別れ
誰も待ってないかもしれないけれど
お ま た せ
スサノオ、聞こえてる?
なぁ、ぼくはお前と一緒に逃げたって良かったんだ。そりゃ、方舟からは追われるし、政世でだって満足に生活するまでに、随分かかるだろうよ。でもお前は最強で、ぼくは教祖様なんだ。なんだって出来るさ。適当に偉いやつを丸め込んで、その辺の山に別荘でも作ってさ。山小屋でもいいさ。ご自慢の膂力とぼくの頭で畑でもやって、たまに迷い込んだやつに教えの一つでも授けてやって。そうやってなんとなく、どうでもいいような日を送れば良かった。
ああ、もっと本気で誘えば良かった……戦って、戦って、戦ったその先には安寧があるのだと、最後に教えてやりたかった。
こんな、元々の世界からも捨てられて、性別すらも変わっちまって、それでも生きているのはお前のおかげだったんだ。
嗚呼。
こんな形で捨てたくなかったよ。
なぁスサノオ聞いてくれ。
ぼくの叫びを。
ぼくの嘆きを。
痛いよ。
熱くて苦しい。
一人は……独りは辛いよ。
終わりたくない……こんな形で。近くにいるのに、たった独りで、終わりたくないよ。
◆ ◆ ◆ ◆
――声。
聴こえる。
恐るべき声が、か細く聴こえる。
燃え盛る炎に包まれながら、それでも聴こえる。
一歩ずつ進んだ。
真っ赤に染まってぼやけきった視界で、それでも進んだ。
失いたくないと思ったんだ。
もう一度道を示し、そして共に歩こうと、守ってくれと願ってくれたその存在を、失うわけにはいかなかった。
立ち込めるガソリンの匂い。瞳を焦がす真っ黒な煙。サトリもまともに効かない中で、ようやっと、僕はゆっくりと、そこに辿り着く。
◆ ◆ ◆ ◆
その熱を背中に感じた。
ビリビリと空間を震わせる程の怒りを。
後ろを振り向けない。咲き誇る華のような血飛沫を浴びて、ボクはその場で固まってしまった。
なんだこれは。
なぁ教えてくれよ。ボクの指示はなんだったんだ?
なんでそんな顔でくたばる。教えろよジェノン。お前、こうなることを分かってたんじゃないのか?
お前はどうして、血塗れになってまで、優しげに微笑んでいられる?
「分かんねぇって……顔だなァ……?」
「は――」
「全員の負けだよ。お前も――ぼくも――スサノオもな」
そう言って、僕の背後を指差した。
「じゃあな。方舟で会おう」
その背中に、熱を感じた。
◆ ◆ ◆ ◆
その叫びが聞こえている。
その嘆きが聞こえている。
聞こえているぞジェノン……そこにいるんだな。
来たぞジェノン。確かにここに来た。
だから、答えてくれ。
そして嘘だと言ってくれ。笑ってくれ。もう一度だけでいい。全て嘘だと笑うんだ。
仕切り直しだと。
勝てなかったと。
逃げてやり直そうと笑ってくれよ。
「退け」
なぁジェノン。本当に、これしかなかったのか? 最後の最後で、どうして何も教えてくれなかったんだ。ここに来ていることも、僕が負けることも、お前は何も言わなかったじゃないか。
なぁ、教えてくれよ。
僕はどうしたらいい?
冷たくて仕方ないんだ。本当は今すぐにだって泣き叫びたくて仕方ないのに、それすら出来ずにいる。敵がいるんだ、目の前に。制御を手放すわけにはいかない。ガァガァと喚くその声に、耳を傾ける余裕も無いのに、それでもジェノン、お前の声に縋ってる。
なぁ……
どうしてお前、心臓が動いてないんだ?
「…………」
パキッと音がして、周囲が凍りついていることを知った。真っ赤な氷が、ジェノンの胸元にこびりついている。まるで華のように綺麗で、それとは裏腹に、ジェノンの顔色は酷い。
しっかりと見つめて。
そして、悟った。
「逝くな」
生きていてくれ、ジェノン。
「愛してるよ、スサノオ」
取り返せない。
それは余りに重い。
絶対に、零してはならない命の雫。凍らせても、縫い止めても、止めどなく溢れ流れ出ていくその一雫を。
「悪い……時間切れだ……」
僕はただ何も出来ず呆然と見つめ、時間だけが悪戯に過ぎていく。
魔力で回復してみても、もはやなんの意味も無かった。身体が終わりへ向かっている。細胞に生きる意思が残っていない。
遅かったんだ。あとほんの少しだけでも早ければ……いや、そうじゃないな。
ドクトルの手にかかった時点で、もう彼女の肉体に余白なんて無かったんだ。一度傷付けば終わり。そういう期限付きの命だった。
何もかもが手遅れだった。最初から最後まで、僕らは蛇のとぐろの中で、こうなることも……きっと誰かの予想通りで……
「悔しいよ…………お前を…………救えなかった………………」
……冷たい手が僕の頬に触れる。
「ごめんな。先に待ってる」
重ねようとした手はまた間に合わず。
ジェノンの手は、だらりと落ちた。
「なんだ、これは」
これはなんだ?
必死になって追いかけて、守ると言っていきがって、結局……結局、これか?
強さの果てに、手に入れたのは、愛したものすら守れない、あの日から前に進めない自分か?
悔しいと言っていた。
僕も同じだ。
悔しいよ。悔しくて憎たらしくて腹立たしい。
嗚呼……。
この世界は腐ってる。
そんなことは前から分かってた。
この世界は腐ってる。
愛せば愛すほど、届かなくなるなんて。
この世界は腐ってる。
何も手に入れられない、自分が生きる世界なんて。
「もういい」
何もかもどうでもいい。
強さの果てにあるものなど知るか。
その先でどうなろうともはや知ったことじゃない。
今はただ。
「もういいよ。もう疲れた」
泣き叫ぶことを許してくれ。
◆ ◆ ◆ ◆
突然フロア全体が凍りついて、スサノオがジェノンの元へ駆け寄った。
二人が何か言葉を交わし、スサノオが一人きりになったことを知った。
勝ったと一瞬安堵した。
失意の相手を楽々踏み越えて、方舟に往ける。そう思っていた。
思い違いだ。
一歩も動けないほどの威圧をスサノオから感じた。威圧だけじゃない、身体が凍ってしまったかのような冷たさも併せて。
何が起こったのかは理解した。
だけど、この先何が起こるのか、ボクは知らない。
頬から伝う涙と汗が体を離れ、落ちる前に氷の礫になっていく。
この感じ――
「不香の華か!」
――氷の属性。
それが、実際に水を凍てつかせる程の出力で行われている。
あまりの冷気に身体が震える。
いや、冷たさだけじゃない。
ボクはこの後に何が来るかを知っているから。今しがた味わったばかりだから。
急いで魔力を見て覚える。氷の属性はボクにも扱えるはずだ。魔力なのだから、形さえ揃えれば何の問題も――
「ジェノン……」
――スサノオが、腕の中の女の子に呼びかけた。
決して、返事のない言葉を投げた。
それを見ていた。
見ていたんだ。
ただ、見ることしかできなかった。
ただゆっくりと時間が流れた。
今すぐ離れて方舟へ行くべきなのに、身体が凍ったかのようにその場から動けない。
身を守れる分の魔力を構築し、次へ備えたその瞬間だ。
「……! 来る」
獣が吠えた。