ここはどこだ?
知らない天井だ。
視界に真っ白い天井。
目が開いていた。
手がある。
足がある。
どうやら布団がかけられている。
体に包帯が巻かれているのが分かった。
包帯……?
なぜ。
そういえば、ここはどこだろう。確か一日家に居たはずだ。
そう……そうだ。確かに家に居た。そこで誰かが来た。気が付いたら家族が――
「……っ」
動悸がして、目を閉じた。
視界に銀色の光が踊る。
がばっと体を起こした。
傷が。傷だ。斬られて。血が。
胸を押さえると、そこに巻かれた包帯の下で、確かに心臓が脈打っていた。
荒い息を抑えてみると、数多の疑問が出口を求めて渦を巻く。
ここは、どこだ? 一体何故ここにいる? この、人の気配を一切感じさせないこの部屋はなんなのだ? どうやってここに? なぜ、なぜ――
「…………なんで、まだ、生きてる……?」
最後にふとそんなことを呟いて見ると、不意に脂汗が滲むのを感じた。
左手で頬を撫ぜてみる。
自分の顔だ。
鼻も、目も、口も、耳もある。筋肉の強張った、いつもの自分の、無表情な顔。
口角を少しだけ揉み解してから、頭に触れる。
髪には脂が浮いていた。
なるほど数日眠っていたのか、と納得しようとするも、やはり不気味さは消えない。
だが、少しずつ落ち着いてきた。状況は変わらず呑み切れないが、どうやら命があることには確信が持てる。
さて改めて、ここがどこか調べて見ようというところで――
「お。目が覚めたんだ」
びくりと肩を震わせる。
突然声がしたからだ。
反応して目線を動かしても、写るのは部屋の内装だけ。
誰も居ない。
しかし見れば見るほど人が住める場所ではなさそうだ。
薬剤が所狭しと並んだ棚。整頓された書類で埋まった机。極めつけに、微細な音を鳴らし続ける巨大な……機械の箱。
「こっち見ろ」
パチッ、と何かが額を小突いた。
次の瞬間。
「うおああっ」
「そんなにビビらないでよ」
目の前に誰かがいることに気付いた。
「お前誰だ!?」
白衣だ。白衣を着た……大人が居る。今しがた、どうやら、その細い指で僕の額を弾いたらしい。
そいつはどうやら意外そうな顔をして、おもむろにペンライトを取り出す。
「ちゃんと見えてるね?」
「お……ああ」
「よしじゃあ口開けて」
言って、慣れた手つきで口の中の様子を診る。
「一応、答えておくと」続け様、僕の目の下を押さえ。「僕はドクトル。科学者ってやつだ」
科学者が診察か。今度は冷や汗が滲む。
「専門は生物学に生理学……安心してくれて良いよ」ドクトルはそう言ってライトをしまい。「人体の構造には詳しいんだ」と、拳で軽く胸を叩く。
「逆に怖い」
「君に僕の手は入ってないよ。そこも安心して」
僕が横たわるベッドから離れて、ドクトルは隣の机に腰かけた。
「それで?」
「ん?」
「ここはどこだ?」
「ぼくの部屋だよ?」
なに当たり前のことを、なんて言いたげな様子で、ドクトルは自分の太ももに肘を付く。
いや確かにそうなんだけど、と次の質問を考えるうちに、ドクトルは何かに気付いて僕を指さす。
「そういえば傷塞がったんだっけ。風呂入ってきて」
「…………あるのか風呂」
昨日作ったばかりだと、ドクトルは嬉しそうに話してくれた。
「……あいつが巻いたのかな」
包帯が抵抗なく外れていく。
上半身から布地を全て取り払ったところで、僕は初めて鏡を見た。
まだ使えそうな包帯をゴミ箱に投げ入れて。
腰を捻って、鏡に背中を映してみると、どうやらそこには傷はない。
ならば。と捻りを戻して、深呼吸。
真正面から見てみると、それは一目瞭然だった。
左肩から脇腹にかけて、一本に長い傷跡が走っている。痛みはない。だけど指でなぞってみると、どうしようもない違和感に襲われる。
