ノアの方舟にようこそ
なんとか不滅の勇者を倒すことが出来ました。
「出来たんだ」
「おかげ様でな」
ミカエルがくすりと笑う。
「ノアの方舟にようこそスサノオ」
もう何度目かの言葉なのに。
今度こそ、僕は方舟に乗ることができたのだと理解した。
そうか、これが……魔力を知った者の見る景色か。
すべてを見通せるような気さえする、いや……見えている。
僕には三秒先までの全てが見えていた。
今まで一枚の写真に過ぎなかった、一瞬しか見えなかったサトリの予見。それが強化されていくのが理解できる。
今や写真はいくつにも連なり、映像となって目の前を過ぎていく。
目を閉じていても外の景色が。目の前の相手の一挙手一投足が。
手に取るように見える。
「ありがとうミカエル」
なんという充実感。
集中力が限界まで高まった時の感覚が続いている。
全ての騒音から切り離された場所に立っている。
それを、氷のような冷たい意識で眺める自分。
ミカエルと二人きり。今この時を誰も邪魔できないのだと感じる。
否。
邪魔などさせない。この素晴らしき戦いに水を指すものなど認めない。
僕はそれほどまでに、ミカエルの全力を、僕自身の全力を知りたい。
空間が熱せられていく。
緩んだ口角を引き締めた。
魔力を理解したからこそ、ミカエルの強さがまた一段と高く見える。
その気配にすら隙が無いとは。
隙だらけに見えていた構え。その隙間の尽くを魔力で補う。これをもって、ミカエル自身を欠損の無い球のように――すっぽりと覆い、決死圏を成す。
構えて隙が見えないか。
なら、動き出せば、どうか。
先に一歩距離を詰める。
合わせた。
相手の呼吸を見て、なるほどと納得した。
僕もミカエルも、似た戦い方をする。後の先を取り、カウンターを狙う勝ち方を好む。
戦いづらいのも道理だ、どちらも自分から仕掛ける能力に欠けている――ように見えるのだから。
「行くぞ」
さてではそろそろお披露目だ。
僕の全力を。サトリではなく、僕自身の全力を。
強く踏み込み肉薄する。同時、足を狙って刃を振るうと、ミカエルの盾がそれを防ぐ。
刃を上へと滑らせる。体制を下げた影響か、空いた面へと黒剣が落ちる。
予見済みだ。
その手が振るわれる位置はもう覚えた。
なら後は、そこに攻撃を置いておくだけ。
一秒後、手首が迫る位置へと切っ先を置く。不思議と当たることが分かるのか、ミカエルが狙いを大きく変えて今度は首を狙う。
馬鹿めと笑う。
一歩――敵の刃より内側へ迫るには充分だ。
決死圏の内側に入った。
剣を持つ方の腕を抑え込む。これで攻撃は塞いだ。刀を持つ僕の腕も同じだ、これで均衡――したりはしない。
一瞬怯ん隙は見逃せない。
すかさずミカエルの鳩尾を狙って拳を突く。柔らかい肉の感触。彼女の顔が痛みに歪む。
前屈みになって体制を崩したか。組み合って誤魔化す気だ。
させない。
ミカエルの足を蹴り払う。
転びかけた彼女の首を狙って刃を――
「……!」
――その体制から盾で防ぐとは。
二、三歩離れ、ミカエルが立て直した。
いい具合だ、気分も高揚しすぎず落ち着いている。
自分の深い部分と安定して繋がっている感覚。
全力――とは言ったが、少し欲が出そうだ。魔力があるならもっと前へ。もっと強く。
目を閉じる。
一秒後、仕掛けるつもりで呼吸をする。
盾に阻まれるのが見えた。続け様、剣を払って距離を保つ。
決死圏には入れない。このままでは埒が開かないどころか、持久戦に持ち込まれてジリジリと負けて行くだろう。
目を開ける。
問題は侵入路の狭さ。
分かっていたが、盾の存在がここまで大きいとは。
政世にいた頃は盾を持った相手と戦ったことがない。試合はいつも一刀流同士だ。
経験もないのによくやれていると思う。
さて、どうやって攻略しようか。
相手はまず防御に徹する。今までの行動は全て盾で攻撃を弾いてからだった。
先に盾を動かすことができればあるいは。それとも、剣のある側に駆けて無理やり攻撃を引き出すか。しかしそれだと高速の斬撃が飛び出しかねない。
サトリでもかわせない一撃だ、今現在でも避けきれるかは怪しい。ならばやはり盾を――
「しゃらくさい」
――考えるのは苦手だ。
活路は技でこじ開ける。
誰が相手でもそうしてきた。たとい、ミカエルが相手でも同じこと。
あれこれ策を巡らせるよりも、そうした方がきっといい。
短く息を吐いて踏み込んだ。
盾が行く手を阻む。
構えた刃を前へ。
一歩、僅かに力を溜め。
「喝ッ!」
盾のちょうど中心へ突きを見舞って押し返す。
タイミングをあわせ、剣が振るわれた。
鎬で受けて上へといなす。
驚いた顔。
その整った顔を突き崩してやろう。
左手一本、小指を外し柄を握り込む。
再び決死圏へ。
今度は僕が魅せる番だ。
一秒。
そこ。思考がスパークを起こしたように冴え渡る。
避ける空間を、一寸早く切っ先で叩く。
短く「うっ」と零して仰け反った。
二撃目を右肩へ。
これも軸を僅かにズラして躱すか。
だが。
「これで!」
その体制から。
「詰みだッ」
この三連突きを躱して見せろ。
一撃目。
左肩。
確かな手応えにすぐさま刃を引き戻す。
二撃目――左膝――三撃目――!
