
無機質な言葉だ。憐れみなんて少しもない。彼は淡々とそう言って、私に杖を向けた。杖に、膨大な密度の魔力が収束していく。きっと私は、アレに心臓を撃ち抜かれるのだろう。
痛いんだろうな。苦しいんだろうな。
……死にたく、ないなぁ。
その感情が、私の体を突き動かした。
ドン、とまるで何かに背中を押されたように、私は立ち上がり、オズに背を向け駆け出す。
死にたくない。死にたくない、死にたくない。
走らなきゃ、逃げなくちゃ。
死んでいった彼らみたいには、なりたくない……!!
「…っ!」
オズが、小さく舌打ちをしたのが聞こえた。一瞬離れた気配が、また少しずつ縮まっていく。
どうすればいい?どうすれば私は助かる?ああ、あんな風にはなりたくない。彼女達みたいに、惨たらしく死にたくない!!!!
こんがらがった頭を、私は必死に回す。思考の糸を辿り、何か手はないかと考える。アレもダメ。コレも、ソレもダメだ。このバケモノを撒くには、こんなのじゃ足りない。
……肩で息をしながら懸命に走る私の手の中で、キラリと小瓶が光った。
まるで、答えを示すかのように。
私はぐるりと方向を変え、入り組んだ路地裏へと入った。オズは着々と私との距離を詰めてきている。きっと、もうすぐ彼は私の肩を掴むだろう。やるなら、今しかない……!
私はキュポン、とリボンの掛かった瓶の蓋を外した。そして…中身を一口、口の中へ流し込み、目立たない角を、右へまがる。…そして、小さく呟いた。
「“ヴァニタオーラ・フェーレース”」
ぼん!と何かがはじけるような音が耳の中に響く。……そして、気がつけばオズの足が、目の前にあった。
「っ、どこだ……どこにいる黒魔女!!」
オズの声が、路地裏中に響く。私を探す彼の顔に、先ほどの余裕はもうなかった。至極苛立ったような顔を見せながら、彼は辺りをキョロキョロ見回す。……しかし、彼は私のいる路地をチラリと見ただけで、すぐに別の路地へと入り込んでいった。
……足音が、段々と遠ざかっていく。
ああ、よかった。どうやら成功したみたいだ。
私は大きく息を吐き、バクバクと馬鹿みたいに音を立てる胸をそっとなでおろした。
あの時、咄嗟に思いついた打開策。
今の私が生き残るための最善策。
それは、ヴァニティの薬で姿を変えること。
……目の前のガラスに映る今の私の姿は、夜色の毛をした黒猫である。
「にゃあ」
ため息をつこうとして、口から漏れたのは鳴き声だった。そりゃそうだ。猫だもの。猫にため息なんてつけるはずがない。
薬の効果は、一口で一日。
一日すれば、私はまたエレナ・ブラッディに逆戻り。国に追われる、罪深い黒魔女に身を落とす。
「にゃあ……」
どうしようかなぁ、これから。
頼りにしていたクレアおばさんも、契約したばかりの悪魔もいなくなってしまった。
……彼の言葉が、頭の中で反響する。
「君のせいで、彼女達は死んだんだ」
落ち着いていたはずの心臓が、またどくりと跳ねた。頭の中で、あの光景がフラッシュバックする。
両親の首無し死体。天まで登る大きな竜巻。
___一体、どうしろっていうのよ。
体が泥のように重くなっていく。
…きっと、疲れているんだろう。
ああ、もう、ここから一歩も動きたくない。進みたくない。歩きたくない。
……いっそ、ここで眠ってしまおうか。
なんて、そう心の中で呟いた……その時だった。
「お前、一人なのか?」
突然、上から声が降ってきた。
驚いてなんだなんだと顔を上げれば、一人の青年が私の目をじっと見つめていた。
金色の瞳に、私と同じ夜色の髪。歳は私と同じくらいだろうか。少しつり目がちだが、なかなかに整った顔立ちをしている。
彼は少し考えるような仕草をして……それから私を、ひょいと抱え上げた。
「……ウチに来るか?」
……はい????