現の続きに -Altarnative end-
反転した二人の話。
シンデレラが死んだ。
交通事故だった。
いつもは手を繋いでいたのだけれど、たまたまその時は手を離していた。自分の履いていた靴の紐が、解けてしまっていたからだ。
しゃがみこんで紐を結んでいた自分を、彼女は少し手前で待っていた。
綺麗に結び終わった靴紐から視線を上げた瞬間、あの人は消えていた。
彼女が手にしていた黄色いスナック菓子の袋が破裂して、まるで脳みそを撒き散らすように飛び散っていた。
赤いものが広がっていた。
自分の体も、地面も。道の脇に綺麗に植えられた桜の木も、等しく赤くなっていた。
命が一つ吹き飛んでいた。それに気づいて、自分の意識は途切れてしまった。
「気づかれましたか」
白い空間に、いつのまにか寝そべっていた。人の住む場所ではないような空間と、少しだけ酸っぱい匂いがしていた。
ここは病院であるらしい。
医者の隣には警察がいて、知りたくないような、一番知りたかったようなことを教えてくれた。
走っていた車が歩道に突っ込んできたこと。
運転手が脳の病気で急死したこと。
そのせいでハンドル操作ができず、止まれなかったこと。
そして、それに撥ねられてあの人が死んだこと。
死んだ。
その言葉はこの世界のどんな言葉よりも重く自分にのしかかる。頭の上に大きな石が置かれたように、頭痛がする。
今まであったものがなくなって、未来永劫何もすることができないのだ。
あの瞬間、確かに命が失われていくのを感じた。
致死量の血が出ていたからとか、そういうことではない。死体は見ていないし、肉片が付いていたわけでもない。
ただ、今まであった最も大切なものが消え去っていったことを、確かに悟った。
理解できなかった。そんな経験は、今までなかったから。
小さい子供の頃から恵まれた環境で育ってきた。親にも友人にも、そしてあの人にも。
人が死ぬということを理解していなかったのだ。この先二度と会えないなんて、笑って話しかけてくれないなんて知らなかったのだ。
誰かが、人は死んだら天国に行くのだと言っていた。
それは優しい言葉だったけれど、何の意味もないことだと思えた。
天国にいようと地獄にいようと、今この世界にいる自分とあの人は会うことができない。それを覆すほどの魔法を、世界は知らないのだ。
もちろん、自分も。
「………」
警察の話と、医者の話を聞いて、その内容の半分も頭には入ってこなかった。
ただ漠然と、もうあの人はいないのだと理解した。
涙は溢れなかった。
声を出したりもしなかった。
ただ単に、霞みがかった意識の中で、これから段々とあの人の思いが消えていくのだろうと感じた。
たくさんの思い出があった。
あの家から始まったことだった。
自分はあの家が好きだった。掃除されていない部屋も、ゴミだらけの寝室も。あの人がいればそこは楽園のようだった。あの家が別の誰かに買われた後も、度々あの家に行っていた。それくらい思い出が大切だったのだ。
それから建て直されて、自分の記憶とはどこが同じなのかわからないくらい綺麗になってしまった。
それでも良かった。まだ思い出すことができたから。新しい友達が、そこにはいたから。
それをあの人は知らなかったようだけれど。
それから数年後に、自分は街から出て行った。結局のところ、あの人がいなければ思い出に意味もないのだと気がついて。
『偶然ですね』
大学の中のカフェで、高校の制服を着て、明らかにわざとらしく待っていたのを覚えている。彼女の驚く顔が見たかったから。
『そうね。あなたが大学生なら』
あの人は苦笑して、隣の席に座った。
いつ買ったのかわからない高いヒールがカツカツとなっていた。もうあの時の魔女なんかではない。美しい一人の人間だった。
『伝言を頼んでも?』
気に入っていた問いかけ。これは約束に似ていた。伝言を頼んで、頼んだ人が忘れなければ次に繋いで。それでも、言葉はずっと変わらずに新しくなっていく。それはあの日と同じだった。彼女と手を取り合って踊った日から、変わらない日常の、続きだったはずなのだ。
その全てが、もう無くなった。
魔法をかけてくれる魔女なんてもういなくて、ボロボロの体のまま、ベッドに横たわっている。
自分は精神的なショック以外体には傷がなかったから、すぐに退院できるはずだった。
ただ、次の日もその次の日も。
退院することはできずにいた。それは他の病気が見つかったとかそういうことではなく、もっと単純な理由だった。
「あなたの足は、今動いていません」
医者はそう言った。
恐らくは精神的なショックで、脳が足に命令を送らなくなったということだった。
何の怪我もしていないのに、自分は歩くことさえできずにいる。
一旦動かなくなると、下半身が考えていたよりもずっと重くて、こんなものを使って毎日生活をしていたのかと驚いた。
入院は思っていたよりも退屈だった。
人が来なかったものある。面会を望んでいないと医者に言っていたらしいのだが、生憎覚えていなかった。
ただ、誰にも会いたくなかったのだろう。
他人の顔を見ればあの人の顔を忘れてしまいそうで怖かった。声を聞けば彼女の声を忘れてしまいそうで恐ろしかった。
彼女はいつも隣にいてくれた。会う約束をしなくても、話しかけたりしなくても。その先で会えるとわかっていたから、安心していたのだろう。
会いにくる知り合いがいるのかはわからない。演劇の舞台での知り合いは多かったように思う。ただそれが、今の自分に会いにくる理由になるのかはわからなかった。
自分では何かしら頑張っていたように思う。でも元はと言えば、踊りは彼女に教えてもらったものなのだ。原点は自分ではない。
あの人に近づきたかった。
でも彼女は隣にいたから、自分は進むことを恐れていた。離れることが、とても怖かったのだ。
