時よ止まれ。美しき日々よ
「ああいうのはさ。やっぱりある程度は居るんだよね」
ぼんやりと思い出していた。
「運が悪かった。タケガミ君のことを聞けば、外の人はそう言うだろうね」
ぼんやりと、あの日のことが流れていた。
「ボクはそうは思わないな」
あの日。
爛漫で、溌剌として美しく、太陽のようだった妹を永劫に失い、どれだけ経ったか。ぼんやりとしていて、怒りのせいか、正確な日は分からない。
でも、確かにあった日。
僕は一人で居た。誰とも関われる気がしなかった。どれだけ求めても、自分のやり方は受け入れてもらえない。自分にとっての正しさの全てを否定され、化物と罵られ、関係の無い肉親までをも巻き込んで、人は僕の全てを拒絶した。
寂しかった。
せめて人の喧騒の中に自分を感じたかった。だからいつも学校には行っていたけれど、それも段々と虚しくなって、自分は排斥される側のままなのだと深く自覚し始めて、集まりの中に居ることが出来なくなっていた。
何もかもから逃げ出した日のこと、ボクは、その人に出会った。
「間違ってるのはアイツらだよ。武神。お前のことを正しいと思う。そういう生き方、ボクは好きだな」
その言葉。
ただ、それだけ。
たったそれだけを支えに、ここまで来た。
僕は今、いったいどこに立っているんだろう。
ただ、見ていた。
ただそれを見ていた。
僕が生き永らえる理由を得た日を、ただぼんやりと眺めていた。
結局はこれだ。
僕はただ居場所が欲しかった。
暴力としか呼べない力に、場所を定めて欲しかったんだ。
それを失ってしまえば、僕は結局人とは呼べない。バケモノとなって然るべしだろう。そんなことは当たり前で、僕が一番知っていて、だから立場だって欲しかったし、妹だって大事だった。
僕が僕として立つために。化け物が人であるために。手にしてしまった大きすぎる力の先に、納める器が欲しかったんだ。
高田さんはそういう人だった。
あの人の強さは器の空白にこそあって、それを他人に譲る度胸こそが強さだった。
飛び抜けた記憶力や、それをフルに活かせる思考力や、器用さなど。そんなものはただのおまけ。全部が全部、強さの副産物なのだ。
僕はそういうところに惚れた。強くなるために強くなった僕とは根本的に違う、目指す先のある強さ。器をこれで満たしたいという明確さ。それの一助になれるなら、この身を砕いても後悔はない。
「どうしてこうなったんだろうな」
頬が湿っている。
指で拭った。
「簡単だよ。お前を測り損ねたんだ」
隣に、誰かの声が湧いて出た。
「ここまで来て、思い出すのがこの日かよ。ぼくとの思い出はそんなに嫌か?」
目をやる。
「久しぶりの仕事だったのに。神託はあんまり意味が無かったようだな」
「来てたのか、ジェノン」
「おかげさま」
相棒がそこにいた。
「ったく。こうなるから嫌だったんだよ。お前は優しすぎるから」
「前も言ったが、優しくないだろ。全員殺す気なんだぞ」
「いーや、優しいね」
大きくため息をつく。
「優しくないならな、そんなやつは殺すって言わないんだよ」
目が合った。
いつかの河川敷に移る。
「それに、人が死んだって何も思わない。ぼくはそういう奴だった」
缶コーヒーと、寂れた自販機。夜明けまでよく一緒にいた場所だ。
「信者が一人。異端が一人。異教徒が一人。当たり前のことすぎて、考えたことも無かったさ」
そこで僕は、ジェノンと向かい合っている。
死んだはずとか、もういないはずとか、そんなことはどうだっていいんだ。
最期にまた会えた。それだけでいい。
「スサノオ。お前は優しいよ。優しすぎる。ぼくが悪かった」
「何を謝ることがある」
「ぼくは最後の砦だったろう。一緒にいる時だけは、殺すためじゃなく、ただ果てしなく走るために鍛錬を積めてた。あの時だけは戦いを忘れて、お前は平穏に生きていたじゃないか」
「幻想だ」
これは夢なのだ。
「それは幻想だよ、ジェノン。確かにお前の言う通りかもしれない。だが、始まりはどうあれ、過程がどうあれ、力は向かう先がなきゃいけない。それが全てだ」
だから、きっと、何を言ってもいい。
「向ける先が欲しかったんだ。鉄をどれだけ鍛えても、刃をどれだけ磨いても、ただ眺めることほど空虚なことはない。俺はそれに耐えられないんだ。せっかくここまで鍛えたのなら、せっかくここまで磨いたのなら、どうしても使いたくなった」
降り始めた雨のように、ぽつりと言葉をこぼして行く。
そうだ。
僕は空虚だ。
ただそこに居ることに耐えられない。全てのことに理由がいると、そんな根拠もないことを追いかけてしまう。磨いて削ったその先に、きっと純粋な願いが、理由としてあるはず。そんなことを、どうしようもなく求めてしまうのだ。
「だから、ぼくが理由になりたかった」
そしてジェノンがそう考えてくれていることを、僕は知っている。
