お前は誰だ?
「……お前は、誰だ」
「だからドクトルだって」
「違う」そうじゃなく。「どこの、誰だ?」お前は何だ?「出身は?」何処にいる?「年齢は、家族は、職業は、所属は」怪しいところだらけだ。
気付いてみれば、此奴は一体何者なのだろう。不気味さだけが僕の心を蝕んでいくようで、僕はまた、胸の傷を指でなぞった。
「どこの誰……って言われてもね。現時点でどこにも所属してないからなんとも」
かけていた眼鏡を指で正して。
「年齢も長いこと数えてないし、出身国もまだあるのかどうか……家族はとっくに死んでるんじゃないかな」
なんて言ってから、おどけた様子で「ま、僕も死んでるけど」と付け足す。ドクトルは深く腕を組んでから、少しの間、次の言葉を考える。
「職業はさっきも言ったように、科学者だよ」
「なら、所属している組織があるはずだ」
「それが」と、ため息交じりに。「僕は少数派でね。方舟じゃ唯一といってもいい。どこにも属してないんだ」
「冗談」茶化しつつ、考える。「どこにも属せず研究が続けられるものか?」
方舟で唯一、か。
ほかに人がいるということになる。ドクトルや、僕以外に、人がいる。もしくは、このドクトルのような存在が他にいることに。
「幽霊ってのの便利なところだね。執念以外何も残らないわけだし」
明後日の方向を向いて、ドクトルが呟く。
「眠くならないし、お腹も空かない。ただ、研究を遣り遂げたいって意志だけが、狂おしいほど残ってる」
だからここに居る。ドクトルはそう言いたげにため息をついて、僕の方に向き直る。
僕はドクトルの目を、顔を、体を、じぃっと見つめる。
……本当に、幽霊だと確信した。
いや、薄々気づいてはいた。それを確信へと変える要素も、幾つもいくつも転がっていた。
だが、そろそろ確かめてみよう。この目で見て、『それ』が見えないのなら、あとは確認するだけで、それは確固たる事実となる。
すぅと大きく息を吸う。
「…………」息を吐いて、吐いて。「確認良いか」
「どうぞ」とドクトルが了承する。僕は肺いっぱいに溜めた空気をほとんど空にしながら、やっとのことで「お前は」と切り出す。
「お前は、呼吸をしてないよな?」
「君はずいぶん苦しそうに息をするね」
ドクトルはさも愉快だと言うようにクスクス笑う。
「じゃ、僕からの質問」やはり、来るか。「何を根拠に?」
さて、と姿勢を正して、またカップを傾ける。
どう答えたものだろう。
見ていれば分かると誤魔化すべきだ。頭の中でそう自分が吠える。
しかし、本当に見ていれば分かるのだろうか? 答えは否だ。彼は歴として呼吸をしていない。幽霊だからそう思ったのではない。むしろ呼吸をしていないから、彼が幽霊だと納得したのだ。
もう少し考える。今度は自分のことを。
これは、誰に話しても納得が得られなかったことだ。自分の同級生にも。両親にも。先輩や他の大人たちにも。
だからたぶん、根拠と言えない。これは勘だ。
……正直に話してみよう。
ドクトルはこの程度きっと受け入れる。
「呼吸していれば三手先まで『視える』。だけどお前は視えなかった。それだけだ」
さぁ、どう出る。僕が嘲笑に身構えると、ドクトルは少し意外そうな顔をして――
「似たようなこと言う奴を知ってるよ」
――と、言った。
「アイツ、それをサトリって呼んでたかな。アイツと視てる部分は違うけど」
なるほど、と、ドクトルは続けた。
「君は人の呼吸を見てるわけね」
特に、驚いた様子もなく。
逆に、僕はその様子に驚いたくらいで。
「俄然興味湧いてきたよ。君のこと」
「ここに軟禁するくらいには興味あるだろ……」
「人聞き悪いじゃない」
「事実だろ?」
「いいや。僕は君が目を覚ますまで待ってただけだよ」
閉じ込めているわけではない、とドクトルは言う。
「じゃあ、よしんばここを出て行こうとしたら?」
「止めない」
「ここに居ると言っても?」
「嫌がらない」
「……なぜ目が覚めるのを待ってた?」
どうやら本当に、ただ待っていただけらしい。僕はそのまま疑問に変える。
「約束で、ね」
「……誰との?」
「それは言えないな。直接確認に寄越せ、って言ってたし」
ひらひらと、核心を躱す。苛立ちだした心を抑えるように、僕はまたコーヒーを飲む。
「つまり、こうか? 目が覚め次第、ここを出て、連れてきた礼でも言いに来い、と」
「ちょっと違う。助けてやったんだ、ちょっとは礼でも言いに来い。たぶんこう」
大差ない。
そう言いたいのを堪えて、僕は今になって、ドクトルに問う。
「……生きているんだよな?」
「君が?」頷くいて肯定するや否や、「生きてるよ」と彼は退屈そうに答えて、「人間かどうかは最終チェックが済んでないけど」……そう言葉尻に付け加える。
なにをいまさら、と言いたげに、ドクトルは返答して、もうすぐ空になろうというカップを取り上げる。
「おかわりいるかい?」
「……砂糖多めで」
ドクトルは表情を崩して僕に背を向けた。
「君は拾ったわけじゃないんだよね」
唐突にそう言って。
「どういう意味だ?」
「そのまんまさ」
アルコールランプに火が灯る。
