ヴェンジェンス・イズ・マイン/愛しの君へ
なんだ、これは。
どうして赤いんだ。
母さんは白衣が似合っていたのに、どうして今、赤い服を着てるんだ? それに、模様が中途半端で――
「やぁ、広希」
――その声で、現実が降って出た。
床に血溜まりが出来ている。
母さんの前にはスサノオが立っていて、驚きと恐怖の表情でボクを見ている。
「なんだよ、これ」
その現実が、記憶の薄れない脳に叩き込まれた。
考えなくても理解出来る。
母さんは助からない。
血とともに、命が流れ落ちている。
立ち竦んで見るだけなんて――そんなことはできない。
「どけ!」
歩み寄ってきたスサノオを突き飛ばし、母さんに駆け寄る。
声を聞かないと。何かあるはずだ、きっと何かあるはずだ。ボクになにか残そうとするはずだ。
だって、母さんは家族で、ボクを育ててくれた人で。ボクにとって、かけがえのない人なんだから。
「母さん。母さん! ボクだよ、広希だよ! 分かる? 声、まだ聴こえてる?」
ぼんやりとした目の前で手を振る。既に動きを追っていない。
そんな、 どうして。なんでこんなことになったんだ。
「ああ、うん。聞こえてるよ。近くにいるんだろう、手を握ってくれるかい?」
「もちろん、もちろん! 当たり前だよ!」
母さん、どうして。ボクがもっとちゃんと駄々を捏ねていれば。こんなことにはならなかった、きっとそうだ。一人だけでもここに残していけば良かった。判断を誤ったんだ。神官は襲ってこないとタカをくくっていた。
敢えて目を逸らしていたんだ。
スサノオの凶暴性から。
こいつは、こんな突拍子もないことはしないって、そんな風に勝手に思い込んでいた。
間違ったんだ。
ボクは、また間違った。
「ごめんね、広希……何も残せなくて……」
「そんなことない! 最期に会えた! まだ生きられる! 魔力を使えばまだ!」
母さんは首を振る。
「魔力だけじゃ、血は作れないんだ」
ガツンと、頭を殴られたような衝撃。
手遅れなのか、もう間に合わないのか。傷を塞げばまだ。まだ、何か手はあるはずだ。
「それに……逃げ切れないだろ、私を抱えてちゃ」
ちらりと、スサノオを見た。
「私は戦えない」
その通りだ。
藤高は、紅黒は何をしてるんだ。なぜ来ない。なぜ来れない。今ここにこそ必要なのに。春原でもいい、誰か、誰か、誰か!
「母さん……」
誰でもいい、この状況をなんとかしてくれ。失いたくない。一度だって、失いたくないんだ。こんなの酷すぎるだろう。
やっと会えたのに。やっと追いつけたのに。こんなのって。
「だから、ね、広希」
ボクの手を、一層強く握って。
「ずっと愛してるよ」
頭が真っ白だ。
何も考えられない。
何かが体の中で燃えて、熱が雫になって瞳からこぼれ落ちる。
目を閉じて。
強く、強く手を握った。
最期のその瞬間まで。
「…………」
憎い。
ふと、そんな言葉が湧いた。
そうか。スサノオはあの時、こんな気持ちだったのか。
手から温もりが抜け落ちていく。
命が零れて流れていく。
最期の一滴まで、ボクは手を握り続けた。
縋り付いて泣きじゃくりたい。それくらいのワガママが許されても良かった。
けれど。
けれど、無理だ。抑えられない。たとえ無謀だとしても、この憎しみを、ぶつけられる相手の前で、隙を見せることなんてできない。
手を握ったまま、スサノオの方を見た。
ボクが言葉を発するより早く。
「駄目だ」
スサノオが言った。
「行くな――駄目だ高田さん、そっちには行くな!」
嗚呼、ああ、嗚呼。
もう、うんざりだよ。
「そっちってどっちだよ」
お前はいつも、ぼんやりしたことを言う。うんざりだ。何もかも。その強さも、傲慢さも、その感情も姿も存在も。
忌々しい。
はっきりと思う。出来るならば消し去ってやりたい。ボクにはそれくらいの権利はあると思った。コイツはそんな感情に身を任せ、何十人、何百人と殺して見せた。
なら、やり返したって良いだろう? お前一人の命で赦してやるから。
「そっちとか、あっちとか、こっちとか。どっちのことを言ってんだ。ボクはここだ。ここにしかいない。今この瞬間の、母さんの前にしかいないんだよ! お前はなんだ? なんなんだよ! ボクの前で、ボクを苦しめることしかしないじゃないか!」
ボクから奪った全てのものを、その命で贖え。
「お前は敵だ、スサノオ」
なんだよその顔は。今更後悔したってもう遅いんだ。
お前はやりすぎた。
後輩? 人間? 方舟?
そんなもの、知ったことじゃない。
スサノオ。
ボクはお前を殺したい。
◆ ◆ ◆ ◆
最悪だ。
何もかもが。
想像なんか遥かに上回って、この状況は悪すぎる。
こんなことがあり得ていいのか。
高田さんが母と呼んだものは蛇だった。
それだけなら、まだいい。悪いのは、ドクトルの自死が僕による殺人に映ったことだ。僕は言い逃れすることすらできない。
証拠は今しがた消えてなくなったのだから。
圧縮か。こんなに厄介な能力だとは。
敵だと言われて、そこから魔力が練れなくなった。
動揺していないなんて言葉にしてみても、そんな嘘はすぐにバレるだろう。
高田さんは今、たった今、僕に憎しみを向けている。
もっと興奮するものと。もっと喜ばしいものと。もっと。
――駄目だ。
「貴方とは戦えない」
駄目なんだ。
「じゃあ死ねよ! 今ここで!」
何も見えていない。
冷静さを欠いている。いつもの高田さんではない。
その怒りが、その虚しさが、僕は痛いほどによく分かった。
そうか、そうだよな。家族なんだ。高田さんにとって、この亡骸は家族なんだよな。
そんなことを朧気に思った。
どうでもいいことを、ぼんやりと考えた。
ここで殺るか否か。
ぼんやりと。
(――ジェノン)
(なに)
(仕事が終わった。エクスを連れて報告に戻る)
(そりゃ良かった。……帰ったら話を聞いてやる。だから――)
(ああ、だから――)
(生きて帰って来い)
(必ずお前の元に帰る)
殺さない。
僕はそう選択した。
「殺したいほど憎いですか、俺が」
「なんだよ、それ? 分かってるだろ」
「ええ、身に染みて知っています。その痛みも虚しさも」
やることを整理しよう。
まずはここを出る。エクスを連れてトビラへ。ノア様に蛇のことを報告し、ジェノンに今回のことを話す。
必死に平静を装った。
そうでもしないと、また折れてしまいそうで。
折角の闘いを、楽しめそうにないから。
「命が欲しいというなら、いいでしょう。挑戦してみるといい。前の俺とは違います」
自分がこんなで良かったと、心の底から感謝した。闘いを楽しめる心が無ければ、僕は全てを投げ出していただろう。
奇しくも場は整ったのだ。
せめて。
せめて立派に敵として、貴方の前に立ってやる。