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Lilia.

作者: 羽富 緝

『雫が滴る彼女の黒髪は艶やかで、思わず伸ばしかけた手を左手で押さえた。僕のその行動を不思議そうに見ていたその常闇色の瞳に、僕は胸を高鳴らせながら彼女の名前を問うと、彼女は寒さで赤くなった鼻を掻きながら恥ずかしそうに口を開いた。「リリア……。私の名前、です。」日本人らしからぬその名前は、何だか妙にしっくりきて、「素敵な名前だね。」僕は緊張で上擦った声で、精一杯、そう伝えたのだ。』――――(『夕闇珈琲店』著:曇天 霞)


『彼女の瞳はサファイアで、ぱたり、ぱたりと落ちる涙は真珠のように美しかった。髪色と同一色の薄黄金色の長い睫毛は、真珠の子供を乗せてふるり、と瞬いた。「星屑になればいいんだわ。そうしたら、私も貴方も、きっと幸せよ。」行かないでよ……。俯いた彼女の前髪を掻き分け、唇を額に落とす。「リリア。君の幸せを、僕は世界で一等、願っているよ。」額同士を合わせ瞳を覗きこめば、彼女のサファイアに僕の情けない顔が映り込んだ。』――――(『ミセス・リリア』著:曇天 霞)

 カラン、コロンとドアベルを鳴らし、一人の老人が店内へと入って来た。焦げ茶色の中折れ帽子を目深に被り、揃いの色のスーツにはシワもなく、節くれだ立った左手は古びた床をコツコツと鳴らすステッキを持っていた。

「お客様、一名様でしょうか。」

 昔からこの店にあるレコードが一曲の終わりを告げ、オーナーが次のレコードを選びに奥の棚へと姿を消す。

「待ち合わせでね、女性を待っているんだ。そこの、窓際の席に座らせておくれ。」

彼の、右手の人差し指で指した場所は、昼の陽射しを受け止めている唯一の二人席だった。この暑い時季には人気がないあの場所は、誰も座りたがらないのでメニューさえも置いてはいない。

「あちらの二人席でよろしいのですか?」

そう聞けば、彼は帽子を脱ぎ胸の前にそれを持ってきた。節くれ立った指の中で中指の第一関節だけ、横に出張ったイボのようなものが目に付く。

「ええ。あそこなら、リリアも気に入りそうだ。」

「――かしこまりました。」

 「リリア」という名前を、どこかで聞いた気がする。そう思いながらも、私は老人が要望した席へと案内した。

「こちら、メニューになります。」

「コーヒーを一杯、いただけるかな。」

彼は間髪入れずに皺だらけの目元を更に皺だらけにして、私にウィンクをした。そして彼の右手は木目を撫で、にこりと微笑む。

「良い机だね。僕と同じくらい、年をとっている。」

「あ、ありがとうございます。オーナーが一番気に入っているテーブルなんですよ。」

「ほお。オーナーとは、話が合いそうだ。」

彼は、またあの皺だらけの目元を更に皺くちゃにしてぽん、と一つ手を打った。

「そうだ、彼女が来たらガトーショコラもお願いするよ。彼女はここのガトーショコラが大好物なんだ。」

「――……はい。お持ちいたします。」

 一度も開かれなかったメニュー表と共にカウンターに戻ると、オーナーが自慢の口髭を一撫でし労いの言葉を私にかけた。

「オーナー。あのお客様、昔からいらっしゃっていました?」

コーヒー豆の入っている袋を開け、豆をザラザラと機械に入れていく。

「いや……初めてのお客様だね。」

「そう、ですか……。」

コーヒー独特の香りが店内を包みこみ店長セレクトのクラシックが、古びた蓄音機から飛び飛びの音を店内に響かせる。心が穏やかになる、幸せな時間。けれど少しだけ心の隅に引っ掛かっていることが、一つ。……あのお客様、何処かで会ったことあったかな。