「君みたいな子はたまーにいる。こっち側に『渡って来る』才能に恵まれたようなのがね」
なるほど不味いわけだ。
ビーカーに入れた水を沸騰させ、そこに粉末のコーヒーを直接溶かしている。
……美味くなる道理がない。
「それは才能なのか?」
「ああ。歴とした才能だよ」その瞬間まで開花しないけど、と付け加え。「若い子に多いね。君くらいの歳の子はよく渡って来る」
「渡ってきたやつはどうなる?」
「聞きたい?」
「ああ」
「やめといた方がいいよ」
なぜ、と聞く前に、ドクトルは僕にカップと砂糖の入ったケースを押し付けた。
「君がこれから証明することでしょう?」だからこそ聞きたいのだが。「バラしちゃうのは野暮ってもんさ」
明らかに別の用途で使われるだろうスプーンを使って、不味いコーヒーにたっぷり砂糖を入れて混ぜる。
「それに」胃がムカムカする味だ。「君が自力で歩いて行かなきゃならない、てことに変わりはないし」
「お前の補助無しで、か?」
「そうなるね。君が僕に頼んで来れば話は違ってくるけど」
言ってから、顔をしかめた僕に対して、ドクトルは微笑む。
「君はそういうの嫌いそうだし。まぁ、無い話でしょ」
「なぜそう思う」
僕の問いに、ドクトルは――
「君を連れてきた男がそう言ってたよ」
――と、答えた。
美味くない。
コーヒーは依然として不味い。
「これも聞いたよ」砂糖をもう一匙入れようとして。「君敗けたんだってね」手を止める。
匙をケースに落とす。砂糖が音もなく山に混じって、しかし、それは元通りの形には戻らない。
苦味の残る口内を舌で舐める。
どれだけ砂糖で濁しても、それは消えない。
どれだけ、生きていたと歓喜しても、その泥は消えない。
むしろ、生きていたからこそ、その泥は消えない。
半端に砂糖を混ぜたコーヒーと同じだ。
半端な喜びが、敗けたという事実を強調する。
生きていた?
「まったくお笑いだ」
違う。生かされた。
気付いていた。とっくの昔、目を覚ました時には既に。
ここに連れて来ることができる者など、一人しかいない。そんなことは最初から気付いていた。
「『俺』を殺そうとした人間が、礼をしに来いと? 本気でそう思うのか?」
それは紛れもなく、奴だ。あの日、あの時あの場所で、僕を殺そうとしたアイツしかいない。
奴は言っていた。僕の魂は優秀であってほしいと。
こうも言っていた。
探し物が粗悪品であってほしくないと。
「…………俺はそう思わない」
試すつもりか。
その身を以て、自らが粗悪品ではないことを示せと、そう言いたいらしい。
何様のつもりだ。
殺しに来て、意味の分からないことを言ったかと思うと、切り伏せて、わざわざ生き永らえさせて。
そして終いに「会いに来い」と。
どうしても会いたいと言うのなら、このやり方は正解だ。
僕もたった今、もう一度、なんとしても会いたくなった。
大きくため息を吐いてみる。
どうやら、このまま終われそうにない。
「その男、今どこにいるか分かるか?」
「難しい質問だな」と、ドクトルは腕を組み。「方舟にいるのは間違いない。けど、どのあたりか、となると」考えを話してから、両手を広げて肩を竦める。
彼の話では、方舟の歩き方、というものがあるらしい。
「ここでは距離なんて有って無いようなもんでね」
「じゃあどうやって移動する」
「実際の距離を歩く。もしくは」
「もしくは?」
「――思いの強さで距離を縮める」
はぁ、と声が出る。苦笑いするドクトルに合わせるように、僕はカップで口元を隠す。
どうやら、信じない僕は珍しい方らしかった。
「本当だよ。どこに行きたいか。誰に会いたいか。思い続けて歩き続ければ、必ず巡り合える。それが方舟に於ける絶対的なルールだ」
実感のわかない話だ。
本当なら、ここに渡ってきた人間は、話のできる誰かを求めてここに辿り着くのだろう。だからおそらく、ドクトルの元に来るころにはとうに、方舟の法則、ルールとやらを大まかに把握している。
でも僕は違う。家で斬られて、目が覚めたらここに居た。
外のことは何も知らないし、当然、方舟のルールなんかも分からない。
「……思い続けて、歩き続ければ……」
本当かと、疑わずにはいられない。それが顔に出たのだろう。彼は微笑んで、僕のことを見た。
「必ず巡り合える。そうだよ」
だから、と言うわけではないだろう。次の言葉は、たとえ行動が見えなくても予測できた。
「言われずとも。俺は一人で歩くよ」
途端、ドクトルは興味を失ったのか、さっきまで輝かせていた目を伏せて欠伸をする。
「そう。じゃあ今日はもう休んだら?」
「……今から行く」
「ダメ」とドクトル。「言ったでしょ。最終確認が済んで無いの」
それでも、と言いかけたところで、急に振り返ったドクトルが、僕の額を指で突く。
体は意外なくらい簡単に、……仰向けに倒れた。
「明日になったら、君の服も、荷物もちゃんと返すよ。だからそれまで」
「……!?」視界が、グラっと揺れ、る――「お、ま、」――ねむ、い?「貴様」
ドクトルがヒラヒラと手を振るのが見える。
「ハバナイスドリーム」
「……俺はっ」英語ができないのだ!「……くぅ…………」
最後の声は、寝息に取って代わられた。