平和な世界
「あぁ! ちょっと待って! まだ行かないで!」
出発間際のバスを呼び止めて走る。バスまで時間があると思って、手土産をじっくり選んでいたせいでギリギリになってしまった。
「あぁ、すいません。ありがとうございます」
バスは少し待って僕を乗せていってくれる。これを逃していたら、あの急な坂道を歩く羽目になっていたわけだから、本当に助かった。
バスが動きだして、僕は後ろの方へ向かう。地域の総合病院とはいえこんな地方都市では平日の昼間に病院に行く人は少なく、バスはガラガラだ。適当に座り、窓の外をぼんやりと眺める。
もうすっかり春だ。暖かくなってきた。バス内の暖房が、ちょっと走ってから乗った僕には暑すぎて上着を脱ぐ。
少しするとバスが急な坂道を上り始めた。バスに乗っていても感じられるほどの急な角度に、改めて少し待ってくれた運転手に助けられたと思う。丘の上にある病院だけに仕方がないのだが、どうにもこの坂は歩いて上るには厳しく見える。
そんな急な坂をバスから見下ろしていると、地面がうっすらとピンク色に染まり始めた。視線を上げると、そこには満開の桜が並んでいた。この坂の両脇には桜が植えられており、ちょうど今の時期に満開となって桜並木を作っていたのだ。
「こんなにきれいな桜並木だったなら歩くのも悪くなかったかもな」
そうつぶやくいて、桜並木を眺めながら病院へ向かった。
この病院はずっと前に僕の生まれた病院でもある。僕の両親が生まれたのもこの病院らしい。この地域にずっとある病院だそうだ。僕はあまり病気にならなかったので、子どもの頃ここに来た覚えはほとんどないが、予防接種の時のあの痛い注射と、今日お見舞いに行く僕の妹が生まれたときはよく憶えている。
地域の大きな病院はここだけなので、僕や、僕の家族だけでなく、多くの友達がこの病院生まれだ。それに何か病気になったりケガをすれば最初にこの病院に行ったものだ。大人になっても地元に残っている僕はいまだに会社の健康診断で毎年お世話になっている。
妹だって、地元に残っているのだから、やはりこの病院のお世話になった。妊娠してから行く病院なんて、そもそもここしか無かったし、慣れ親しんだこの病院がやはりよかった。
「さて、甥かな? それとも姪かな?」
僕は産まれたとの連絡だけしか受け取ってないので、まだどっちかわからない。どちらにせよ親族が増えるわけで、まだまだ先だがにぎやかな正月や、増えるお年玉の支払いを想像すると嬉しくなった。
そんな想像をしているうちにバスは長い坂を上りきり、病院の前に停車した。
病室は先に聞いていたので、受付で病室を伝え、面会証をもらう。昼過ぎだからか待合席には少し眠そうにあくびをしている人もいる。妹も寝ていたらどうしようかなと心配しつつ、病室に向かう。
何度も健康診断で来ている場所だけに、見覚えのある方も多い。軽く会釈しながら、階段を上っていく。この階段も、廊下もどこも通ったことがある。食堂もその先の自販機も売店も、みんな一度は使ったことのある場所だ。
廊下を進んでいると、にぎやかな話し声が聞こえる。見舞い客も少ない平日の静かな病院の中で話し声はよく聞こえる。その声はどれも聞きなれたものだった。話し声で盛り上がっている病室に入ると、そこに三人の大人の背中が見えた。ドアが開いていたため僕が入ってきたことにはまだ気づいていないようだ。
「少し驚かせてやろう」
そう思って、ひそひそと歩いて近づいていると、
「あら! お兄ちゃんじゃない! 何してるのよ」
三人と向き合って話していた妹に気づかれてしまった。その声に三人とも一斉に振り返り、僕と目があう。みんな見知った顔だ。
「あら、見つかっちった」
僕がおどけると、みんな笑って迎えいれてくれた。ちょうどみんな集まったところらしい。僕の両親と妹の旦那はもう少し先に合流して、みんなで病院の中で昼食を食べていたようだ。
「なんだ、僕だけ仲間外れ?」
「お義兄さんは予定あわなかったでしょ」
「へへへ。誘ってくれてありがとうな」
「今度またみんなで集まりましょうよ、ねぇお父さん」
「そうだな。正月あたりならみんな空いてるだろう」
「お父さんもお母さんも、みんな会ったばかりなのにもう次に会うときの話をしてる」
そうだそうだった。いくら病院でも病気している訳でないから、どうも気が緩んでいて本題を忘れていってしまう。
「今日の主役を忘れてはダメだな。肝心の主役は?」
「こちらで眠っておりますよ」
妹に抱かれてぐっすりと眠っている。つい先日生まれたばかりで、とてもとても小さく愛くるしい。
「抱いてもいいか」
「もちろん、って言いたいけど、今日はちょっとご機嫌ナナメみたいなの。さっきお母さんが抱いたときに思いっきり泣いちゃって。だからだっこはまた今度ね」
多分両親とも初めての孫だから、嬉しくってつい思いっきり抱きしめちゃったんだろうなぁ。なんとなく妹がお母さんに気づかって話してるのがわかる。僕がもって早く結婚して子供を作っていたら、その時も同じように初孫のうれしさでしっかり赤子をだいたんだろうか? それとも僕がなかなか結婚しなくて、初孫を長らく待たされたからこうなったんだろうか? いずれにせよ、あとでまた早く結婚しろって言われるんだろうなぁ。
そんなことを考えながら、愛くるしい赤ん坊を見る。両親にとって初めての孫であり、妹にとって初めての子供である様に僕にとっては初めての甥だ。あれ、姪かな?
