蛇
「で、オレ様に鍵を借りに来たと」
「ああ。問題ないだろ?」
「いや、あるね。戻って来てるか分かんねェ」
ソファでタバコを燻らすゼウスは真剣な面持ちでそう言った。
相変わらず、一人用にしては広い部屋だ。
「アイツの予定まで把握してねェわ、すまん」
「謝ることは無い。急な話だった」
素直に返すと、ゼウスは意外そうな顔をした。
「なによ、どうした坊主。やけに大人しいじゃあねェの」
「こういう日もある」
言われてみれば、ゼウスには噛み付いてばかりいた気がする。
態度を改めようと思ったのだ。そう、なんというか――
「世話になったからな。ルシフェルを貸してくれて助かった」
「ああ……特訓だろ? 成果は楽しみにしてんだぜ?」
――一ヶ月の間、ルシフェルの予定を抑えてくれたのはゼウスなのだ。
ルシフェルを相手にした鍛錬は有意義なものだったから、本当に感謝している。
「で、今度はエクスをね……」
「ダメか?」
「や、ダメってことぁねェんだ。ただアイツにも事情があらぁな。予定を合わせるよう伝えとく」
机に広げられた書類を見て、何やらブツブツと呟くゼウス。
筋骨隆々な男なのに、書類仕事とは。なんだか似合わない。
「なに見てんだよ」
「別に、似合わないな、なんて思ってないぞ」
「うるせェな、俺だって面倒な書類は早く片付けてェよ」
「どう面倒なんだ?」
「こう見えて人手不足でな。神官は常に空席があんだ」
だから推薦制度を作ったとゼウスは言う。
滅多なことでは神官に成ることは出来ないが、空席を有能な人材で減らせるからいい制度なのだと。
「なぜ推薦なんだ?」
「あー、それはな、実を言うとエクスが関わってんだその話にはな」
灰皿に吸殻を落として。
「腕は立つのにただのNSだったんでな。そういう奴が日の目を見るよう、推薦制度を作った」
そこに人間も含めるあたり、ゼウスの度量が伺える。
「能力はあったのか?」
「あったってェより、開花したってのが正しいな。たまにあンだ、そういうことは」
「……なるほど」
肝に銘じておこう。
「なら、しばらくは政世にいておくよ」
「助かるぜ。滞在先は決まってるのか?」
「いや、適当に探すさ」
「なら手配してやる」
そう言って、近くに置いてあった財布を探り。
「ここのホテルはオススメだ。このカード見せりゃ泊まれる」
随分手厚いことで。
「優しいなお前は」
「そうじゃなきゃ生き残ってねェよ」
受け取ったものはポケットにしまっておく。
さて次だ。聞きたいことはまだまだある。
「……『蛇』とはなんだ?」
聞いてみると、ゼウスは髪を乱雑に乱して、しばらく俯いた。
話しにくいことなのか、話せないことなのか。
「方舟に封印した『何か』だよ」
濁すように、ゼウスは言った。
「方舟の深層、その一番底の底。そこにやつはいる」
「封印……?」
「しっかりと閉じ込めてあるはずなんだよ。二度と悪さ出来ねェようにな」
気分が悪くなったのか、タバコを一本咥えて。
「世界がこうなる前、オレと兄貴の二人で封印したんだ」
「お前、弟だったのか」
「言ってなかったか?」
「初めて聞いた」
紫煙が燻る。
「まぁ……兄貴とオレで封印した。それは確かだ。兄貴は蛇を監視するために方舟の管理者に、オレは封印の監視員になった」
懐かしむような様子はなかった。今もはっきりと覚えているのか、その口調は強い。
「しかしまぁ、二千年以上も昔のことだ。封印を見に行くにしても……」
「しても?」
「オレはそこまで潜れない」
深層は気配を探りにくいと、確かに誰かが言っていた。
深層を自由に移動するNSは珍しいとも、確かに聞いた。
そこには蛇が関わっているのか。
「蛇が外に出てるかもしれねェ。なら人間の世界にも何かが起こってる。早いとこ魔導石を回収して、もう一度封印を張り直す……これが目的だな」
しかし問題点も多いとゼウスは続ける。
「魔導石に関しちゃ、不確定要素が多くてな……その出現は歴史に刻まれるが、逆に言えば歴史に刻まれるまで現れない。簡単には手出し出来ねェわけで――」
「だから、観測できる世界を広げる、と?」
「冴えてんねェ! その通りだ! そのためならなんだってやる。それが兄貴の方針さ」
さっきからもしやと思っていたが、あえて聞かなかったことがある。
ゼウスの兄と言うのは――
「ノア様と兄弟なのか?」
「そうだが」
「……」
――あっさり言ってのけるな。
「言ってなかったか。ノアはオレの実の兄貴さ。それこそ、生きてた頃は」
言いかけて、ゼウスの肺に煙が入った。
「この話やめるわ」
「どうした急に」
「気分じゃねェし、教えたくねェ」
たっぷりと燻らせて。
「『蛇』の正体に関しちゃ、オレらにもよく分かってないことが多い。ただ、一つはっきりしてることがある」
今度は、蛇の話か。
「やつは人間の作り方を知ってる」
――心当たりがあった。
いや、考えすぎか。しかし。
おそらく、おそらく、だが。ゼウスが言っているのは、単純な性行為の話ではない。どうすれば人間が増えるのか、そんな単純な話ではないはずだ。
ゼウスの言いたいのは、おそらく――
「やつはアダムを創った」
――そういうことだ。
「なら、なぜノア様が神なんだ?」
「今のところはってことさ。玉座に座った者が神になる。方舟はそういう場所だからな」
「なぜ分かるんだ、アダムを創ったと」
「状況証拠だ」
「それだけか?」
「揃いすぎてるからな」
話せることはそれだけだとゼウスは言って、手を僕に向けて払った。
丁度いい、僕にも確かめたいことが出来た。伝達も済んだし頃合いだろう。
それに、そろそろ鍛錬の時間だ。
「ドイツに向かう」
「おう。良きに計らえ」
「何様だ貴様」
「ゼウス様々大神官様でェす」
気の抜けた返事だな。