第36話 ジョギング
ふあぁぁぁぁ……
俺は重い瞼を何とか開き、周囲を見渡す。
寝ながら首だけを動かし、カーテンの隙間から望む景色はそろそろ日の出が近いことを物語っている。
「完全に飲み過ぎたな……」
皆で飲む酒は旨い。
それは何処の世界でも変わらないようだ。
それに隣を見ても、向かいを見ても息を飲むほどの美女がいる。
つい飲み過ぎるのも仕方のない事だ。
俺が寝ているのは、昨日から自由にして良いと与えられた部屋だ。
荷物はだいぶ片付き、寝るぶんには十分なスペースが確保されている。
この部屋にはベッドが無いため、床に寝袋と毛布を敷いて寝ている。
床の硬さが多少気になるが、苦痛と言う程でもない。
まぁこれから長いこと暮らすと考えるなら、後で家具屋でも見てベッドを買ってきてもいいだろう。
枕元に置いてある小さなテーブルには、虹色の石が鈍く光っている。
この力なく輝く石は、アルドラの本体である幻魔石だ。
おそらく魔力を使い果たしたのか、石の姿になっている。
放っておけばいずれ魔力を取り戻し、再び顕現できることであろう。
なので今は放置だ。
「それにしても……」
俺は重い体を起こす。
部屋には当然俺1人だ。
思えばここ数日、リザと寝室を共にしてきた為か久々に1人になると少し寂しいような気もする。
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俺は着替えて家を出ると、すぐ近くにある井戸の在る広場へやって来た。
元々は防火用に設置された井戸らしいが、飲用にも堪えられるらしく、周囲の人達は生活用水として利用しているらしい。
井戸とは言っても、中からお化けが出てきたりボーナスステージに繋がっていたりはしない。
石で作られた円形の筒に屋根が備えられ、滑車と釣瓶が設置されている。
街で管理されているものらしく、使用の際に許可が必要なこともなく自由に使っていいそうだ。
釣瓶を落とし、井戸の冷たい水を汲み顔を洗う。
気温は僅かずつにも上昇し季節の変わり目を感じるが、井戸の水は身を切るほどに冷たく、目の覚める思いだ。
用意しておいた歯磨き枝を使ってみるが、コレはただの硬い枝のようだった。
たぶん慣れれば問題なくなるのだろう。慣れるまで時間は掛かりそうだが。
冷たい水で目が覚めたので丁度いい。
俺は足取りも軽く、まだ夜が明けきってない薄靄のベイルの街を走りだした。
街の人通りはまだ少ない。
既に動き出しているのは商売をしている者達だろうか。
朝っぱらから街なかを走り回っている者の姿は俺以外に居ないようだ。
時折住人たちに変な顔で見られたり、せせら笑う者もちらほら見かけた。
気にする必要も無いので、無視するが。
なぜ俺が朝っぱらから走っているかと言えば、単純に体力づくりである。
俺は生まれてこの方、まともな運動をした記憶が無い。
もちろん格闘技の経験なんてものも無い。
運動といえば学生時代の体育の授業くらいである。
それ以来、まともに走った記憶さえ無いのだ。
近くのコンビニでさえ、車かバイクに乗っていた。
そんな男なのだ。
それが何の因果か、このような世界に飛ばされてしまった。
人を襲う魔物や、人を騙し殺し財貨を奪わんとする者達が彷徨く危険な世界だ。
幸いなことに魔術という対抗手段が俺にはあるが、それにしても体を鍛える必要はある。
体力もいるだろう。
アルドラの話によれば、いかに強力なスキルを持っていたとしても自身を鍛えなければ、その意味は半減する。
死にたくなければ、鍛えるしか無い。
大切なモノを護るためには、強くなるしか無いのだ。
とはいっても、体を鍛えようと考え思いついたのは走りこみくらいだった。
その後はアルドラに相談すればいいだろう。
ちなみに彼は昨日の夜、長々と生前の冒険譚を皆に聞かせてくれた。
エルフでは無くなったものの、酒には酔えるのか終始ごきげんであった。