「夢じゃない……夢じゃなかった」うわ言のように呟いて。「確かに、斬られてる」僕は、目覚める前に見た光景が、夢でなかったことを知った。
見る限り、その傷は普通ではなかった。
僅かに窪んだ皮膚を数度なぞって考える。なぜ生きているのだろう。この残り方、相当深く傷を負ったように感じる。
そうだ、この傷を負わせた相手は手練れだった。記憶が確かならば、確かなら、誰一人として家族は生き残らなかった。皆一太刀の元に切り伏せられて――「…………っ」口元を抑えて洗面台に俯く。
気分の晴れるような光景が思い出せない。
瞼の裏に、血がこびりついたみたいに。自分の中に、返り血を浴びたその男の姿が浮かんだまま消えない。
くそ、と罵りたい衝動に駆られて、しかし、ぶつける相手がいない。
唇を噛む。
握った拳を洗面台に叩きつけてみると、鈍い音と痛みが響いた。
「……負けたのか、僕は」
鏡を見る。酷い顔だ。
脂の浮いた髪。痩せた頬。割れた唇。
僕を睨む、真っ黒に沈んだ僕の瞳。
もう一度俯いて。
「風呂入るか……」
とりあえず、汚れを落とすことにした。
「さっぱりしたじゃん」なんていう、ドクトルの声が風呂上がりの僕を迎えた。ずいぶん長風呂になってしまったと思ったが、別段待ったわけでもないらしい。僕は「そうか」と短く返して、首にかけたタオルを外す。
かける場所がない。手持ち無沙汰にしていると、「ベッドにでも置いときなよ」とドクトルが言って。
「さて、それじゃあ」白衣のまま、ドクトルはまた机に腰かけて。「質問があるならまだ受け付けよう」
ふとその手元を見ると、コーヒーカップが湯気を立てていた。
いつの間に入れたのだろうか。
「……コーヒー好きなのか?」
「興味ないかな。飲めないし」
だから、とドクトルが、座ったばかりなのに立ち上がる。
「これは君の。飲むと良い。落ち着く。……と、ほとんどの世界で言われてる」
ドクトルの手がカップを掴んで、僕にそれを手渡した。
「お前、なんで透けてる?」
「生きてないからかな」
「は?」
「んー……分かりやすく言ったんだけど」その眼鏡をクイと上げて。「幽霊。プラズマ。魂。なんでもいいよ。好きなものに当てはめてくれて結構」
突拍子もないことを言うものだから、僕はもう一度、同じ質問を繰り返すことにした。
「ここは……どこだ?」
呆ける僕に、ドクトルは一瞬あきれた顔を向けた。しかしふと何かに気が付いて、その顔に満面の笑みを張り付ける。
「そうか、とっくに気付いてると思ってたけど」
ようやっとカップを受け取った僕から数歩離れる。
そういえば。ドクトルに気をとられていたが、この部屋窓がない。恐ろしいほどに閉鎖的だ。壁は、薬剤の並んだ棚を兼ねているか、のっぺりとした白壁か。
扉は三つ。うち一つは先ほど僕が使った脱衣所へと続いている。
だとすればあと二つのどちらかが、出口ということになる。
出口。……出口か、と考えて、僕は生唾を飲む。
外はどうなっている?
この部屋からでは、外の状況は何一つ伝わってはこない。
そうだ、ここはどこだ? 僕のいた国なのか? それとも違う国なのか。言葉が通じることはいい。共通言語はとっくの昔に普及したことが知られている。
だから。だから、だから。
「……外はどうなってる?」
――ドクトルは、声を出して笑ったのだろう。
突然のことに、僕は再三ギョッとして肩を震わせる。
「ようこそ『ノアの方舟』へ! ここは君たちの言う……死後の世界って所だよ」
楽しそうにそう告げて、ドクトルは立ち上がった。
「ノアの……?」
「方舟。聞いたことあるだろ? 世界を大洪水から救ったっていうあの伝説の舟さ」
カップを傾ける。
苦い。ブラックか。相当淹れるのが下手と見える。
嫌に上手くない分その苦味は現実味を帯びていた。




