スティール・アライヴ
「ほら広希。ちゃんと着いておいで」
……夢を見ている。
「大丈夫だって」
母さんと歩く夢を。
記憶にない景色だったから、夢だと気付くのは早かった。
「あのさ」
「なんだい?」
「母さんは……これからどうなるの?」
差し伸べられた手をそのままに、母さんは微笑んだ。
「元に戻るのさ。ただの魂に」
……遠い。
すぐそこにあるはずの手が、果てしなく遠い。
届くはずの距離が、物凄く遠く感じた。
間に合わなかった手。
届かなかった手。
至らなかった手。
母さんの手は、あまりにも遠かった。
そっちに連れて行ってよ。なんて言葉が、喉元でつっかえる。
言っちゃいけないと分かっているんだ。
ああ、分かっている。きっと取り返しがつかないことになるだろう。
これはきっと今際の際に見る夢で、僕は今狭間に立っているのだから。
だから、行けない。
だから、言えない。
怖かった。認めたくなかった。
「母さん……」
もう一度、その微笑みを見つめる。
夢の中の景色。
目に焼き付けたかった。
夢の中の出来事まで、しっかり記憶できるかなんて分からない。試したことも無い。でも、いつも見るあの方舟の夢を覚えているんだ。きっと出来る。
目頭を押さえる。
ボヤけてしまう景色。このままお別れなんて嫌だと思った。
でも、行かないと。
だから、言わないと。
「――」
言わなきゃいけない。
さよならって。
分かってる。分かってるんだよ。でも、そんなの辛すぎる。
二度と逢えない。そんなことを、ボクは認めたくないんだ。
母さん。
一緒に帰ろうよ。
そう言いたい。それが叶うならどんなにいいか。
母さん……。
フと。頭の上に、影が落ちた。
いつの間にそこにいたのだろうか、隣には、一人の女性が立っていた。
何も言わず、僕に傘を差して。
その人はなんだか身なりが良くて、きっと育ちが良いのだろうと思った。
でも、なんだかチグハグだ。
なんで、片方の目は機械なのだろう。
「つらいなら、言わなくてもいいの」
女の人は、不意にそう言った。
「貴方達の道は、まだ続いてる。だから、何も言わなくていい」
口元にそっと指を立てて。
その人はウィンクした。
「これでお別れなんて野暮でしょう? 思い出は、いつまでも傍にいてくれるものね」
差された傘が外されて、その人は母さんの方へと歩いていく。
「大丈夫。貴方はまだ歩けるわ。何せ私の愛した人がついているんだもの」
母さんの、手を取って。
「……ほら、待たせないで。言うべきことは、他にあるでしょ?」
ニコリと微笑んだ。
言うべきこと。
言いたいこと。
言いたかったこと。
伝えたかった言葉。
そう……そうだ。
形だけの家族だったけど。血の繋がりもない、ただの言葉だったのかもしれないけれど。
でも。
「母さん」
貴方はボクの母親だから。
「ありがとう。愛してる」
母さんは悲しそうな顔をして、それでもやはり微笑んだ。
隣の女性もまた満足げな顔をして、二人揃って背を向けて、どこかへ向けて歩き出した。
背中が遠くなっていく。
本当に、届かない場所へ。
「ああ、そうそう」
不意に、女性が言った。
「帰ったらアポロに伝えてちょうだい。貴方は良くやってる。愛してるわって」
一度だけボクを振り返って。
「愛するアミーがそう言ってたと」
ああ……この人は、母さんを連れていくんだな。
ギュッと、胸の前で拳を握った。
「それじゃあ」
「ええ。また会いましょ」
◆ ◆ ◆ ◆
……。
…………。
「ここ、どこだ」
知らない天井……ではなかった。
知っている。
遥か昔の記憶。最初の記憶にある天井。
ということは恐らく、ここは方舟だ。方舟にある、どこかの部屋。
まぁ、知っていたところで意味が無い。どこにあるかは結局分からないのだから。
腕を上げようとして違和感に気付く。目をやると、点滴を打たれていることが分かった。
なるほど……生きて、いるのか。
「おや、目が覚めたのかい。意外に早いね」
どこかから声がした。
辺りを見渡してみても、姿はない。
「えぇ……またこの流れやるの? ハァ、仕方ない」
大きなため息が近くで聞こえて、そちらに目を向ける――
「こっち見ろ」
額を小突かれた。
途端に、目の前に白衣でメガネの――
「母さん!?」
「おやおや、君は性別も分からないようだねぇ」
――男がいた。
ヒョロっとした背の高い男。
見るからに痩せていて、なんだか生気がない。
「自己紹介をしておこうかな。僕はドクトル。ただのドクトルだよ。職業は科学者。よろしくね」
ドクトルと名乗ったその男は、触れもせず点滴の様子を確認して、ボクのことを見もせず言った。
「いやぁ驚きだ。まさかの回復力だよ。無意識に魔力を使うなんて大したもんだね」
魔力? 確かにそう言ったか。
「知ってるんですか、魔力のこと」
「もちろんだとも。なんたって僕は科学者だからね」
笑ってしまった。
何を失礼な、とドクトルは言ったが、ボクからすればちゃんちゃらおかしな話だ。
「だって、魔力だなんて。如何にもファンタジーじゃありません?」
「高度に発展した科学は魔法と同じものになるのさ」
「魔力は科学の成れの果てだと?」
「そうは言わない。あれは自然発生したものだからね」
「随分詳しいですね。専門なんですか?」
「いや違う。僕の専門は生物学と生理学だ」だから、と僕の体を指差して。「術後の心配はしなくていい。人体構造には詳しいんだ、これでもかってほどにね」
腹の辺りをさすってみると、なるほど手術をしたのだろう。肉が大きく盛り上がり、傷を塞いだ形跡がある。今は包帯とガーゼで覆われて見えないが、痛みもないあたりドクトルの腕は確からしい。
「……助けてくれたんですか?」
「必要だったからね」
「必要?」
「そうさ。君に死なれちゃ困るんだ」
なんだか核心をかわされているようで、やきもきとした気分になる。頭もスッキリしていないし、また寝てしまった方がいいのかもしれない。
あの夢のことをはっきり覚えていたからか、今寝ればまた……なんてことを期待してしまう。
「おっと、まだ寝るには少し早いよ。これからのことも話しておきたいし」
そう言って、ドクトルは白衣のポケットをまさぐる。
取り出したのは――一度だけ見た事のある、USBメモリだ。
「ま、このまま話すのもなんだしさ。とりあえず、珈琲飲むかい?」
誘いは受けることにした。