 ポットの怒る音と共に、来店を告げるベルが店内に響いた。




 「こちら、ガトーショコラになります。」

「頼んでいないわ。」

流暢だが刺を含んだ日本語が、彼女の形の良い唇から発せられた。自然な色合いの、黄金の髪に青い瞳、日本人とは違う肌の色をした美しい女性だった。

彼女が「リリア」さん。想像していたよりも大分若い女性で、整い過ぎている顔立ちは、まるでどこかの物語から出てきたヒロインのようだった。

「僕が頼んだんだ。君、ここのガトーショコラ好きだろう?」

店長へ目配せをすれば、無言の否定が返ってきた。彼女も、初めてのお客様なのか……。

 老人がまた皺くちゃなウィンクを彼女にすると、彼女はそちらを見向きもせずにケーキへとフォークをぶっ刺した。カチャンッ。大きな音を立ててフォークの先が皿と接触する。すくい取るようにして口に運ばれたケーキの欠片は、数回の咀嚼を経てコーヒーと共に喉の奥へと流し込まれた。

「……美味しいわ。」

彼女の青い瞳はこちらを見ずに、真っ白な頬だけが紅色に染まった。その表情は、先ほどの発言を悔いているように思えた。

「いいえ。――ありがとうございます。」

ごゆっくりどうぞ。伝票を見えないように机に伏せ、カウンターへと戻っていく。いつの間にか飛び飛びのクラシックは最後の一小節を奏で終え、オーナーはまた奥の棚へと引っ込んでしまった。

 こぽり、こぽり。一滴、また一滴と、カップに落ちるごとにコーヒーの香りや音が、波紋のように店内に広がり響く。この空間はもう、彼らと、完成を待ちわびているコーヒーしかいない。それはさながら、映画のワンシーンを見ているような気分だった。

 この空間に、この場所に。

 私はもう、いないのだ。

 そう思うと、彼らの声はより鮮明に聞こえ、ここからの角度では見えなかった、彼の表情でさえもはっきりと見えているようだ。――……私はゆっくりと、彼らという映画に取り込まれていった。






 「ねぇ。私はどうして、ここに呼ばれたのかしら。」

カップをソーサーへと落ち着かせると、彼女の青い瞳は真っ直ぐに彼の瞳を捉えた。けれど彼の黒い瞳は、またすぐに皺だらけの笑顔の奥へと消える。

「ねぇ、リリア。君が世界からいなくなるとき、僕は何をしているのかな。」

頬杖をついて、半ば独り言のように呟かれたその言葉を、彼女は目を丸くし、少し俯きながら考え、そして答えた。

「……きっと貴方も、もういないわ。」

夜空に光る、星屑になっているのかもね。

 悪態を吐くと、彼女はまた、残り少ないコーヒーカップに手を伸ばした。湯気も立っていないそれは、きっともう、冷え切っている。

「ははっ。僕はリリアが元気だったら、それで十分だからね。」

「欲の無い人。私が他人に愛されてもいいって、そう言っているのかしら?」

ジトリ、と彼を見れば、その皺くちゃな頬が照れたように紅色に染まる。

「そうしたら、僕はきっと鼻が高いだろうね。」

それは君が、僕の生涯の人になるということだから。

 彼女はもう、彼を見ていない。湯気も立たず、底の方にうっすらと残っているコーヒーをゆらゆらと揺らしながら、何を見つめるわけでもなく、ただただ、ぼぉっと俯いていた。

「……私に『愛している』くらい、言ってくれないの?」

「いやぁ……。だって君は、もう世界中の人に愛されているんだろう?それを僕は奪えないよ。」

紅色の頬を出っ張りが目立つ指で掻く彼を、彼女は呆れたように、けれど愛おしそうに見つめ返した。

「可哀想な人。……でも、好きよ。」

「僕だってそうさ。僕だって――『君たち』が一番好きだよ、リリア。」

 ばちっ。彼と目が合った。彼女を介して見た真正面からの彼ではなく、座席からくるりと体をひねり、カウンターにいた私を見て来たのだ。

はっ、と我に返り、彼の向かいの席に目を向ければ、そこには空になったコーヒーカップと何も乗っていないケーキ皿だけが残っていた。


 「ありがとう。素敵な時間だったよ。」

コツン、コツンと彼はレジへと向かう。私も慌てて彼の目の前になるようレジの前に姿勢を正し、商品代金を慌てて入力していく。けれど入力が終わる前に、彼は私に一冊の本を差し出した。