だから、まだゼロだったのかもしれない。
ゼロでも良かった。その瞬間までは。
向かいのベッドや、隣のベッドでは自分より年下の年齢の人がいた。骨折をしたのか、それとも重大な病気なのか。
その人たちには親や兄弟、友人や親戚が毎日のようにやって来ていた。ノートを持って授業の内容を聞いたり、他愛のない話をして盛り上がったりしている。
「体調はどうですか?」
「変わらないよ」
自分に話しかけてくるのは看護師だけだった。
自分は体調が悪いわけではない。
今の自分を治したいのなら、恐らくは記憶を消してしまう必要がある。
そんなことはできないししたくないけれど。
それくらいしないと、もう何もできないのだろう。
看護師は何か言って、それから部屋を出て行った。
ベッドの横には車椅子が置かれている。どこかに行きたい時は、これに乗って行くことになっていた。松葉杖も使って見たが、手が震えて立つことはできなかった。
自分のことさえも自分では支えられない。
恐らくはあの人が一生懸命に支えてくれていたのだ。それに気づかずに、自分はずっと甘えていたのだ。
なんて酷いのだろう。隣に立っていると思っていたけれど。本当は上にのしかかっていただけだなんて。
泣きそうになって、布団に潜り込んだ。
眠ってしまいたい。そこにも夢がないことを知っていても、現実だけは嫌だった。
何もしていないのに、瞼を閉じるとすぐに眠った。疲れてなどいない。ずっと疲れているから。
支えられなくなった自分の体の重みで、ずっと疲労しているのだ。
夢を見た。
輪郭のはっきりしない夢を。
二人で連れ立って、町を歩いていた夢。
そして、命の赤を散らしていく夢。
あの人は死ぬ時も、自分の腕の中にはいなかった。
彼女の最期の姿を、自分は見ていなかった。
聞こうとはしなかった。あの人には家族も友人もいないことを知っている。だからもう体は燃やされてしまっているだろう。きっと彼女の死体なんて見ても意味がない。骨なんて見ても意味がない。
戻って来ないことを、どうしようもなく理解するだけだ。
自分が知っているのは、あの人の体の中にあった大量の赤色だけだ。
命の赤。
夕焼けよりもずっと、絵の具よりもはっきりと、朝焼けよりも艶やかなそれに、体を浸していた。
失われたのはあの人の命だけではない。
自分の中にいるあの人も、同時に死んだのだ。だから、死体を見ようとは思わなかったのだ。死んだことを知っているから、それをわざわざ見に行かなくてもいいと思ったのだ。
夢の最期は、いつだって真っ暗だった。
あの人が死んでから、眠るたびにこの夢を見る。あの人を失う夢を。
本当は現実だ。
自分は夢を見ているつもりで、現実を見ているのだ。知っていることしか見えない。だから、あの人はあの事故を超えて笑いかけたりはしない。
何度でも何度でも。
自分の記憶の中で、何度も死んでいく。
現実であの人を殺したのは自動車だ。
自動車を運転していた人は、あの人を殺すよりも先に死んでいた。
ならば、あの人を殺したのはなんだろう。恨むことができれば、楽だったかもしれない。でもその対象もいない。
あぁ、多分そうなのかもしれない。
あの人を殺したのは自分だなんて、そんなことは言えない。それでも、あの人を助けられるのは自分だったはずなのだ。
目を覚ますと、夜になっていた。
寝汗で体が重く、気持ちが悪い。
なんの夢を見ていたのだろう。考えてから、少し笑いそうになる。
ずっと同じ夢を見ていた。記憶がなくても、何も覚えていなくてもきっとそうなのだ。
看護師を呼んで、体を拭いてもらう。
寝間着を取り替えると、看護師はおずおずと尋ねた。
「星を見に行きませんか?ずっとここにいても窮屈でしょう」
どこかで聞き慣れた話し方をしていた。あの人はもっと自分では到底理解できないような言葉を羅列して、深い水の底から声をかけるような話し方だった。
軽く、笑いかける。看護師は困ったように眉を下げた。
この部屋は窮屈ではない。看護師が言っているのは、広さではなく心の話なのだろう。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
看護師に抱えられて車椅子に乗り、屋上に移動する。
エレベーターから、少しだけの階段を上って、普通の人ならばすぐに行ける場所へと随分時間をかけて到着する。
屋上はいつでも行けるわけではない。
ヘリコプターが降りるための場所では、昼にいつもならば洗濯物が干されている。白い布が、部屋から見えたりもする。
「今日は星がよく見えます」
自分の後ろで、少し高い位置から看護師が言った。
「空は、よく見上げていた気がする」
「そうなんですか?」
「上ばかり見ていたんだ。失敗しても、間違ってしまっても。誰かが見守っていてくれると信じていたから。涙も、零したくなかったから
「強いんですね」
「ううん。私は弱いよ」
「それはなぜです?」
看護師の話し方は一定だった。嬉しそうでもあるし、全くの無感情でもありそうだった。
「私は泣かなかったから。大切なものが失われてしまったら、涙を流すものだと思っていたけど、結局自分の感情から逃げてきてしまった。強かったら、向き合えるはずなのに」
失くしてしまった。それは悲しい事だと思う。もう会えないということも、きっと悲しいことだ。
悲しさを理解していないわけではない。
一番明るかった舞台から背を向けて走り去ったあの時、きっと自分は悲しかった。自分はもうあそこには戻れないのだと、それを捨ててでも特別なあの人が欲しかった。
「物事が自分の心の中で正しく決着がつくのは珍しいことです。環境が変わったり、本人が忘れてしまったり。何もかもがそのままではいられないから、有耶無耶でわからなくなってしまうことの方が多いと思います。決着がついたなら、それはきっと奇跡なんです。そうとしか言えないような奇跡が、誰にでも訪れるわけではないですけれど」
