蛇を捕らえるということ
とんでもなく奇怪な気分だ。ドクトルは確かにそこにいて、話し方も、仕草の一つ一つも、これがドクトルであることを証明している。
そして僕だけに分かることがもう一つ。
「相変わらず、呼吸はしてないんだな」
「ああ、忘れてたよ。これでいいかい?」
呼吸の仕方がめちゃくちゃだ。サトリでうまく動きを読めない。
「数年動かしたけど、まだ呼吸には慣れてなくてねぇ……なんせあんまりしないからさ」
「どうやって生きてるんだよ 」
「そりゃ、魔力で色々とね」
コーヒーに口をつける。
毒は入っていないだろう。ドクトルにとって僕は敵ではないはずだし、まだ、今日なぜここに来たかも言っていない。
話したいことはたくさんあった。
刀に関すること。ジェノンのこと。ここにいることへの疑問。
でも、今はとりあえずいいだろう。もっと重要なことを、まず聞いておかなければ。
「お前が『蛇』なのか?」
聞いてから、コーヒーを飲んで、目を閉じた。
「その呼び方は好きじゃないな」
ゆっくりと、その味を噛み締めた。
ドクトルの言葉は続くだろう。なんとなく分かった。その間、じっくりと思い返す時間はある。
ドクトルは僕を助けた恩人で、何度も手を差し伸べてくれた科学者だ。コイツの協力がなければ僕は未だ、ルシフェルを殺すことに執着していただろう。その力は未知数で、しかしはっきり分かるのは、コイツは、この存在は、全てを知った上で僕らを踊らせているということだ。
方舟に巣食う蛇。
ノア様とゼウスによって封印された、謎多き存在。
「ま、いっか。そうさ、僕は蛇だよ」
否定はせず、落ち着いた様子で、ドクトルは言った。
語られてきた言葉の全てに合点が行って、僕は少し、ほんの少しだけ、哀しみを覚えた。
「なぜこんなことを?」
分からないことだらけだけど。
どうにか、命を奪わないようにしたかった。
「こんなことって?」
「高田さんがこうなるよう仕向けたのは、お前だろう?」
カップを揺らしながら、ドクトルは少し考えた。
「ああ、あの子の。……正直、君と広希が知り合いだったのは予想してなかったよ」
「きっかけは俺だったのか?」
「違うね。遅かれ早かれこうするつもりだった」
グッと傾けて。
「なに? 知りたいの、あの子のこと」
「……曲がりなりにも、惚れた相手だ。知りたくもなる」
ドクトルは意地悪い顔で笑った。
「彼は人とNSのハーフだよ」
カップが傾いて、苦い液体が臓腑を満たしていく。
「作るのには中々苦労した。かなりの年月を割いた割には、成功したのは二体だけ。そのうち一人は魂を混ぜて、広希の方は肉体を混ぜた」
意味のわからないことを、ドクトルはベラベラと並べ立てる。
「NSの細胞には遺伝子がないからね。一見してクローニングは不可能に思える。けど抜け道はやっぱりあって――つまり、彼らの二重螺旋は魔力によって創られているわけだな。広希の細胞を見れば分かると思うけど、彼の遺伝子構造はかなり特徴的なんだよね」
安定させるために色々細工が必要だった。そんな言葉で締めくくり、彼は僕の反応を待っていた。
「創った目的は?」
「言わせるなよ。実験のためだ」
「なんの実験だ?」
「言えないね。理解できないだろうし」
相も変わらず、コーヒーは苦い。
甘くなる日は来るのだろうか。
香りはいいのに、あまりの苦味で台無しだ。
「あくまで、敵対するつもりか」
「言い方が悪いでしょ。元々、僕を敵とみなしたのはそっちなんだし」
奇妙な時間だった。僕のやる事はもはや決まっていて、あとはそこに転がっていくのみの、他になんの余地もない時間。
なのにドクトルは余裕綽々で、怯えているのは僕の方だ。
少しずつ見えてきたことだけど、僕はこういう場面が苦手なのだろう。
いざと言う時、舞い上がってしまって何かしらのミスをやらかす。ジェノンにも言われたことだけど、だからこそ、警戒して、心を引き締める時間は必要なのだ。
けれど、ドクトルと来たらどうだ。
「……お前、今から死ぬんだぞ」
「おや、そうなのか。それは知らなかった」
白々しいやつだ、僕がここに来た時点で、その末路は分かっていただろう。
刀を提げてここにいるんだ。しっかりとその目には映っているだろうし、僕の質問からしても、充分に予測はできる……はずだ。
気乗りしない僕に、ドクトルは言った。
「じゃ、聞かせてもらおうかな。……どうやって僕を殺すつもりだい?」
そんなの、決まっている。
「斬る」
ドクトルは……。
「フフ……アハハハ」
気の抜けた笑いを上げた。
「面白いな、いや、全く面白いよ! それはあくまで、肉体を殺す方法だろ?」
言われて始めて、僕は気付いた。
事の重大さに。
なぜ、殺せ、ではなく、捕らえろ、という指令だったのか。
「君、魂を斬れるの?」
ドクトルは殺せない。
いや、正確には違うか。
コイツは、生きても死んでもいないのだ。
生きているなら、殺すことができる。
殺してなお動くなら、さらに壊せばいい。
しかし、生きても死んでもいないなら?
妊娠してもいない赤子を、どうやって殺せばいいんだろう?
これは、そういうことなのだ。ドクトルは魂――つまり、ただの魔力の塊――で、言ってしまえば『誰にでもなれる』のだ。
肉体さえ用意されていれば、どんな姿にもなれる。
ノア様は『蛇』を、敢えて封印したんじゃないんだ。
封印するしかなかった。
どこに出没するか分からない存在の、その大元を縛り上げるしか、抑える方法は無かった。
だから、方舟の底に封印したのだ。
「なら、縛り上げてでも方舟に連れていく」
「それは悪手だろ。本体はあっちにいるんだ。いつでも抜け出せる」
やはりこうなる。
この場で拘束しても意味が無い。蛇を捕まえるという指令は、僕が思っているよりもずっと、ずっとずっと不可能に近いものなのだ。
「あと……ちょっと困るな、殺されないっていうのは。計画に支障が出るのはもう懲り懲りだよ」
言ってから、ドクトルはカップを置いた。
「だから、無理にでも進めることにした」
ドクトルの手に握られた端末の画面。
そこに踊る文字。
送信済みの――
「まさか」
玄関の開く音。
「呼んだのか」
忙しない足音。
一人、二人――四人分の気配。
「高田さんを、ここに」
「馬鹿だな。当たり前じゃないか。無力な母親のヘルプだ、来ない訳にはいかないだろ?」それに、と付け加え。「広希は今から、立派に君の敵になる」
パチンとドクトルが指を鳴らした。
手に握られたのは一本のナイフ。
壁際まで歩いて、ゆっくりと座り込む。
「これで完成だ」
躊躇いもなく、ドクトルはその体に刃を突き刺した。
痛みに一瞬顔を歪め、赤い染みがどんどんと広がって、床に水たまりを作る。
その間にもドクトルの――その体はだんだんと弱り――なおも微笑む。
「証拠はこれで消える」
再度、ドクトルが指を鳴らした。
ナイフが圧縮されて小さくなる。米粒ほどの大きさになった刃物を、口の中に放り込んで飲んだ。
何が、今、いったい何を。あまりに躊躇いのない行動で、あまりにおかしな行動で、僕の理解はまだ追いついて――足音が迫る――ドアの近く――
「母さん!!」
――開け放たれたドアの向こうに、高田さんが立っていた。