方舟の歩き方
猿でも分かる!方舟の歩き方実践編
まだ半分は残っていたコーヒーを飲み干し立ち上がる。
「じゃあもう一度行ってくる」
「え!?」何をそんなに驚くのか。「ダメだよ! まだ休めてないじゃない!」
十日も休んだだろう、と口を開きかけるとドクトルはそれを察知して、僕の言葉に待ったをかける。
「あのねぇ……意識が戻ってから、ちゃんと休まないとダメだって、分かってる? 分かってないでしょ?」
どうやら不服であるらしい。この通り、体は問題なく動くのだが。
それに……これはどうしたことか。
僕は今とても浮き足立っている。好奇心と言うのか。こんなにも外に出たいと思ったのは久しぶりだ。
この気持ちを駆り立てたのが、死後の世界である方舟と言うのは、なんとも皮肉な話だが。
「ドクトル」
「…………じゃあこれも渡しておこう」
いかにも渋々と言いたげに、ドクトルは懐から懐中時計を取り出して僕に渡す。
「ベルトにでも付けて、ポケットに入れときな」険しい顔でそう言って、「いいかい、一時間だけだ。それ以上は待たない」だから、それまでに戻ってこいと、ドクトルは告げた。
一時間。ラッキーと言っておこう。
「それだけあれば充分だ」
こなすべきは見えた。
さっさと布団から抜け出て、ドクトルのすぐ近くにカップを置く。
「洗っておいてくれ。帰って来たら温かいのが欲しい」
さぁ、もう一度だ。
背後で扉の閉まる音がした。
大きく息を吸ってみる。目を開けるのはもうしばらくあとにしよう。
ポケットに突っ込んだ右手に握り込んだ、鍵の感触を確かめる。
真新しく、掌でその形を 探ってみると、滅多に見ない形をしていることが分かる。
まだ苦しくない。
一度息を吐いてみる。
このまま空気を吸えるのか? そんな一抹の不安が過ぎった。
もう一度、大きく息を吸ってみて。
ここだ。
今度は合わせて目を開ける。
空は真っ黒だ。
落胆して息を吐きそうになって、慌ててとめた。
いつ止まるか分からない分、この一呼吸は大切だ。
ゆっくりと息を吐いて。
苦しさが襲うことは無かった。
ほんの少し目眩がする程度。どうやら自分の魂は、この十日感で方舟の環境に慣れてしまったらしかった。
まったく預かり知らぬところだが、好都合だと捉えることにした。一時間を有意義に使える。
前回は一歩も、自らの意思で動くことが出来なかった。
今回は。
一歩踏み出して。
急にどこか遠くへ来たような気がして振り返る。
そこには変わらぬ景色があった。
用心深く周囲を見渡す。相変わらず真っ黒な空に、無機質な地面。だが……
「…………」見られている。「誰かいるな」先程までは気配すらなかった誰かに。
腰に提げた刀の柄へと手が伸びる。
これはどうしたことだろう。遮蔽物は一切ない。なのに他人の視線を感じた。見られている、今も。
ドクトルの部屋から出た時には感じなかった視線。それを一歩、たった一歩踏み出しただけで感じた。
ふと目を細めて、頭の中で静かに、彼の言葉を反芻する。
約束の……魂の……自我の……いや違う、もっと前。
「……歩き方が違ったか」
そう、歩き方。思いの強さで距離を縮める。
そうだ、方舟において、距離などあってないようなもの。
考えてようやく分かった。それが適用されるのは自分だけではない。対象は方舟で生ける者全て。
首筋に水滴が降りた。
雨?
違う。雨でも降りそうな空模様だが、方舟に雨など無いだろう。
右手で拭う。
冷や汗か。
見ているのは誰か。見えないのはなぜか。次の行動を――
「視えた」
――予測して抜いた。
鞘が摩擦の音を鳴らして、あるはずのない光が刃を反射する。
左、斜め、前方。……不意打ちにしては嫌に正直だ。
鍔迫り合う前に初撃を地面に流す。
三歩下がって中段に構え。
その時始めて相手を見る。
「……」夢みたいだ、冗談じゃない。「化物」
それは一応、人に近い形をしていた。
体の片側が異常に隆起していて、腕が丸ごと鈍器のように膨れ上がっていること以外は。
これのどこが人間なのか。
短く息を吐く。真上から降ろされた腕を、体の軸をずらして躱す。
刃を左側へ。一瞬振られたそれは、するり、吸い込まれるように異形の脇腹へ飲み込まれ――「……ッ」――しかし切り裂くことは敵わない。
水が入った容器の向こうに鉄板がある。
手応えはそんなものだ。半ば弾き返されるように刀を離す。
勢いを利用し右回転。遠心力を乗せてもう一度、今度は胴に叩き込む。
ジンと痺れる感覚。
刀を落とさぬように握り直し、痛む手を堪えて退く。
硬い――視界に陰がこびり付いて――上に、速い!