「ぼくが居場所になれたはずなんだ。お前がいる理由になれた。だからお前は穏やかで、誰にも負けない人になったはずなんだ」
その言葉こそが穏やかで、でもどこか冷たくて、日に照らされた鉄のような輝きで、僕を温める。
「スサノオ。お前のことが好きだった。一人で走るんじゃなくて、共に連れていこうとしてくれるお前が」
「一緒に行こう」
「それは無理だ。そして駄目だ。お前はまだ前に進め」
「どうして」
もう進めない。ここから先一歩も前には行けないんだ。
ジェノンは言った。
「だって、まだ先がある。お前はまだ瞼の裏に、未来を写しているじゃないか」
「…………」そんなの。「そんなもの、ただの幻想だ……」
こんなものになんの意味があるんだ。
未来に縋って、未来を使って、僕は何一つとして守れない。氷のように冷たくて、水のように不確かで、僕は全てを取り零してしまった。だから収めるための器がいるんだ。僕をすくうための器が、絶対に必要だったんだ。
「なぁ、ジェノン。もう疲れたよ。俺たち二人でやって来たことは、なんだったんだろうな」
ジェノンは「呆れた」と言って、立ち上がった。
「そんなもん、誰が知るかよ」
知らなくていい、とも言った。
だから人は夢を見るのだと。
そんな、暖かで遠い遥かな星のように、ジェノンは言った。
「別にいいんだ、意味なんて無くて。振り返って、誰かと笑って、意味なかったねと笑えれば、それがやって来た意味さ」
手が届かない。
やっと気が付いた。
もう手を伸ばしても届かないんだ。
分かっていながら手を伸ばす。
その温もりに触れたい。
その手を取ってやりたい。
分からない、分からないんだ。なぜそんなことを思うのか分からない。何もかも捨てて、たった一人で、それでも冷たくなりきれなくて、ただの刃になりきれなかった。そんな半端者だからか。それとも。
「それが人だよ、スサノオ」
それとも、僕が人間だからか?
「お前は人だ。誰よりも人間だ。頑張ったじゃないか。だからまだ頑張れるよ。お前は優しくて、温かくて、熱くて、そして強いから」
ジェノンの目を見た。
釣られて立ち上がった。
あの日の風景は、もうそこにはない。
あの日のベンチも、寂れた自販機も、冷えた缶も、伝わっていた手の温度も。
温もりも、導きも、せせらぎも、やすらかな日陰も、蟠しい陽の光も。僅かな草の根の香りさえ、最早ここには無い。
あるのはただ。
「立って歩け。お前にサトリがある限り、お前は誰より先に在る」
ただ――
「ジェノン」
「なんだ?」
「ま――」
――冷たさと、愛する人が消える未来だけ。
「愛している」
手は届かない。
取ろうとした掌は消えた。
僕はただ。
ただ強く。
前に向かって、拳を握った。
◆ ◆ ◆ ◆
ゆっくりと、目を開けた。
知らない天井だった。
分かったのは、勝ちでも負けでもなくただ蚊帳の外で、終わったということだけ。
「……」
天井に向けていた拳を見つめる。何度か握り直してみる。
冷たかった。
涙も出てこない。
ひたすら重くて、冷たい。ゴツゴツとした傷だらけの手と、鍛え続けて締まった腕。あるのはただそれだけだった。
「お目覚めかよ、クソガキ」
「ああ、目覚めた。どうなった?」
声を聞いて、そこにいるのが誰か分かった。
「オレたちは負けた。歴史的敗北だ。アイツらはこの方舟に兵器を造る。ただそれだけが事実だ」
「何人死んだ」
「……一人だけ」
「そうか……」
そうだよな。
やはり、そうなんだな。
「負け、か」
僕は負けた。
清々しいほどに負けた。
命を燃やし、策を尽くして、僕は負けた。勝ったのは高田さんただ一人だけ。
なぜかは分からないけれど、嬉しくも悲しくもない。あるのはただ空っぽになったという実感だけだ。
何も無い。ただ何も無い。
胸を突き刺すこともなく、心を蝕むこともなく、急かされることも、気怠く感じることも、何も無いのだ。
ただ全てが宙ぶらりんにされたまま。
僕の戦いは、終わった。
それが全てだ。
「あのよ」
「なんだよ」
「オメェ、やることは山ほどあんぜ?」
「そりゃ、そうだろう」
「で、だ――」
聞かれる言葉は、もう決まってる。
「お前はどうする、スサノオ」
――この世界は腐っている。
何も手に出来なかった。
この世界は腐っている。
痛みを感じることもなく、ただ失ったんだ。
この世界は腐っていた。
否。
この世界を見る僕が。
何より不貞腐れていたんだ。
もっと求めるべきだった 強く掴むべきだった。誰よりも何よりも僕自身がまず、己のサトリを信じる以外に方法は無かったんだ。
もう失わない。もう二度とだ。
「ゼウス、頼みがある」
「いいぜクソガキ。一回だけな」
「強くしてくれ。俺を、強く」
ゼウスはニヤリと笑った。
「どのくらい?」
「頂点まで」
僕の戦いはまだ続くのだろう。
これはアフターファンタジー。終わったあとの物語。
語られるのも、全てが終わったその後だ。