「そうだな。奇跡なら、もうたくさん見せてもらったから」
出会ったこと、踊ったこと。追いかけたこと、毎日を過ごしたこと。
夜空に輝く星々のように輝くそれらが、間違いなく奇跡だった。
「あ、流れ星」
看護師が、心なしか嬉しそうな声を出す。
見上げると、一条の光が夜空の黒を切り裂いて駆け抜けていた。
流れ星には願い事をするらしい。
消えていく命に自分の願いを託すのは、少しおかしい気もする。自分の死の瞬間に、誰かの願いを叶えるほどの余裕なんて、きっと無いから。
「何かお願いしましたか?」
「考える時間も無かったよ」
ふと、自分の胸元が濡れていることに気がついた。
自分でもわからないうちに、涙を流していたらしい。
「…悲しい。うん、私は悲しいんだ。あの人は死んだことは、もう変わらないことだけれど。あの人が死ぬ時に、ちゃんとあの人の事を見ておけばよかったと思ってしまった…。最期を見ていなかったから、私は自分の心を置き去りにしてしまったんだな…」
何も見えない暗い世界を照らす、一つの希望の星。
それが失われる事で、何も見えなくなってしまった。暗闇の中で探すこともやめて、蹲って小さくなっていた。
「星も、いつかは死ぬ」
「…はい。とても長い時間をかけて。それでも失われる。失われないものはありません。人も、植物も、岩も水も星も空も。いつかは必ず、命は必ず」
何もかも、そのままではいられない。
何もかもがいつかは失われてしまう。
現実も、夢でさえも失われる。
思い出は消えて無くなり、現実は風化していく。
それでも何か、残るものがあるのだろうか。
それでも何か、残せるものがあるのだろうか。
何もない、何もできなくなった自分に。
夜空に、また星が流れた。
「願ってもいいのだろうか」
返事はなかった。
それでも、願わずにはいられなかった。
五秒にも、三秒にも満たない時間に、星がまた一つ消えていった。
その命を散らしていった。
「何を祈ったんですか?」
「…ガラスの靴をもう一度」
そうして、目を覚ます。
色の失せた、喪に服す世界へと。
頭が痛かった。
体も痛かった。
そして何より、心が痛んでいた。
白い壁、白いベッド。白い布団の中にいる、水色の自分。
全身の体の痛みが、自分がここにいるのだと伝えてくる。
現実に生きているのだと、理解させてくる。
この痛みも失われていくのだ。
そして、傷跡だけが残るのだろう。
「朝食を持ってきましたよ」
昨日の夜に見た看護師が、朝食をワゴンに乗せてやって来た。
ベッドから出られない自分は、何をするにも誰かに手伝ってもらわなければならなかった。
「…一つお願いがあるのだけれど」
「何でしょうか?」
「髪を染めたいんだよ。赤色に」
看護師は少し困ったような顔をして、それから少しの間部屋を留守にした。
自分の目の前に置かれた朝食を、少し眺めていた。
パンと卵。それにお茶。実に簡素で、味気ない。
目玉焼きは白身が少し欠けて無くなっていて、そんなことでも感傷的になっている自分がいた。
「やっぱり、私は弱いよ」
呟いて、窓の外を見た。
自分の服と似た色の空が乱雑に広がっていて、何の規則性もない雲が浮かんでいる。
パタパタと軽い足音が聞こえて、看護師が戻って来た。
聞かなくても本当は髪を染められる事を知っていた。それでも聞かないといけない気がして、気まずくなっていたのだ。
「できるそうです。何時からしますか?」
「この後すぐに。待っているのは苦手なんだ」
「はい。ではまた後で迎えに来ます」
それを伝えて、看護師はまた部屋を出て行った。
残された朝食を、かなり時間をかけて食べた。
あまり味はしなかった。
『あの星が見える?』
夢ではない。目を閉じたくはなかった。
静かになった部屋で、窓の外を眺めていると、昔のことを思い出すようになったのだ。
一人でいた時はそんなことはしなかった。思い出すことがなかったのだ。思い出なんてなくてもあの人は横にいたから、何も思い出すことがなかった。
しかし、あの時から全てが変わった。
一人でいた時の何もかもが変化した。
一人で立っていたはずなのに、もう二人でなければ立つこともできなくなっていた。
抱えきれない思い出が、自分の中に詰まっていた。これからも、まだまだやってくるのだと、勝手に信じていた。
いつか、二人で星を見に行った。
赤い星を探していた。
おとぎ話の赤い星。静寂がむず痒くてあの人に色々な星の話をした。でもきっと、あの人はあんまり理解していなかったと思う。
それでも良かった。夜の暗闇の中で二人、空を見上げた時間には、きっと価値があったのだ。
『シオンの星ね』
『知ってるんですか?何も知らないって言ってたのに』
『名前だけ。何も知らないわ』
そう言われて、少しだけ困った顔をした。そうしたら、彼女は少し微笑んで見せた。
『星は歳をとると赤く見えるんだそうです。だからあのシオンの星はそろそろ消えてしまう星なんです。…あの星の話を知っていますか?』
『いいえ』
月の下に、一つの赤い星があった。燃えるシオンの星。星座に組み込まれていない、ぽっかりと浮いた星だった。
『昔、世界を救った二人の英雄がいたんです。片方は白、もう片方は黒の英雄と呼ばれています。黒の英雄はとても勇敢で、皆を守る力を持った男の人でした。白の英雄はとても優しい、皆を幸せにする美しさを持った女の人でした。黒の英雄は世界を滅ぼそうとした怪物との戦いで力を使い果たし、命に終わりがやって来ました。白の英雄は、黒の英雄を助けようとしました』
絵本の中の物語。
あの人は強い人だった。だから自分の中で、その黒の英雄はきっと彼女なのだと思った。
