不透明な話
「で」
手刀を振るように手を下して。
「方舟みたいに、魂が優先される場所に出ちゃうと、頭の方の認識と、魂側の認識が大いに食い違うわけだな」
「……ああ」
合点がいった。
確かに、一度目に見上げた空と、二度目に見た空は、驚くほどに違って見えた。
「一度目はその齟齬があまりに大きい。だから、まず意識を保つことはできない」
「それを分かっていて、鍵を?」
「そうさ。僕は優しいからね」
嘘を付け。そう罵倒するのは簡単だ。しかしその前に、僕が今確かにここにいるという事実があった。
僕はここを出た。それは間違いない。そして方舟で気を失った。それも確か。
だとして。気絶した僕を探し出し、ここまで連れてきたのはドクトルで、つまり、彼には恩があるということになる。
「……ありがとう」
呟いてみると恥ずかしいものだ。僕はコーヒーを飲むふりをして口元を隠す。
ドクトルは意外そうな表情なぞ微塵も見せず、いつものニヤケ面のままだ。
「君はやはり『いい子』だな」
「抜かせ」
そういう類の言葉を受けたのは初めてだ。何せ、ここに来る前は――やめておこう。後ろめたい記憶だ、話すようなことじゃない。
「……質問」
「はいどうぞ」
「死んだら魂だけがここに来るのか?」
「なんでそんなこと聞くかな。当たり前じゃないか」
今更なことだ。さすがに分かっていた。ドクトルの「馬鹿だなぁ」と言いたげな……いや、事実漏れた言葉は置いておいて、これは確認も兼ねていた。
魂が集まる場所なのだ。方舟は死者の乗る舟といったところか。
そう、魂の乗る舟。生きているうち、切符は決して手に入らない。僕は今そういう場所にいて、だからつまり――
「方舟の空は見たことがある」
目を閉じて、そう古くない記憶を探る。
あれは都合よく見た夢だと思い込んでいた。
真っ黒な空。時折走る七色の筋。目を前にやると、そこには延々と続く、起伏のない、どこか人工物然とした地面。
「……あれは綺麗だと思うよ」
ドクトルは黙って、僕が次に言葉を続けるのを待っていた。
ああそうだ。方舟の空。僕をあれを一目見た時、綺麗だと思った。生前――と言うのもおかしなことだが――景色に心を震わせたことなどなかったが、そうか。
あれが写真を撮りたいという気持ちなのだろう。
「もう一度見てみたい」
それは、確かな願望だ。ささやかで、目的から少し離れている気がするけれど。
僕は今、見知らぬ誰かに会うことよりも、方舟の空を眺めていたいと思っている。
ドクトルは今度こそ、ちょっと意外そうに眉を八の字に吊り上げた。
「おかしいかな」
「いや……いやいや、おかしなことはないよ。ただちょっと……」意外だった、か。「……驚いたな。折れて、今度こそ頼ってくれるとばっかり」
この男は頼られたかったのだろうか?
ともかくだ。外に出たいと思うならばこそ、聞かねばならないことがある。
「もう一つ質問だ」
ドクトルが掌を僕に向ける。質問してもいい、ということか。
「十日もかかった理由はなんだ?」
僕がそう質問すると、俯いたままのドクトルは体勢を変えず、ボソボソと答える。
「また難しい話なんだ。君の魂はどうやら、一人歩きが好きみたいで」
良く分からない。
冷め始めたコーヒーを啜る。
「君の体は確かに生きていた。魔力が定着していたから、これは間違いない。ところがおかしなことに、いつまで経っても目を覚まさない」
「怪我でもしてたんじゃないか」
「その可能性は」ドクトルは顔を上げた。「ちゃんと考慮した」
言って、僕の体を指さす。
「結果、怪我は一つだけ。頭を強く打ったようだった。でもおかしい。脳に損傷はない」
「なら……どうしてだ?」
「一つ仮定を立てたんだけど」指した指をそのまま顎に持って行って。「魂の、それも自我に関連する部分がごっそり、方舟をさ迷ってるんじゃないか? とね」
「有り得るのか、それ」
「もちろん有り得ないよ! 考えられない。要するに、分かったことは一つ」
顎に当てていた指でもう一度銃口を模して。
「君の魂は普通じゃないってこと」
それが、まっすぐ僕を睨む。
普通ではない。なぜだろう、僕はその言葉を、驚くほどすんなりと受け入れることが出来たのだ。
僕にとって普通でないことなど些事だというのか。とにかくだ、ならば問題は一つだけ。
「普通じゃなければなんだ。外に出るなと?」
コーヒーカップは空になった。
ドクトルはまた黙り込む。でも今度は俯かない。まっすぐ僕の方を見て、何か考えているのだろうか、ゆっくりと口を開いて。
「なんて言うのか予測してると踏んで、敢えてもったいぶって話すと」
僕はため息をついた。
「君には今幾つかの選択肢がある」
「ああ……うん、幾つかな」
あってないようなものだが。
「一つ。外に出る。この場合、君は本当の意味で、自分の足で歩かなきゃいけない」
そして確かに言えることとして、僕はこの選択肢を選ぶだろう。
あとに続く条件がどんなに魅力的であったとしても。それは僕にとって関係の無い話だ。
「一つ……僕が魔力の使い方を教え、それから外に出る」
どちらも同じと思うだろうか。答えは否だ、全く違う。
二つ目の選択肢は魅力がある。体調を万全に整え、機を伺い、方舟のことをもっと調べることだってできる。
だが僕はその間、ずっと負けたままだ。
相手がどこにいるのか、そもそもそれが人間なのか、どんな技を使うのか、どんなふうに動くのか。呼吸の一つさえ、ずっと分からないまま。
そんなことは耐えられない。
拘りすぎるなと、幾度も言われたか。
でも何を言われたって、僕が勝利を求め続けることは変わらない。
僕にとって、勝つということは生きるということで。
「……負けてられないんだ。止まっていられない」
負けることは、終わることだ。
ドクトルは僕がまだ生きていると言ったけど、それは嘘だと思う。
僕は負けたままなのだ、生きてはいない。
それはまさしく、十日も意識を失っていた時と同じだ。
僕は今こうして息をして心臓が鼓動を刻んでいて。だから死んではいないのだ。
でもちゃんとした意識が、しっかりとした思考ができるのかと問われれば――。
「お前は心臓を誰かに預けておけるか?」
――出来るわけがないのだ。
出来るわけがない。出来るわけがないのだ。なぜなら、アイツは、顔も名前も何もかも知らないあいつが。
あの目深なフードから覗く瞳が、未だ僕に、敗北を知らしめてくるから。
あの瞳がある限り、 僕は奴を倒すことばかり考えてしまう。
「分かんないな」
「そうか?」
「そうとも」深くため息をつき。「…………約束があるんだよ」
ドクトルは小さく呟いた。
「ある男とね。君を彼の元まで連れていくと約束した」
だから、とドクトルが立ち上がる。
「死んでもらっては困るんだよね」
「だったらどうする」
「一つレクチャーだ」
ドクトルは本当に良い奴だ。
「魔力の動きを感じること。それができれば、基礎はまず出来てると言えるだろう」
いまいちピンと来ないアドバイスだが……外に出れば分かることもある。
「悪い、またしばらく世話になる」
「ああ……うん。どのくらい?」
「無論、お前が約束を果たすまで」