父さんの嘘
歩けている。
重い右腕と、鈍い痛みが着いては来るが。
それでも、僕は平然と方舟を歩けていた。
隣にはミカエルがいて、今は盾だけを持っていた。
僕はと言うと、少し汚れた服のまま、刀を腰から提げている。
戦う気は依然として起こらないが、それでもだ。またいつ何が来るかはわからないのだから。
もう何度目か空を眺めると、ミカエルが思い出したように「それで?」と言った。
「どんな嘘だったの?」
……この女。
敢えて話を切った意味を理解してないな。
いや、分かった上で聞いているのかもしれないが。
仕方がない。
ため息を一つ。
僕は最初から話すことにした。
「家族は俺を含めて四人なんだ。父さんと母さん。それから妹」
それぞれのことを思い浮かべる。
「由緒正しい武家らしくてな」その辺は詳しくないが。「父さんは剣術を。母さんは柔術をそれぞれ修めてた」
だから、というわけではないが、僕と妹がそれぞれを師事するのは自然なことだった。
「俺は父さんから剣を習ってた。教えるのが上手い人だったよ。おかげでどんどん実力が着いたし……」
そこまでは良かったんだ。習い始めて、結果が出始めるまでは。
問題なのは、そこからで。
「俺は強くなった。……なりすぎた」
「なりすぎた?」
「ああ。……昇段試験に年齢制限があるのは知ってるか?」
「知らなーい」
「…………」興味が無いと言いたげだな。「初段を受けるには、最低でも十三でないといけないんだ」
「君今いくつ? 十八くらい?」
「まだ十五」つまりは、「二段が限界だ」
僕は初段も持っていない。
実力はある。しかし……。
「九つの時だ。有段者と仕合う機会があった」
目を閉じれば今でも思い出せる。短い生涯の中、初めて会った強敵で――。
「結果は?」
「…………」――そして――「俺が勝った」
――初めて超えた壁のことを。
「言い方が違ったな。……勝ってしまったんだ、俺は」
場が騒然となったのを覚えている。
齢九つの子供に、少なくとも三段はあろう実力者が敗れた。この事実に驚愕しない人間はその場にいなかったのだ。
「気が付いたんだ。俺は俺が思うよりもずっと強くなっていたことに」
「それの何がダメなの?」
「…………恐らくその後に問題があったんだろうな」
僕は試合場から離れなかった。
それだけならまだいい。
再戦を申し込んだのだ。今しがた、倒してしまった相手に。
「五回も戦って……五回とも勝った」
相手は齢二十は下らない。体格も体力も、僕より遥かに強大な相手。
僕はそれに何度も勝ってしまった。
単純な技量の問題――それで済めばどんなに良かったか。相手の鍛錬や心持ちが不足していたと、それで済めばどんなに良かったか。
「足りなかった。全く以て足りなかった。もっと強いはずだ。まだ何かあるはずだ。まだもっと……俺の知らない何かを持っていると思った、だから」
だから――俺はいけなかったのだろう。
「だから、言ったんだ。本気で来いと」
あの目を。
どうしようもない程の恐れを。
それを宿した目を。
僕は今でも覚えている。
「……どうなったの?」
「相手が俺に頭を下げた」手加減して悪かった、ではなく。「今までの手合わせ、その全てに全力で挑んだと」
いつか超えると、越えてみせると見上げた壁を、もはや遥か彼方に見下げていたと知った時、僕に迸ったのは歓喜などではなく。
「つまらない。俺はそう言った」
愕然とするほどの呆れ。
有り得てはいけないことだった。加減すべきは僕の方だった。一度目はまぐれ。大人はそれを信じたかったのだ。
「父さんに殴られたのはあの日が初めてだ」
そして、僕に対し嘘をつくようになったのも、その日。
「家に帰って…………。父さんに言われたんだ」
それが、一番最初の嘘。
「強さが全てじゃない。勝てば全てが解決するわけじゃないと」
そして、未だに理解できないこと。
強く在れと言われた。父さんの理想は強い自分だったはずだ。それがいつの間にか、強さが全てで無くなっていた。
僕には分からない。
強く在れと言ったことが嘘だったのか。
強さが全てではないと言ったことが嘘だったのか。
「……ショックだったんだね」
「ああ、そうだな。驚いた……それもあったし」ふと、もう一つ思い出したことがあった。「撤回する。嘘は二つだ」
嘘、と言うのか。大人らしくないワガママと言うのか。
「俺に兄がいれば。常に競い合う相手が隣にいれば、違っていただろうと言われたよ」
あの言葉はなんだったのか。
父さんらしくなかった。いつも真っ直ぐ前を向く人。なのにあの言葉を零す時だけ、その瞳は僕の後ろを振り返っていて。
まるで。ここにいる僕に、誰かを重ねているようで。
ひどく気分が悪い言葉だったのを覚えている。
「おかしいだろう? 家族は四人。四人きりだ」
「愛人との子とか?」
「まさか! あの人はその手のことを許せるような人間じゃなかったとも」
いたとしても、あの母さん相手に隠し通せるかどうか。僕は懐かしくなって、つい目を細めた。
家族四人の笑顔が。
それが失われたのはいつ頃か。
「だから、有り得ないんだ。俺に兄はいない」
愛人を作った、か。そんなことは考えつかなかったが、僕の実力が、その異常性が浮き彫りになってからなら、充分ありえるかもしれない。
だがそれでも、僕が生まれて十年は経ったあとだ。
やはり僕に兄はいないのだ。あれは父さんの願望で、僕の隣で、僕の前を進み続ける誰かを欲したのだろう。
だって独りでに求めてしまうから。
自分より前に進んだ誰かを、無性に求めてしまうから。
「さて」
「さてさて?」
「これで全部だ」僕に吐かれた嘘は。「満足したか?」