『しかし、白の英雄は黒の英雄を助けることができませんでした。その後、白の英雄はある国の女王さまになりました。黒の英雄は、その国を見守るために星になって輝き続けました』
それが、シオンの星の物語。
遠い昔からずっと輝き続けた星は、もうそろそろ終わりを迎えようとしている。
皆を守る力を持って、死後も輝き続けた英雄であっても、終わりがある。
『善人でも、悪人でも。いつかは必ず失われる。えぇ、きっと。命は必ず』
ガラリと、扉が開けられた。
看護師が自分を車椅子に乗せる。
「そう言えば、なぜ赤色なんですか?」
「あの人が好きな色だから、かな」
それは嘘だった。
あの人は空色が好きだった。あの人の空色のワンピースは、二人とも気に入っていた。
ただ、今は赤色が良かった。
思い出の色なのだ。夕焼けの日に出会ったあの人との、思い出の色。
「終わったら、また迎えに来ます」
病院の一室に入って、看護師は自分を置いて出て行った。知らない女性の美容師が、自分の髪の毛から色を抜いていった。
一時間か、二時間か。
頭が痒くなって手でかこうとしたけれど、頭につけたビニールに阻まれてできなかった。歩いて何処かに行くこともできないから、その時間を完全に持て余していた。
自分の他にも、待っている間に何人かの人が髪の毛を切りにやって来ていた。その中の誰も、自分とは知り合いではなかった。
長い髪の毛が、少し短い髪の毛が、切られて落ちていく。
もう戻らないそれらが集められて、ゴミ箱に捨てられていく。
髪の毛は切っても時間が経てば伸びてくる。しかしそれでも、失われなかったことにはならないのだろう。
全てが失われると知っていても、いつか無くなると知っていてもその刹那のためにわざわざ髪を切るのだ。
昔から、髪は短かった。家では家族に、あの人に切ってもらっていた。後ろは見えなかったが、どんなに雑でも、時々は自分で切った。それを綺麗だと、あの人は言っていた。
その割に、あの人は髪の毛を切ろうとはしなかった。その人に憧れて、近づこうとすることと、その人になりたいかどうかは全く別の事柄らしい。
自分は誰かになりたいなんて思ったことはなかった。誰かになっても意味なんてない。それをしようとするだけで、苦しみだけが待っているのがわかるから。
時間を忘れる頃に頭を流して、あの時に浴びたあの人の命の赤のような色に、自分の頭は染まっていた。
時間を見かねた看護師が自分を迎えに来ると、口を開けたまま、
「随分と派手ですね」
と言った。表情の割に、あまり驚いてはいなかった。そういう訓練をされた、練習された動きのようだった。
白く清潔な雰囲気の病院に、赤い髪の毛の自分が通ることはとても場違いだった。病院では赤色が嫌われるらしい。
血を連想するからだそうだ。それなら自分は、髪の毛を血に染めた戦士のような姿をしているのだろう。
病室のベッドに戻って、窓の外を見た。
夜になれば眠って、またあの人が死ぬ。
目覚めて、朝食をとって。
昼になって、夜になって。
毎日何も変わらない。
いつでも、病院は平和だった。
昨日がそうであったように、今日がそうであるように、明日がまたそうなるように。
日々は少しずつ形を変えて、未来へと進み続ける。
その中で、自分だけが取り残されている。
何かを忘れ去りながら。
何日か経った日に、向かい側のベッドにいた誰かがいなくなった。
物音がしなくなったのだ。ふと向かい側を覗いた時、荷物がなくなっているのを知った。恐らくは退院したのだろう。
病院では病人以外に意味なんてない。だから治ってしまえばいなくなるのだ。
だからきっと、まだここにいる自分は何かしらの病気なのだろう。
音が一つ減った部屋は、思っていたよりも余計に静かだった。
ガラガラと、部屋の扉が開く。
看護師ではなかった。看護師の扉の開け方とは違ったから、そちらの方を見たりはしなかった。人とは会わないという約束は忘れていたが、自分に期待はしていなかった。
「お久しぶりです」
挨拶をされてから、初めて声の方を向いた。
そしてその誰かを見て、涙が出そうになった。
「………」
短い黒髪。少し高い身長。立ち姿も話し方も、何もかもが自分とそっくりだったから。ただ、もう自分は髪の毛が赤くなってしまったけれど。
懐かしい顔だと思う。確かあの人の親戚だった。記憶にあるのは、もっと髪の毛が長かったし、身長だって低かった。
でも、人は成長するのだ。だからこういうこともあり得るのだろうと、漠然と考えた。
あの人の知り合いと、それが自分に会いにくることは繋がっていない。この子は自分とも知り合いだから、だろうか。
「久しぶり。今日は散歩日和だと思うけど」
「そうですね。ここに来るまでとても暑かったので」
皮肉を言ってみたら、軽く流されてしまった。
バツが悪くなって、顔を背けてしまう。
「私、貴女に会いたかったんです」
「そう」
「はい。私の憧れの人が、今どうしているのかって。そうしたら、面会を拒否しているって聞いたから」
向かい側のベッドから、一つの椅子を持ってきて、その子は座った。
拒否しているのに、この子は会いにきたらしい。面会拒否に時間制限があるとは知らなかった。
ただ、不思議とこの子と会うことに嫌な感じはしない。それは、自分とこの子が同じだからだろうか。
「がっかりしたかい?」
おどけるように言うと、その子はゆっくりと首を振った。
「いいえ。会えてよかったと思います」
それから、その子はカバンから一枚の紙を取り出して、目の前に置いた。
学校のチラシのようだった。
「劇をするんです。良かったら見に来てください」
「…今は、難しい」
顔を俯かせた。