右膝――
「離れなよ!」
突如視界が激震に見舞われる。
額に痛み。頭突き? 足がふらつく。だが止めを。刃を真っ直ぐに降ろし。
刀の切っ先は地面を突いた。
それを杖に倒れそうなのを堪える。
前を見た。
黒――「っ! だああああああっ」――斬撃か!
刀を引き抜き刃の中程で受けとめて、それでも勢いを殺しきれずに靴裏が擦れる音がした。
「これで、なんだって?」
「詰みだ。……の、つもりだったんだが」
ミカエルが得意気に笑みを浮かべる。
「やっぱり、まだまだ。魔力に目覚めた! なーんて言ってもひよっこさー」
構えを解いた。好機。隙に見えるが、しかし。
「それでもここまで戦えたことは褒めてあげる。ご褒美に――」
一秒後を見るまでもなく、背筋に寒気が走った。
今この場にいては――確実に体が真っ二つになる予感。
「一度だけ教えてあげる」
ミカエルが居合の構えを取った。
その、異様な、気配と来たら。
鞘はどこにも見当たらない。ただ盾の内側に隠しただけ。体を強く捻っているように見える。これは、つまり。
「魔力って言うのは」
全力全開、今までで最速の。
「こう使う!!」
一瞬相手の右手が消えたように見えた。
方舟に一陣の風が吹く。
空間が豪と哭き。
咄嗟に一歩だけ退いて。
静寂が訪れる。
相手の刃は遥か遠い。
はずなのだ、が…………。
「がっ……く、ふ……」
胸に傷が一つ走った。
あの黒尽くめの男に付けられた傷を上書きするように。
抑えて前屈みになると同時、背後から荒々しい風が背中を押す。
なぜ、斬られた。確実にかわしたはずだ。なのになぜ。
「意味不明! て顔をしてるね」
「……」
「技の名前は超速斬。あのゼウスでも躱せない一撃だもん。当たって当然だよ」
距離を詰めてこない。油断は無しか、つくづく容赦のない女。
「今度こそ、勝負あったね」
出血が酷い。意識が朦朧とする。
魔力酔いでもなんでもなく、血を流しすぎた。必死になって治癒を施すが……それでダメージが完全に消え去るわけではない。
足に力が入らなくなる。死が近い。足音が聞こえる気がした。
剣が一瞬消えて見えるほどの速度。それによって放たれた、空気をも刃に帰るほどの一撃か。
正真正銘の必殺技。
悔いは無い。
悔いは……。
「…………そんな目で見ないで」
悔いが無い。……わけが無かった。
本気になってもなお敵わない。それを悔しく思わないわけが無かった。
ミカエルが憎いわけじゃない。
ただ手を伸ばしても。
ただ一歩前に進んでも。それでも敵わない相手がいる。
それが悔しかった。
膝を着く。
刀を握る力が出ない。
目の前が暗くなっていく。
ミカエルが構えを完全に解いた。
僕の方へと近付いてくる。
トドメを刺すのか――止め―
悲しそうな目で僕を見た。
縋るように見つめ返す。
死にたくないと思った。
だけど、その栗色の髪が揺れるさまを見ていると。
死んでもいいとさえ思えた。
諦めて。
ここで諦めて。
ここで諦めきれるのか。
彼女が通り過ぎていく。
意識が。
待ってくれ。
意識がそれを追おうとする。
まだ、まだなんだ。まだ僕は――
「それじゃあ、バイバイ」
――まだ、お前の後を追っていたいんだ。
そして今度は骸骨が倒せません