自分はどこにいる?
僕には好きな人がいる。
まぁこの際だ、好きに性別は関係がない。
その人と、生きていたころ、何度か話したことがあった。
彼は昔からの僕を知っていたし。
僕は昔からの彼を知っていた。
一言で表すなら……天才、だろうか。人々は口を揃えて彼はどこかずれている、なんてことを言うが、僕はそんなこと、微塵も感じたことがなかった。
彼の考えと僕の考えは良く合っていたし、だからいわゆるそういう、お互いの持つ空気が噛みあったのだろう。
僕はその男に強く惹かれた。
理由は色々あったけど、それを決定づけたことは一つ。
彼は強い人間だった。
僕の持つ強さとは違った、全く異質の強さ。
僕はそれに強く惹かれ――
いつしかそれは、恋心となっていた。
「…………」目覚めは最悪だ。
パンツが濡れている。
シーツにシミは無い。
その分、自分の股間を濡らす液体は何なのか察しが付いた。
この独特な匂い――。
「おはよう。よく眠れた?」
「……! ど」待て、コイツいつから見ていた。「あ、う………ん。おはよう」
「トイレはあっちの扉。風呂の隣」
「ありがと」
ドクトルに背を向けてから。
「じゃちょっと」
僕はさっと立ち上がって、早足に扉の方に向かう。
見られていない? 見られていないな。よしならば良しだこのまま風呂場でなんとか時間を潰して乾かせば最悪のパターンは――
「あ、ごめんパンツ脱いで」
「は、な」もしかして、もしかすると。「ドクトル……!」
ゆっくり首だけ回すと、ドクトルが笑っているのが見えた。
「良い夢見れたでしょ?」
「お前の仕業か!」確かにいい夢は視れた気がするが!「せめてことわりを入れてくれ!」
「許諾降りるの?」
「下りるか!」
でしょ、と言いたげに、ドクトルが深くため息を吐く。
「これ替えの下着ね」と言って、広い机の一角を指さす。「あとこれ。君の服、似たのを新調しといた」
興味が失せたと言いたげに、ドクトルは背を向けて、巨大な機械の箱に触れる。
「……凄く釈然としない顔してない?」
誰だってすると思うが。
「なんで、こんな」
「人間かどうかの最終チェックだよ」
そう言って、どこから取り出したのか、ドクトルはまた不味いコーヒーを僕に押し付けた。
「目が覚めるよ。それで、なんでって話だけど」ドクトルも同じカップを持とうとして。「僕はこの有様だし」するり、指がカップをすり抜ける。
ドクトルは大きくため息を吐く。
「物を掴むのにもちょっとしたコツが要るんだ。当然、生物には触れることすらできない」
幽霊だからね、とドクトルは付け加え、少しその笑顔に自嘲が混じる。
「つまり最終チェックには君の特定の体液が必要だったわけだけど、僕自身では採取することができない。だから自分で出してもらおうってわけ」
「事情説明がひどい」
もう少し頑張れば多少はオブラートに包めたと思うのだが。
ともあれ。
「……とにかく、着替えてくる」
「オッケー。洗っちゃダメだからね」
僕は大きく何度目かのため息を吐いて、脱衣所に向かった。
「おめでとう。これで君は人間を名乗れる」
「ああ……」つまりやはり、あの時死んだ訳では無かったと。「……感謝する」
「いやいや。」冗談、なんて言いたげに手を振って、「僕は興味本位で構ってるだけだから」とドクトルは言う。
腰のベルトをキツく締める。
「……やっぱり行くんだ」
「ああ、行くとも。『礼』を言いに行かなきゃならない」
体の関節を伸ばす。
多少鈍っているかもしれないが、まぁ、問題ないだろう。道中で勘を戻せばいい。
「で」
「ん?」
パーカーに袖を通してから、僕はドクトルに掌を向ける。
「まだ渡してないものがあるだろう」
そして、僕がドクトルをいまいち信用できずにいる理由を語る。
ドクトルは僕に、一つだけ返していないものがあった。
「俺はあの日、刀を持っていたはずだ」
ドクトルはじっと僕を見る。僕はその視線から決して目を逸らさない。
しばらく睨みあう。するとドクトルは諦めたように眉を八の字に曲げた。
「どうして分かったのかな」
「手を離さない自信があった」
「君は運ばれてきたんだよ? その時に奪われたとは思わない?」
「じゃあ、有るのか無いのか。はっきり言ったらどうだ」
ドクトルはため息をついて、「降参だ」と両手を広げて背を向ける。
「まさかそう来るとはね……」
「来るも何も。」最初から気付いていたのだ。「あれは俺の命だ。簡単に手離せる物じゃあない」
ドクトルが参ったとばかりに頭を下げる。手で乱暴に髪を乱すと、いつの間にやら、空いた方の手にそれは握られていた。
「最後の最後で君はやっぱり勘がいい。それじゃあ」
ドクトルは振り返り。
「これは君に返すとする。それと」言って、僕の手に何かを握らせる。「これもね」
手渡されたものを見る。この形……。
「鍵?」
「そ、鍵。そいつを使えば、いつでもここに戻れる」
「…………」
「おっと、要らないってのは無しで頼むよ? ここに直通のやつは初めて造ったんだから」
なら、なおさら受け取れない。恐らく今、これは一つしかないのだろう。使い方も分からない。壊してしまっては事だ。ドクトルには世話になった。仇で返すようなことはしたくない。
「大事にしてもらわなきゃ」
「自信がないな」
「壊れたなら、壊れた時さ。僕には余るほど時間があるから大丈夫」
腕を組んで、しかしドクトルは優しく微笑んでくれる。
「それに、安心しなよ。すぐ使うことになる」
「なぜ?」
「なぜってそりゃあ」何か言いかけて。「……外に出れば分かるよ」
ちょうど刀を腰に提げた所で、ドクトルは相変わらずもったいぶって教えてくれない。
さすがに、今から出ていく人間に、これ以上とやかく言う気になれないのだろう。
靴ひもを結ぶ。
鞘紐を確認する。
渡された鍵を、ジーンズのポケットに捻じ込んで。
「あー……」
「なに」
「世話になった」
「まだ早いよ」
ドクトルは扉を指さして。
「それじゃ、ま。行ってらっしゃい」
僕は力強くうなずいて、ドアノブに手を掛ける。
「行ってくる」
そして、僕は扉の向こうへ踏み出した。