この子が今どうしているのかは知らない。でもこの子がこれを渡すために色々と努力して、面会を拒否している自分にも会いたいとここまで来たことはわかる。そして、次に言う言葉も。
「貴女がいいんです。誰よりも貴女が。部員と…言っても二人だけですけど。決めたんです。貴女の、ただ一人の喝采が欲しいと。私たちの劇に、最も必要な人だと」
「…そうか」
「それと、もう一つ話があるんです。これは貴女が良ければなのですが」
「何だい?」
自分にはあまり関係のない話なのだろうと、軽く尋ねた。
「私の家に来ませんか?」
あの人とは違う顔で、あの人みたいな笑顔で、そう言った。
その二日後に、自分は退院した。
この子は自分が入院しているのを聞きつけて、隣町からわざわざやってきたらしい。
入院代なんて払えなかっただろうから、そこは助かった。
ただ、自分の記憶が正しいければ、その子の家というのは、
「あぁ、やっぱり」
「懐かしいですか?」
車に乗って、それから車椅子に乗り換えると、長い坂の上にある家の前だった。
改装されてからも来たことはあるが、それも随分前の話だ。
「懐かしいことは懐かしいけど、私の家ではないからね」
「それは、そうですね」
磨かれた鉄柵を押して、綺麗に切り揃えられた植木の間を通る。
鮮やかな緑色が、陽の光に当てられて輝いていた。
「相変わらず綺麗にしてるんだな」
「えぇ、今は私がしてます」
「変わらないな」
玄関の扉をその子が開けると、中から年取った犬が出迎えた。
自分を見て、それから少しだけ見つめると家の中に戻っていった。
お前も同じだと、言われた気がした。
「割と人見知りなんですけど、珍しいですね」
苦笑して、車椅子を押してくれた。
家に入って、カラカラと車椅子が音を立てた。
家にはこの子しかいないらしく、広さからとても静かな空間だった。
リビングの隅では、バスケットに先ほどの犬が丸まっていた。
盆にカップを乗せたその子が、机にそれを置いて向かい側に座った。ソーサーには、白い角砂糖が二つ乗っていた。
丸まっている犬はそのままで、ずっと動かない。
「最近はいつもあんな感じなんです。もう寿命が近いって、医者から言われました」
人間で言えば九十歳くらいになるらしい。
「死んだらどこに行くのかな」
「…どこでしょう」
人は死んだら天国に行くらしい。そういう話は、よく聴いたことがある。だから、この子もそういうのだと勝手に思っていた。
この質問に迷うことが、少しだけ不思議だった。
「死んだら、その魂が星に帰るんですよ、きっと」
「星になるんじゃなくて?」
「それだと会えないじゃないですか」
言っていることが、よくわからなかった。
人は死んだらもう二度と会えない。そんなことは誰でも知っている。会えないから、皆悲しむのだ。
「本当に?」
「…そうじゃないと、悲しんだことが嘘になってしまうだろう」
「思い出はあるんでしょう?思い出したら、いつでも会えるはずです。記憶の中の、その人に。記憶の中にいる人が、それだけだって、そんなものは偽物だって、そう言う人もいます。でも、私はそうは思いません。だって、私は誰よりも偽物だったから。記憶の中の貴女になりたくって、偽物に近づこうとしたから。でも、私は偽物でも、記憶の中の貴女はずっと本物でした」
記憶の中の本物。
自分の記憶の中にいるあの人は、本物なのだろうか。
「その人のことを想っていますか?忘れないように、思い出して欲しいんです」
「でも、思い出す度に思い知らされるんだ。もうあの人はいないんだって。もう会えないんだって」
そうしたらどうしようもない悲しみに埋め尽くされる。
「それでも、思い出して欲しいんです。そうしないと、忘れてしまうから。失われてしまうから」
「全てがいつか失われるとしても?」
「思い出は、失くしてもまた拾い上げればいいだけです。だって、それだけじゃなかったでしょう?」
辛いだけではなかった。
悲しいだけではなかった。
辛さも悲しみも、思い出から来ているのではないのだ。
あの人が死んだことと、今自分が悲しんでいることは繋がっているけれど。
楽しかった思い出と、今の悲しみには繋がりがない。
「人の関係は過去の連続かもしれません。でも、思い出は一つのページでできているんです。裏と表でも、とても薄いけれど隔たりがある。だから、それさえも全く同じではないんです」
部屋の隅にいた犬が、小さな鳴き声をあげた。弱々しく、苦しそうに。
目の前に座っていたその子が、すぐに犬を抱え上げようとした。そして、ただ犬を優しく撫でた。
少し待ってから、車椅子のタイヤを回して近づいた。
「何か、あったのか?」
本当は理解している。この子が告げる言葉を知っている。それでも口にした。目の前のそれを、自分で認めるために。
「命が無くなったんです。もう、そろそろだってわかってはいたんですけれど」
背中を曲げて、犬に指先を伸ばした。
冷たくなっていく感覚が、指先にまとわりついた。
「…お願いがあるんですけれど、いいですか?」
その子は目にたくさんの涙を浮かべて、一つ頼みごとをした。
「これでいいかな」
木の棒を組んだものを手渡す。ついさっきまで生きていたものを地面に埋めて、その上にそれを突き刺した。
「死んだら、その魂が星に帰る。そして、またいつか会えるんだって」
作ったお墓の前で、その子は呟いた。綺麗に刈り取られた緑色の芝生と、枯れかけた木の棒が、墓地の様子を思い描かせた。
風に揺られてザワザワと木の葉がさざめく。赤い髪の毛が、視界の端で揺れていた。
「そう考えると、悲しくないのかな」
「そんなことない」
声が震えていた。
「そんなことない…。悲しい、悲しくて仕方がない。何で、何で死んだんだろう…。そう考えてしまう。どうしようもないって、わかっていたはずなのに」
あぁ、やはり。
この子は自分とは違う。
そして、どうしようもなく似ている。