「僕はどんな君も好きだ。しかし『一番思い出深い人』と言われれば、それはきっと、君しかいない。」

 差し出された本は表紙も掠れていて、黄ばんだページは古本独特の匂いがする。表紙を一ページ捲れば、そこには代金額、丁度のお金が挟まっていた。

「二千円、丁度いただきます……。」

マニュアルどおりのセリフを言い、お金をレジへと片づける。

 カラン、コロンと扉を半分まで開けると、彼は一旦こちらを振り返った。帽子を目深に被っていることもあるが、夕日が逆光となり、彼の表情は分からなかった。けれど、夕日を反射した涙が彼の皺だらけの頬を伝い熱さの残るコンクリートに吸い込まれていくのを、私はレジの前で、まるで彼が生き別れの父親であるかのような感情で見ていたのだ。

 

いかないで。

 

 頭の中に浮かぶ言葉や感情を、私はどうして彼に抱いてしまっているのか、理解ができない。


どうして私は彼を行かせたくないのだろうか。

どうしてこんなにも懐かしく、焦がれる想いを持っているのだろうか。

どうして私は彼を呼び止めたいのだろうか。

どうして今、彼を父親のように見てしまっているのだろうか。

どうして彼は行ってしまうのだろうか。

どうして彼は今日、ここに来たのだろうか。

どうして私と会ったのだろうか。

どうして彼は「リリア」と会ったのだろうか。


どうして私はこの右手を、彼の背中に伸ばさないのだろうか!


「……ありがとう。僕の、初めての人。」

カラン、コロン。

 扉は閉まり、店に静寂が訪れる。

 胸の前で押さえていた両手は汗をじっとりと含んでいる。喉の中はカラカラに渇いていて、呼吸の度にひりりと痛む。レコードの音も、コーヒーが出来上がる音も、オーナーの思案する声も聞こえない。視線を上げればいつもの静かな、けれども音を持った店へと戻るかもしれない。しかし私の視線は上がらないし上げられない。この視界には木目の目立つレジの棚と、彼が残していった一冊の本しか映ってはいなかった。表紙を一撫ですれば、微かに凹凸があり、そこがタイトルなのだと分かる。金伯の取れたそれをゆっくりと撫で、点字のように読んでいく。

「夕、闇…珈、琲、店……」


 カラン、コロン、とドアベルが鳴り、風が店内を吹き抜ける。前髪が上がり、咄嗟に視線を上げる。

 そこには、焦げ茶色の中折れ帽子を目深に被り、揃いの色のスーツにはシワもなく、節くれだ立ってはいない左手には床をコツコツと鳴らす真新しいステッキを持っている、青年がいた。

「泣かないでおくれよ、リリア。君の笑顔が、僕は一等好きなんだ。」

私の頬から涙を掬うと、彼はその黒目がなくなるくらい、くしゃりとした笑顔を見せた。その手の中指第一関節。横に出張ったイボのようなものは、彼の手には不自然なくらいだった。

「生まれてきてくれてありがとう。君は僕の最初の人だ。」

店内に、また風が入り込み今度は彼の姿を攫っていく。

「好きだよ、リリア。愛しているよ。」

また、彼の指が私の涙を掬っていく。中指のイボが頬に触れていく。――嗚呼、そういえば中指のイボは、物書きの印だと、貴方が誇らしそうに教えてくれたのだった。

 彼の姿が見えなくなると、ドアベルが音を鳴らし、扉が閉められた。

「私もです。――私も、貴方が大好きです。」

 もう掬われることのない涙が、私の頬を濡らし伝い、手の中の本へと落ちていく。ページを開けば、古本独特の黄ばんだ匂いと共に、彼が描いた、私の人生が色鮮やかに綴られていた。



Fin.


『Q.全ての小説のヒロインに「リリア」と名付けている曇天 霞先生。様々な噂がありますが、ズバリ「リリア」という女性は現実にいるのでしょうか?――A.勿論、現実におりますよ。彼女は僕の初恋の女性です。どんな物語であっても、どんなヒロインであっても。初恋の彼女の名前でしか空想出来ない。今年72歳の大の男がですよ?僕は大概、「自分は未練がましい小さな男なんだ」と常々実感していますね。』――――(女性月刊誌 掲載インタビューより抜粋)





なお、全てがフィクションです。

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