「ぐっ!」
間一髪、両掌を支えに刀一本、ハンマーのような片腕を受け止める。
潰されるのに時間は要さない――ならば。
納刀するような仕草で頭上の鈍器を受け流す。
呼吸を見て。
一秒後に防御の暇はない。
好機だ。右足を踏み込んで同時、上半身を右へ捻る。
「せっ」と短く息を吐き。
捻りを解放。相手が開けた胴に、一閃素早く横に薙ぐ。
振り抜いた刃を通じて――
「う…… 痛ぅ……」
――鈍い痺れ。
残心。染み付いた癖が勝手に身体を停め。
結果、それが命運を分けた。
「くきっ」
痺れが腕から脇腹へ移った――かに思えた瞬間、強い力で後ろへ引っ張られ――違う。体の中心が爆発し――
僕の口からしとどに流れ出るこれは。
赤いこれは血か?
どれくらい吹っ飛んだのだろう。だとして、背中に当たるこれは、地面か。
刀を杖に膝を立てる。腹部を摩って爆ぜた訳では無いと確かめる。
鈍く、重く、激しい痛みだ。
立ち上がろうと力むだけで、痛みが津波となって押し寄せてくる。
視界の揺らぎが、魔力とやらのせいなのか、この痛みのせいなのか、定かではない。けれどその中で、僕はもう一度、目の前の化物を見やる。
確かに斬れている。
僕の放った一撃は、確かに肉を裂いた。
それでも僕を吹き飛ばす馬力を出せたということは、致命傷ではないのだろう。それとも火事場の馬鹿力か。まぁなんにせよ――
傷が塞がり始めているのだから関係ないか。
なんとタチの悪い相手。これではいくら斬っても。
深呼吸を繰り返す。
痛い……痛くない。痛みなどない。
頭の中で繰り返す。
地平線の上に広がる空は七色に輝き始めていた。
時間が無い。息苦しさは攻撃を受けたためばかりでは無いらしい。
どうやら、次の一撃が最後か。一時間も持たないとは情けない話だが、致し方ない。
慣れないものには、少しずつだ。確実に変化はしているのだから。
相手が腰を落としてこちらを睨む。
さて。
どのくらい動けるか。
腹筋が痛むが立てないことはない。刀も握れる。ただ問題があるとすれば、立ったところで一歩も動けそうにないところ。
もう一度深く息を吸う。
何のことは無い。むしろ、これくらい単純でなければ分かり難くなってしまう。
立って構える。やることは一つだ。
「来い」
一撃で獲る。
呼吸のたび、体の奥深くに痛みが沈み込む。
意識が朦朧とする。
ふわりと柄を握り。
相手の動きを。
躍動を。
四肢を。
呼吸を。
「……!」
落とした腰をそのままに、異形は己の肉体を弾丸と化す。軌道は真っ直ぐ。僕が立ち上がったかどうかなど関係ない、武器など歯牙にも掛けない。清清しいほどに轢き殺すつもりの一撃だ。
止めの一撃が、強烈なタックルというのは如何なものか。僕はため息を吐き――実際その暇はないのだが――たいのを堪え、一秒後に迫る衝突を視る。
曲がらない。
空気の層が厚くなった気がする。錯覚か、それとも本当にそうなのか。異形の姿が大きく見えて、影と共に迫り来る。
音がして。
目が合って。
交錯。
「……ふぅ」
僕を轢き潰すより一寸早く、異形が到達したのは、眼窩から脳天を穿つ刃だった。
異形はその勢いのまま、しかしやはりと言うべきか、僕の体を巻き込んで、もんどりうって転がっていく。
凄い土煙だ――一体どれだけ転がるのか。いや、これだけ転がるなら、正しく交通事故と言うべきなのか……とにかく。
凄まじい埃が止み、地面がぐるぐる回るのをやめたころ、柄を伝う赤い液体が手を濡らしてハッとする。
鳥肌が立った。
初めて人――人?――を殺した。
不思議と何も感じない。血に慣れたのか。それとも別の要因か、僕は嫌に落ち着いていて、つまりはぼんやりとして。
異形ともみくちゃにされてなお、その肉と肉の合間から、僕は地平線を眺めた。
「……」やはり、と、残した息を全て吐く。「綺麗だな」
僕はすかさずポケットの中の鍵を握り締めた。