少しだけ近づいて、その人の頭を優しく抱き寄せる。
「いつかまた会えるのかな」
「そうだな」
「…あの子じゃないと嫌だ」
「あぁ…」
「会いたい…」
「あぁ」
「会いたいよ…」
色のない空に、泣き声がこだまする。
悲しみの、星の夜に自分がしたような、紛れもない告白だった。
知らない誰かが死んだって悲しい。
それでも、あの人でなれけば嫌なのだ。
そうでなければならなかったのだ。
会いたいと。
もう一度逢えたなら、どれだけいいのだろう。
どんなに救われるのだろう。
どんなに嬉しいのだろう。
でも、それはもうできないのだと知っている。
もう思い出すことしか、できないのだと。
「私がこの子にできることが何もないって、分かってしまったことが一番悲しいんです」
芝生の上で、自分の横に座ったその子が、泣きはらした目で言った。自分に話しているのか、それとも独り言なのかわからない声だった。
「そんなことない」
たった一つだけ。
全てが失われていくものの中で、ただ一つだけのこと。
「君が教えてくれたんだ。思い出して、忘れないでって。それが生きている私たちにできることなんだろう?現実にあるものは、何であれ失われてしまうから。形を持っている限り、無くなってしまうから」
形のないものだけが、まだ取り戻せるものなのだろう。
「そう、ですね」
突き刺した木の棒に、その子は自分の名前を彫り込んだ。昔に何度か見た、読み方が難しい文字が並んでいた。
「忘れません、ずっと」
「………」
夕日に、黒い髪の人が映し出されていた。
何も似ていなくて、何かが同じ人。
あの人も、この人を見たらきっと驚くだろう。そしてまた、こちらに何か言うのだ。
想像して、その想像の彼女も本物なのかと、疑問を浮かべる。
「大丈夫ですよ」
振り向いたその人が、優しく笑いかけた。
「うん、きっと大丈夫」
その言葉はぼんやりとしていて、自分が言ったのか、その人が言ったのかさえよくわからなかった。
そうして、目を覚ました。
鮮やかな緑色に覆われた、今まさに色づく世界へと。
「よく眠れましたか?」
自分のベッドの横に腰掛けていた人が、声をかけた。青いカーテンが、朝日を遮って部屋を滲ませていた。
ふと、何か音楽が鳴っていることに気がついた。ピアノの音だった。
見れば、部屋の隅に置かれた古いレコードがキリキリと回っていた。
「すいません、煩かったですか」
「いいや。好きだよ、音楽は」
久しぶりに、夢を見なかった。そんな気がした。もしかしたら忘れているだけかもしれない。しかし、汗をかいてはいなかったから、恐らくはそういうことなのだろう。
『不思議ね』
『何がです?』
思い出。忘れたくない思い出。今まで思い出すこともなかったものの一つ。
無邪気に明るい未来に甘えられた頃の、ほろ苦い記憶。
『あなたがピアノで同じ曲を弾いていても、録音された曲を聴いても、同じ曲だけれど違うような気がするの』
『私は下手ですからね』
黒いピアノの、白い鍵盤を弾きながら、はぐらかした。そんな意味で言っているわけではないと、理解してはいるのだけれど。
『きっと、弾いている相手が違うからです』
『相手?』
『聴かせたい相手が違うから。私は貴女にこの曲を聴かせたいから、貴女を思って弾いているけど、きっと録音されたものはまた別の人に聴かせているんです』
『音には気持ちがこもるのね』
『そうですよ。だから、これは貴女の曲なんです』
同じ曲だった。
優しいピアノの曲。
やはり、あの人のために弾いていた時とは違う気がする。この曲はあの人のために流れているわけではないから。あの人は、ここにいないから。
「この曲、とっても好きで。レコードがすり減って聴こえなくなってもどうしても聴きたくて、何回も買い直してるんです」
「この音盤にも最後がくるんだな」
「そうですね。でもその時は、思い出したらいつでも聴けるんじゃないですか?」
全てがいつか失われる。
失われることは悲しい。
だから、全てのことがいつかは悲しみに繋がっているのかもしれない。
「悲しかったら、苦しかったら忘れろって言うけれど。だったら楽しかったこと、嬉しかったことを思い出せばいいんです。だってそれだけじゃないって知っているから。思い出して想い出して、絶対に忘れなければいい」
優しい顔で、ぼやけてなんかいない笑顔で自分を見た。
「そして、きっと幸せに」
『伝言を頼んでも?』
いつかの言葉。
再会の言葉。自分が口にした、いつからかできた口癖のようなもの。
「『XXXX』」
泣き出しそうになるくらい嬉しくて、叫びだしたくなるくらい悲しくて。自分のすべての感情を、その言葉に込めた。
それでもまだ前に進むのだ。動かなくなった足があっても、あの人との思い出の場所が失われても。
まだ、続くから。
「さぁ、朝食にしましょう。今日、もしよかったら学校に来てくれませんか?劇を見て欲しいんです。まだ練習中なのですけど」
「わかった。何時からかな?」
時計を見ながら、これくらいの時間に家を出ればいいと伝えて、それから思い直したように向き直った。
「やっぱり一緒に行きましょう。坂が危ないですから」
高校の制服に着替えたその人に押されて、学校までついていった。
随分と久しぶりの光景だった。真っ黒な制服は、昔自分が着ていた時と何も変わらない。それでも、何かが変わっているのだろう。自分が部活動をしているとき、もっと人がいた気がするから。
赤い髪の毛の車椅子の知らない人が来たとなって、周りの高校生に変な目で見られた。自分よりも、連れてきたその子が少し不憫なのではないかと思った。
「ここで待っていてくれませんか?暇かもしれませんけど…」
「そんなことないさ。この場所は好きだ。思い出があるから」
「じゃあ、また後で」
