武神の願い
ユダの姿が見えなくなるまで走り続けて、ようやく、息が上がっていたことに気付く。
手を握り、感触を確かめる。
自覚するのが遅かったのだ。
ユダの――いや、ドクトルのことを勘違いしていた。
やつは手段を選ばない。
自らの好奇心を埋めるためなら、僕の体液だってなんとかするし、刀にだって仕掛けを作るような奴なのだ。
そして、死者故に、その好奇心にはブレーキが無い。
見たいと思うなら手段を選ばずなんとかするだろう。
ルシフェルが、僕を殺すことに戸惑うと言うならユダの手で。
あの殺意は本物だった。
あそこで退いていなければ今頃。そう思うと、未だに汗が噴き出てくる。
ミカエルは無事だろうか……いや、狙いは僕だけだ。ミカエルが脅かされることはないし、きっと一人でもなんとかする。
あの加速力だ。逃げに徹すればどうにでも――
「あ、いたいたー」
――なったようだ。
「無事だったのか」
「まぁね。ユダにはびっくりした!」
「ああ……」
本当に驚かされた。
敵に回ったこともそうだ。予測は出来たかもしれない。しかし本当にその時が来るとは思っていなかった。
あの男は敵になった。
事実はそれだけだ。
そして、もう一つ。
ルシフェルとの戦いは避けられないということ。
願ったりだ。装置を追えば自ずと辿り着くと思っていたが、あながち間違いでもなかった。
それでも、目的は読めないが。
家族の魂を集め、どうするつもりだろうか。それを融合させることになんの意味が。
ドクトルはやつの目的を察していた。盗まれた装置と、狙われた僕を見て、あいつはまだ諦めていないと。
「……なぜ僕なんだ」
ルシフェルの探し物は僕だった。
僕の魂は優秀であって欲しいと願っていた。
その言葉が嘘かどうかは些細なことだ。
ルシフェルはまだ、僕の魂を手に入れていない。
探し物は紛れもなく僕の魂で、だからこそしつこく付け狙ってくる。
僕がルシフェルから奪ったものとはなんだ?
方舟に来るまで会ったことも無い、生きていることすら知らなかったルシフェルから、僕が何か奪えるのだろうか?
分からない。
何も。
ただ、終わりは明確に近付いている。どうしようもない程に。
魂を納め、融合し、その果てにあるものは、一体なんだろう。
「難しい顔してる」
「そうか?」
いつの間にか、正面に回り込んだミカエルが、僕の顔を覗く。
彼女なら、何か知っているはずだ。
「ミカエル。ルシフェルの目的が分かるか?」
「大体はね。というか、それ以外に欲ってものがない子だし」
屈めていた体制を戻して伸びをする。「皺になっちゃったな」なんて零してから、ミカエルは背を向けた。
「つまるところ、あの子は人間になりたいんだよ」
「……なに?」人間に?「なぜ」
「さぁ? そこまで突っ込んだことはないから。ただ、ルシフェル、いっつも言ってたんだけど」服の皺を正しながら、「寝るのが怖いんだってさ」
……良く分からない。
なぜ眠るのが怖いのだ。あれほどの強者ならば。部下がいるのなら。
寝首をかかれる心配は――。
待て。
思考を無理矢理転換する。
眠ることは目を閉じることだ。
僕は目を閉じルシフェルと繋がることができる。やり方は極めて簡単で、ただ心を沈めて瞼を落とすだけでいいのだ。
なにかに似ていると思っていた。
あいつがもし、眠る度。僕の目から、世界を眺めていたとしたらどうだろう?
そこにあるのは、剣にのめり込む僕と、それを疎ましく思う両親。
そして――僕を愛してくれる妹だけ。
だけど、あいつは、ルシフェルは、それを決して手に入れることが出来ないのだ。
目が覚めても、あるのはこの真っ黒な空と、果てしない大地だけ。
居るのはただ、自分より遥かに長い時を生きたNSだけ。
そこに家族というものは無い。
たとえそれが、単なる言葉だとしても、慰め程度にも、そんなものは存在しないのだ。
目を閉じる度にそれを見ていたとしたら?
家族を見る羽目になったとしたら?
二度と手の届かないまるでガラスの箱に入った宝石を見つめるような。
悲しみでも、妬みでもない。
ただ一重に。
手を伸ばせばそこにあるのに、触れることが出来ないもの。
身に付けることができないもの。
触れるには、ガラスの箱を壊すしかない。
家族という名のガラスの箱。壊せばただの破片に成り下がる、脆くも美しい、そしてたしかに存在する壁を。
アイツはずっと見つめて来たのだ。狂おしいほどに憧れた、ガラスの向こうの宝石を、十五年もの長い間、ずっと、ずっと。
それを守れる自信があるならば、身に付けておけばいい。ルシフェルはそう考えたのだろうか。殺してしまえば二度と手に入りはしないのに。
破綻していると気が付いているはずなのに、それでもまだ、僕の魂を求めるだろうか?
僕はその思いに――その願いに――
「僕はアイツに勝てるのかな」
ミカエルは驚いた顔をした。
「らしくないね。本当にらしくないよ」
「そうか?」
「うん」と即決し、「第一、僕って。最初に会った時とは変わったね」
また、ミカエルはまっすぐ僕を見る。
「……怖い…………あと………………疑問?」
ブツブツと呟いて。
「分からないことがある?」
「さっき言っただろう。二度も言わない」
「そんなに不安がっても仕方ないし、そんなの変だよ」
おかしい、か。
これ以上ないくらい正論だ。
戦う前に考えてもどうしようもない。だけど、どうしても……どうしても考えてしまう。考えずにはいられない。
勝てると思えない。その未来が想像できない。少し前はこんなことはなかったのに。
前へ進めば進むほど、その背中が遠のいて行く。背中に届いたはずなのに、それが霞のように、遥か遠くへ逃げていくのだ。
僕はもっと、自信家だったはずなのに。
追い付けると信じていたのに。
今や、その確信すら危うい。
――願いの大きさを知ってしまった。
――思いの重さを知ってしまった。
その強大さに戦いている。
手に入らないと知っていて、それでも手を伸ばさずにはいられない。何年も何年も耐えてきたのだ。それを手にする手段を見つけてしまった。十五年越しの我侭を。その輪にいるはずだった自分を叶えるために。
あいつも見たのだ。
全てを捨てて、本当の意味で一人になって、それでも捨てられない、確かなものを。
それが僕と同じ、家族だったという話だ。
ルシフェルは僕をどう思っている。
きっと憎んでいるのだろう。
きっと妬んでいるのだろう。
きっと、いや、絶対に、僕を恨んでいるはずだ。
そんなもの、僕のちっぽけな恨みなどとは比べるべくもないのだ。
だからアイツは強かった。
その思いの強さが、あいつの根幹にある。
僕は。
僕はあいつに、勝てるのだろうか。




