方舟へ
短く行きます
背後で扉が閉まる音がした。まぶしさに目が眩むんで目をつむる――
「……?」
――いざ身構えて出た外に、眩しさは無かった。
鼻を突くような香りも、耳障りな喧噪もない。
皮膚を焦がす暑さも、肌を刺す冷たさもない。
そこにはひたすら、広大な「無」が有った。
ふと視線を少し上げ、ずっと向こうの方へと視線を投げてみても、地平線が見えるほど、やはりそこには何もない。
そういえば、光源はどこにも無いのに暗くもない。自分の手足ははっきり見えているし、さっきも言ったように、はるか遠くまで見渡せるのに。
なぜ、と独り言を零さぬように空を見上げると、そこに答えはあった。
「……黒い」
空が黒い。
人工的に塗りつぶされたのか。そう思えるほど空は真っ黒だ。なるほどこれなら青空のような明るさは微塵も感じない――それでも眩しく感じないのは、些か疑問だが。
真っ黒な空に、痩せこけた大地。それが果てしなく思えるほど、延々と続いている。
なるほどこれが。
「死後の世界、か」
呟いてみても言葉を返すものは無い。僕はその世界で、その方舟の中で紛れもなく一人だった。
寒気がする。遠近感が狂う。自分が立っているのがどこなのか、本当の意味で理解していないことに――ふと気が付いてしまう。
不意に、足の力が抜けて膝を着く。視界が揺らぐような感覚――いや、違う、揺らいでいるのだ。滲むように、陽炎のように、はるか遠くの地平線が揺らいで見える。
吐き気に襲われて目を伏せる。息苦しい。呼吸が思うようにできない。空気の中に、何か吸ったことのないものが混じっているような違和感があった。何かが足りない――何か――とても大切なものを――僕は――……。
耐えられない。咄嗟に目を閉じその場にうずくまる。
鈍い音。鈍痛。頭痛。生温かな感触。頬に当たる固い何か。
確かめようと目を開けて。
僕はその空が、本当は極彩色で出来ていることを知った。
今まで黒かった空を埋め尽くすように。或いは落書きのように乱暴に、或いは点描のように繊細に、無数の色、色が散りばめられて、その空は赤く、その空は青く、その空は目まぐるしく輝きを増して、そして、つまり、そうか、混じって混じりあってだからこそ、だから、空は真っ黒に見えて。
だったらなぜさっきはあんなに黒く見えたのだろう? なぜ今はこう見えるのだろう? 僕の中で何か――決定的な何かが――変化し。今、違った景色を見せている。
もう一度目を閉じる。今度は割れるような頭痛に襲われて、やはり息を吸おうとし、出来ない。肉体にいくら酸素を、空気を供給しても……意識が……遠のくのを…………阻止、できない………………。
……。
重い。
起き上がることができないほどに重い。指一本も動かせないほど狭い空間の中にいる。
不思議と浮遊感がある。それが逆に不安を煽っていた。
今度は空も地面も真っ黒だ。立っているのか横たわっているのかも分からない。何も見えない、何も……、見えない? そもそも目はどこだ?
手を。腕を。脚を指を――無い。
何も無い。上も下も右も左も方向はおろか肉体さえ。意識だけが、小さな器の中でふわふわと気ままに浮かんでいる。
ここは……閉じた、容器の中? 出口は、光は、体は、どこに――、もしかして、出られない――このままずっとここに?
嫌だ……嫌だ! それは、それだけは! こんな、何もない場所に! ずっと何も、何一つ成せないなんて、そんな!
まだやりたことがある! 後悔だって! 伝えたいことだって! 夢だって! まだ道の途中なのに――!
だから、頼む、ここから、どうか、ここから。誰か、ここから。ここから僕を出してくれ…………。
不意に、誰かが手を叩いた。