軽く手を振って、扉が閉められた。
高校生だったとき、毎日のように通っていた部室。
演劇部の用具倉庫兼部室だった。
自分が演劇で賞を取った時の写真が飾られている。丁寧に額にまで入れて。
埃を被った写真の中の自分は、どうしようもなく他人に見える。
部屋にあった二人がけのソファと、机を挟んでパイプ椅子が置かれていた。いつか廃材置き場から運んできた、ボロボロのソファ。机には、可愛らしいカップが二つ置かれていた。
これは、知らない。
「洗った方がいいのかな」
それを取ろうとして、床の突起にタイヤを引っ掛けて、倒れてしまった。ガタンと音がして、周りにあった軽い備品がカタカタと揺れた。
地面に落ちていた釘に頬を引っ掛けて、少し血が出た。
そして、すぐに静まる。自分が何をしても意味なんてないかのように。
もうこの場所には、居場所なんてないかのように。
「痛い…」
『部活動で、褒められたんです』
『良かったわね』
『賞状も貰ったんですよ、町長さんから』
いつか、あの人に言っていた話。あの人と自分は根本では全く異なっていた。世間と交わらず、閉じられた世界の中で自分と出会った。
あの人が舞台を観にきたことはなかった。呼んだことは何度かあったけれど、チケットを大事そうにしまっておいたまま、あの人は使わずにいた。
『いつか観に行くわ。えぇ、きっとよ』
そのきっとは、来なかった。
倒れた体を起こすことができずに、地面に転がっている。埃が舞って、キラキラと光っている。息に揺れて慌ただしく動き回る。
「来てって、言ったのにな…」
足が動かない。元にいた場所に戻ることさえできない。
誰にだってできることが、もうできない。それが、たまらなく悔しかった。
無理矢理にでも、連れてこればよかったかもしれない。あの人は拒んだりしないだろうから。
あの人がそれを断っていたのは、彼女にとってそれが失敗だと思っていたからだろう。もう誰も覚えていないような、遠い過去の話であったはずなのに。あの人の価値はそれだけで、自分でさえも正解から離れると価値がなくなってしまう。
「こんなところで寝ていたら、風邪を引きますよ」
しばらく後になってから、心配そうにその子が自分の体を起こした。
車椅子に座り直して、頬の血に絡みついてとれなくなった髪の毛を、少しだけ煩わしく感じた。
その子の後ろにいる、知らない誰かが自分のことを不思議そうに見ていた。
「私の後輩です。いつもは、もう少し明るいんですよ」
それは部屋のことなのか、人のことなのか。後輩と呼ばれた人は、少しだけ会釈をして、自分の前を通り過ぎた。
「劇の台本はこれです。二人しかいないので、話が少し変わっているんですけど」
シンデレラ、と表紙には書かれていた。
役はとても簡略化されていて、その子が王子様と王女様を兼任していた。魔女や意地悪な家族の役を、後輩と呼ばれた人がするらしかった。
「窮屈そうだな」
「仕方ないです。あるものでするしかないので」
パラパラと台本をめくって、懐かしいことを思い出していた。まだ、思い出せる。たくさんのこと、その思い出を。
「…一つ、いいかな?」
「何でしょう、紅茶でも飲みますか?」
それは魅力的な提案だったが、その子の後ろで渋い顔をしている後輩に失礼そうだ。勝手に決めつけているが、この部屋にはカップが二つしかないのだろうから。
「私も劇に出たいんだ。いいや、今日の練習だけ、参加させてくれないか」
二人は少しだけ考えて、快く了解してくれた。
力の入らない足では踊ることさえできないけれど、きっとこの劇に加わることには意味がある。
きっとこの劇の全てを知っている。何度と何度も見たことがある。
それでも、この瞬間だけを切り取って、それを見れたならいいと思う。
目の前で踊る人は、あの人の代わりではない。
誰もあの人の代わりになんてなれない。ただ、他の人が誰であっても、この場所で劇に参加することには意味があるのだ。
とても奇妙な劇だっただろう。
踊れない自分を、王子様が押してくれているから。誰よりも輝くはずの人が、助けてもらわなければ何もできないのだから。
あの頃も支えてもらっていた。
不慣れな自分を、彼女が引っ張ってくれていた。
それがもうできないのは、悲しいことではない。とても、とても当たり前のことなのだ。いつも一人ではない。
一人では生きていけない。踊ることもできない。
そんなことに、今更になって思い出した。
練習の終わりに、片付けをしているその人を見ていると、後輩と呼ばれた人が自分の隣にやってきていた。
「あなたのこと、先輩からよく聞きました」
「そうか…。ガッカリさせてしまったかな」
「いいえ、あなたは私が思っていた通りの人でした。先輩が憧れる、キラキラと輝く特別な人」
隣に立って話しているのに、相互的な理解を放棄したような話し方をしていた。自分の心の中を見られたくないような、隠された本心があるような口調だった。
「君は、あの子のことが好きなのか?」
「えぇ。私の特別ですから」
はっきりとそう言ったことに、自分は酷く感心した。
「いいなぁ」
何度も、あの人に伝えた言葉。あの人は少し困ったような顔をして、『ありがとう』と言っていた。そういうものなのだと思っていた。あの人は苦手なのだろう。自分が持つこの気持ちを。呪いのようなこの言葉が。
斜光に照らされた簡単な舞台の上で、片付けをしているその子が、ふと懐かしい記憶を思い起こさせる。
『怖いですか?』
新しく生まれてくる命を抱きとめた時、そう尋ねた。
あれは、近くにいた犬が子供を産んだ時だった。自分の知り合いの、飼い犬だった。
触れたら壊れてしまいそうな命の重さを、腕の中に抱えて。小さく震える体が、生きていると訴えていた。
『生まれたら、その瞬間からいつでも死ぬようになる。当たり前のことですけど、怖いですか?』
