賭け
目を開けた。
トビラの前に佇むミカエル。
その像が少しだけ歪んで見えた。
「芸が無いな」
一歩引いてタックルを躱す。
この期に及んで穏便に済ますつもりか。
「本気で来い!」
左手だけで刀を抜く。
真っ黒な空に鈍色が光った。
盾と刃、金属の擦れる音。
押し返したのは僕の方だった。
「いいね! 凄くいい! やっぱり君はいい子だ!」
「感謝するよ。俺がまだ戦えるのはお前のおかげだ」
左手一本。無駄な手数は不要。
担ぐように刀を構える。
この一撃が当たるかどうか。
「君。バレバレだよ」
「なにが」
「その一回に賭けてるのが」
隠すつもりも無いことだ。
それに、こちらも分かっている。ミカエルがフェイントを入れないことなど。
呼吸を見れば一目瞭然だ。
手は抜かない。こっちも本気だ。
何せ時間が無いから。
魂は魔力の塊だ。
一定のパターンで結合し、絶えず魔力を産む小さな炉。
そしてトビラは、そんな魂の出入口。
影響を受けない訳がない。
「悪いな……本気で……と言ったのは、俺の方なのに」
目が眩む。空が眩しい。
まだしっかりと立てているのが不思議なくらいだ。
「ううん。なんとなく、そんな気はしてたよ」
ミカエルが、後ろ手に剣を構えた。
「一つ賭けをさせて」
「……なに?」
頭が痛む。今度は幻聴まである。酷いな、こんな症状は初めてだ。
「あなたが今、この勝負で魔力を理解するかどうかをさ」
何を賭けると言うのだろう。
僕は何を賭けられる?
「賭けるのは君の命だよ。理解出来なければスサノオは死ぬ。でももし理解できれば――」
「出来れば……?」
「――君はやっと本気を出せる」
なるほど魅力だ、これ以上無い程。
本気の俺と戦いたいか。
それとも単に騙したいだけか。
分からないが、分かることが一つ。
「いいだろう。賭けに乗ろうじゃないか」
どの道今ここでそれが成せなければ、この先きっと何者にも成れないということ。
一歩ずつ方舟に慣れてきた。
だからそろそろ、走り出す時だ。
ミカエルを見る。
相手の剣は右手。
僕の刀は左手。
意識をピンと張る。
そのイメージは静かな火。
枯葉が一枚落ちればたちまち豪と叫んで空を呑む。
真っ赤に滾る内面を潜めた、静謐な炎。
「…………行くよ」
「来い」後の先を獲る。
睨み合う。
一秒。
ジリッと足を鳴らし。
二秒。
炎が揺らいだ。
三秒。
ここだ。
「……!!」
互いが駆け出すのは同時だった。双方ともに、相手の急所を一直線に狙う。
初速は互角か。
差が出たのは二歩目。
ミカエルがグンと速度を上げ、その像が俄に霞んで消えた。
屈んで懐に――盾を手前に半身大きく捻って溜める。
「どっ……」
一歩前に残された左足が浮き地面の僅か上を滑る。
「びゅんっ!!」
盾に体が隠れて。
黒い刃が唸りを上げて空を裂く。駆けるのが一瞬ならばこそ、この一撃も高速か。
咄嗟担いだ刃に体の捻りを加えて、僕も合わせるように振るう。
横薙ぎ一閃、方舟に煌めき。
一秒後、血だらけの未来が僕と重なる。
「勝負あり、だね」
膝を着く。
傷口を抑える。
立てない。
ミカエルが刃についた血を払う。
視界が揺らいだ。
今この手を離せば臓物が零れてしまうだろう。
完膚無き敗北。
不思議はない。僕はミカエルの一撃をかわせると高を括っていた。
彼女はそれを上回ったという、ただそれだけ。
あの一瞬。あの刹那。あの交錯。
僕が魔力を理解していれば違っていたのか。
肩で息をする。
苦しい。
魔力酔いの影響か、それとも傷のせいか。意識が遠のいていくのが分かる。
そして唐突に理解した。
これが神官なのだと。
あの異形など比べるまでもない。
僕の捕獲を彼女に任せたのにも合点が行った。
彼女は強い。底が見えないほどに。
その深淵を。強さの限界を。僕は覗くことの出来ないまま――
「……まだだ」
――ここで、終わるのか?
ブツリと視界が暗転する。まるでテレビの線が切れたように。
浮遊感に包まれて、程なく今度は全身を強烈な重力が襲った。
指一本も動かせない――この感覚には覚えがある。
最初に方舟へ出た時と同じ。
おかげで少し冷静になれた。
確かこの後意識を失い、僕の魂は方舟を十日も彷徨したのだったか。
ならば。今こうして何かを考えている僕は、僕の意識は……一体どこから来ているのだろう。
周囲に眩い光を感じた。
感じる。
何か……これはなんだ。何かが聞こえてくる。人の声のような……街中の雑踏のような……人間の――
「……!」
――人間の気配を。
意識がそちらに伸び、何かに触れた。
ドクトルの言葉が脳裏を走る。
透明人間――居ないも同じ――だけど無数に存在し――確かに僕を――
僕を生かしてきた粒子達。
絶えず燃え続ける炉――強く大きく成長していく――人間の――
人間の気配の象徴。
その時突然に理解した。僕は今、他人の魂――魔力に触れているのだと。
僕は確かに知っている。この力を。この粒子を。
燃え盛る炎のようでいて、その癖妙にひんやりとしたこの感覚を、僕は確かに知っていた。
「まだ終わってないぞ」
自分の体をイメージする。ぼんやりと視界が開けていく。見下ろしたそこに映った右腕に、意識を収束させていく。
元通りに。
強く念じる。
管の中を冷たい水が通る感触。
痛みが引いた。
三角巾から引き抜いてみる。
力が篭った。
横に払う。
治っている――その実感が僕の意識を覚醒させる。
元通りに。元通りに! 強く念じれば念じるほどに、身体中の傷が治っていくのが分かる。
いつしか方舟の空は極彩色を取り戻し、僕はそれを、覚醒した意識のまま見上げていた。
嗚呼……この空のなんと美しきこと。
無限とはこういうものを指すのだろうか。
七色に光り輝く果てなき空。草木の一本すら無い地平すら、この空を囃すためにあるのだと感じる。
光が頭上を通り過ぎ。
地平の彼方に融けて消え。
黒が徐々に広がっていく。
この光景ともしばらくお別れだろうと直感した。
僕は魔力を知ったのだ。
あれが魔力酔いによる景色なら、もう出会うことはないだろう。
そう思うと少し寂しい。
僕は口元を緩め。
「…………さぁ、構えろ」
ゆっくり立ち上がる。
感傷に浸るのもそこそこにしておこう。
まずは目の前だ。
待たせた相手に、相応の礼で応えねば。
腕の固定を解いて、柄を両の手でしっかりと握った。
感触を確かめるように。
口元が綻んで、目を自然と細めてしまう。
これは歓喜だ。
ようやっと。やっと全力でぶつかっていける。
自分の力を偽らず、自分の不調に憤らず。
自分の出せるすべてを。
アンダ○ンが全然倒せないんですけど……