「そういえば、男の子か? 女の子か?」
「あれ、お義兄さんに送ったメールに書きませんでしたっけ?」
「いや、書いてなかったと思うぞ」
妹が優しい目をして、赤ん坊を見ながら答えた。
「女の子よ。」
妹が初めて見せる、娘に対するその目つきで、僕は母になっているのだなぁとなんとなく感じた。父親のほうを見ると、まだまだ前と変わった様子はない。父と母はやはり少し違うようだ。ふと両親を見るとお父さんもお母さんも、初孫に対する目線は同じだ。何か感慨深そうだ。父親も母親もスタートは違えど、孫を持つくらいには似た様なものになっていくんだなぁ。何やらこっちも感慨深い。妹もその旦那もいずれ両親みたいになって孫の誕生を祝うんだろうな。僕も結婚すれば、いずれこうして父になっていくんだなぁ。まだ結婚してないけど。
あれだけ騒いでいたみんなも、すっかり静かになって、新しい命を見つめている。こうしてみるとやはり家族なんだなと思う。抱きかかえられた小さな命に春の暖かい日差しがかかる。穏やかな午後だ。窓の外を眺めるときれいに晴れていて、青空に雲の白さが映える。
「そういえば、お兄ちゃん何もってるの?」
妹の声で我に返る。手にしていた手土産を思い出した。
「お前に手土産だよ。出産祝いも入ってるよ」
「まぁ! ありがと」
性別がわからない中、長々と考えた出産祝いはとりあえず気に入ってくれそうだ。
「男女どっちかわからなかったから、なかなか悩んだよ」
「結局何にしたの?」
「開けてからのお楽しみということで。ひとまず実用的なものにしたからいらないということはないと思うよ」
妹は少し訝しげな表情をしたが、僕を信用してくれたのか、ありがとうとだけ言い、中身をあらためたりはしなかった。
出産祝いも渡せたし、主役の顔も見れたし、今日の目的は一通り達した。久しぶりに両親と妹の旦那にも会えたし、上々だ。妹も交えて、次に会うときのことも話せた。正月だから随分と先の話になるけど、たぶんあっという間のことだろう。
気づけば随分長い間話をしていたようだ。陽が傾きつつある。一日の中でもあっという間だったようだ。赤ん坊の頬も夕日でうっすらと赤みがさしてきた。そろそろ引き上げようかと両親に目線を送ったが、あちらは赤ん坊に夢中で気づいてくれない。困ったな。
帰るタイミングをうかがっていると、突然遠くで、雷のような音がして、窓が少し揺れた。
「?」
音に合わせて、みな窓の外をみる。この病院は小さな丘の上にあるから少し先までよく見える。しかし、窓から見える町はどこも雨は降っていなかった。少しして、地面が揺れた。地震にしては小さかった。
「運がよかったな。今回は小さいぞ」
「それに遠いみたいですね」
「えぇぇぇぇん! えぇぇぇぇん!」
「あら、起きちゃった。よしよし、いい子だからねぇ」
泣き出してしまった赤ん坊を妹がゆする。両親も懸命にあやそうとしている。僕は窓の外の空を見ていた。夕焼け空に、一筋の飛行機雲ができていた。
あの後少しして、僕は病院を出た。両親と一緒に帰るつもりだったが、むこうはもう少しして、旦那といっしょに帰るつもりらしい。よっぽど初孫が嬉しかったんだろう。離れたくないみたいだ。
病院を出て、バスを待つ。時刻表を見ると、しばらく来ないみたいだ。夕暮れで気温も落ちてきた。来るときはすこし暑かった日差しも、十分に傾いて涼しくなっていた。
「夕焼けに桜も悪くないか」
そう思って、歩いて下ることにした。坂とはいえ下りならそれほど大変ではないだろう。それにこんなにきれいな桜並木だ。多少苦労しても通るに値するものだ。
僕は夕焼け空を眺めながら歩いて坂を下り始めた。もうじきに日が暮れ果てる。傾いた陽は雲を紅色に染め上げていた。さっきの飛行機雲はもう薄れて消えかけていた。その時、一筋の飛行機雲が紅色の空の合間を暗がりに向けて通って行った。