『怖いわ。未来のことなんて、誰もわからないのに』
「伝言を預かっているんです」
「誰から?」
「わかりません。私も知らない人が言ったんです。綺麗な茶髪の、長い髪の女の人でした。誰でもいいから伝えて、そしてどこかで会えるって」
言葉は思い出せる。
だから自分は伝言が好きだった。あの人との会話でも、何度も伝言をした。現実に残してしまうと失われてしまうから、変わってしまうから。だから、変わってしまっても残るように、いつまでも続くように伝言を残したのだ。
「『ガラスの靴をもう一度』。地元のファンがそう言っていたと」
受け売りですけどね、と恥ずかしそうに言った。
それに返す言葉は決まっている。
草野球の試合で、とても弱いチームが放った一つの場外ホームラン。それをまた打ち上げて欲しいと願った。
空に光る流れ星のように、空に吸い込まれて行く白いボール。自分が昔打っただけのそれに、誰かが魅せられたのだろうか。
言葉を、必要としたのだろうか。
少しだけ、頬が緩む。
だから自然と、自分の心の中に湧き上がった言葉を口から告げる。
今度はこの言葉を、誰かに伝えることがあるのかもしれない。
それでも、まだあの人は特別だ。自分の中の唯一の星。
英雄のように、自分の上で輝いている。
「高くつくよ」
それを言うと、隣にいた人が少しだけ笑って見せた。
「伝えておきます」
「また踊れるかな」
「はい、いつだって。貴女はずっと貴女のままです。貴女を決めるのは、いつも貴女だけですよ」
その気になれば、いつでも踊れる。そう言って、その子は荷物の奥から一つの箱を持ってきた。古びた箱だった。
角はすり減って剥がれかけていたし、白を通り越して茶色くなった埃が積もっていた。
「忘れ物ですよ」
「…ありがとう」
いつか、自分が置いてきたもの。
膝をついて、それを受け取った。中身は知っている。だって、これを持ってきたのは自分なのだから。
あの日、輝かしい舞台から持ってきてしまった自分の原点。
「足を、出してくれないかい?」
「…私ですか?」
その子は困ったような顔をした。
「他に適任者がいないから」
「いますよ。ほら、手を取って」
後輩とその子は自分の腕を掴んで立ち上がらせた。力の入らない足では、立つことすらできない。
「す、座らせてくれ。格好悪い」
「何言ってるんですか。人は足でしか歩けないんですよ」
その子はかがんで、自分の足にそれを履かせた。
ガラスの靴。
自分があの人に捧げた、特別なもの。
入るはずなんてないと思っていたのに、何故かぴったりとそれははまった。
最後のピースを埋めるように。
最初のスイッチを入れるように。
「さぁ、立って。貴女は誰よりも輝いて踊るんです」
フラフラとしたおぼつかない足取りで、光の照らされた方へ歩いた。
まるで今歩き始めた赤ん坊のようだった。歩くことができると、その方法は知っているはずなのに、上手く歩けない。
それでも、踵を鳴らして踊った。
ただ一人で踊っていた。
あの人がいつかそうしていたように。
その手を取ったのは、自分だったはずだ。他の誰でもない、あの時の自分。
何度もこけて、よろけてぶつかった。
それでも踊り続ける。
下は見ない。
王子はお姫様の顔だけを見ていれば良いのだ。ただ一人の特別を見つめていれば良いのだ。
「先輩、大丈夫ですか?」
「うん。…またあの人の舞台を観れるとは思ってなかったけど」
二人の会話は、彼女には届かない。
それでも良いのだと思う。もう彼女には、何もかもがあるのだから。
もう何年も踊っていなかったように思う。
歩き方さえも忘れてしまったかのように、足に力が入らなくなった時から、踊ることから遠ざかっていた。
いや、きっと。あの人がいなくなってしまった日から、踊りを忘れてしまっていたのだ。
でもそれは違ったのだろう。
このガラスの靴は自分のものではない。ただあの人のものでも、もう無いのだろう。
ガラスの靴はシンデレラが履くものだ。
自分はシンデレラでは無い。
魔女でもなければ、王子でもない。ただの人間だ。特別なことなんて何もない、どこにでもいる人間なのだ。
きっとみんなそうだった。
人間であることに違いはない。でも、自分とあの人は違うことは知っている。
違うと知っていても、寄り添えることを知っている。
特別でなくても、選べることを知っている。選ばれた人を知っている。
「ねぇ」
不意にカーテンが、手に当たる。ふんわりとした感触の向こうに、少しだけ熱があった。
「楽しいわね」
白い肌が、少しだけ見えた。
カーテンに阻まれてほとんどが見えない。それでも、見間違えたりはしない。
これは幻だ。
瞬きをすれば消えてしまう夢のカケラ。
それでも、今はこの時が何よりも輝いて見える。
「さよなら」
「はい」
「あたしも、ずっと見ているから」
「はい」
「愛しているわ、ありがとう」
床につまづいて、派手に転んだ。ガラスの靴が脱げて擦れた足首から血が出ていた。
汚れたそれらを抱えて、うずくまる。
あの人が見せてくれた幻が愛おしい。
こんなにも、まだ暖かい。
「私は…」
胸を濡らすこの涙は、幻ではない。
乾いていつか忘れていくとしても、この想いは残るのだ。
この涙こそが、自分のあの人の間にある感情だった。
産声を上げるように、上を向いて泣いていた。奮い立たせるように、拳を握って。
がんばれ。
がんばれ。
そしてまた、その先に。
陽が傾く。夕方が終わる。
シンデレラの夕刻が終わりを告げる。
そうしたら夜になるのだ。
また朝がくれば。
全てが悲しみに繋がっているとしても、いつかは失われてしまうとしても。
「あぁ、幸せはここにあるんだ」
現の続きに、自分はいるのだ。
これで本当に魔女シリーズは終わりました。えぇ、ほんと。