食事が終われば直ぐ席を立つだろうと思っていたシアンも、アルドラの話は暫くの間聞いていたようだった。
シアンはずっと街で暮らしているようだし、アルドラの何処其処へ行って、どんな魔獣が居たか、どんなふうに倒したかなどの冒険譚は面白かったのかもしれない。
疲れの見えたシアンとリザを先に寝るように勧め、しばらく3人で飲んでいたような気がするが、それ以降の記憶が出てこない。
あまり飲み過ぎないように気をつけないといけないな。
2時間ほど走った後、井戸の在る広場まで戻ってきた。
魔装具、疾風の革靴のお陰なのか走りに自信のない俺でも、すこぶる調子が良い。
疾風の革靴はショートブーツのような形状なのだが、俺の足にピタリと収まり軽快な走りを与えてくれた。
走る前まではスニーカーが欲しいと思った事もあったが、そんな考えも改めさせられた思いだ。
気持ちのいい汗をかいたので、井戸から水を汲み上げ頭から被って涼を得る。
再び水を汲なおし、浴びるように喉へと流し込んだ。
「くあー、旨い!」
火照った体が冷やされる。
乾いた喉が潤いを取り戻し、やっと一息ついた。
「にゃにゃにゃ?見かけない顔がいるにゃ~?」
井戸の水を浴びて汗を流していると、不意に背後から声を掛けられた。
振り向くと、浴衣のような衣を身にまとった獣人族の女が立っていた。
獣猫族
白髪のショートヘア、青い瞳。
頭に猫耳と、特徴的な細い尻尾が揺れているのが見える。
浴衣は若干の違いは在るようだが、よく似ている。
着崩した胸元から豊満な物体が今にも零れ落ちそうだ。
オシャレに着崩しているというより、寝起きで飛び出してきた様な格好に見える。
「……おはようございます」
一瞬痴女が現れたかと思い焦ったが、思い直し出来るだけ丁寧に挨拶した。
おそらく、この辺りに暮らす住人だろう。
ご近所さんだとすれば、リザたちの顔見知りかもしれないし下手なことは言えない。
「ふふふん?人族の子供にゃぁ?迷子かにゃぁ?」
グイっと顔を近づけ覗き見る獣猫族の女。
「いえ、最近暮らし始めたばかりでして」
女の顔が俺の首もとへ接触するほど近づいてくる。
くんくんくん。
すごい匂い嗅がれてるんですけど。
汗臭かったか?
水は浴びたけど、まぁ走って汗かいた直後だしな。
しかし、なぜ臭いを嗅ぐ?
獣猫族の習性か何かか?
しかし近いな。
よく見ればけっこう美人だし、たぶん裸に身につけているのは浴衣のみなのだろう。
ざっくりと開いた胸元から白い肌がさらけ出されている。
思わず反応してしまいそうになる。マズイな。
「コラッ!何朝から盛ってんだいタマ」
投げかけられる声に、女が振り向く。
獣猫族の女がもう1人増えた。
タマ 妓女Lv23
獣猫族 24歳 女性
ミケ 妓女Lv24
獣猫族 25歳 女性
「ん~?何にゃミケかにゃ~。別に盛ってなんかいないにゃ、あちしの好みはもっと年季の入った男にゃからにゃ~」
タマは飄々とした様子で答えた。
「旦那悪いね、ウチのもんが何か粗相をやらかさなかったかい?」
ミケは申し訳無さそうにしている。
着ている衣はタマと同じようなものだが、しっかり帯を留められ背筋が伸びていて、同じ衣でも着ている人でだいぶ印象が変わる。
「いいえ何も」
地球時代には職場も含め、女っ気なんて無かった。
飲みに集まるのも男友達ばかりだったしな。
正直こうグイグイ来られるのは、どうしていいかわからない所がある。
助け舟が入って助かった。
「別にあちしは何もしてないにゃ。この子供からエルフの匂いがするなと思って気になっただけにゃ」
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「そうかリザちゃんとこで世話になってるんだね」
2人はリザのお客さんだったようだ。
職業や身分に関係なく薬を売ってくれるということで、貧民街ではちょっとした有名人らしい。
「ふぅん。なるほどにゃ~」
タマが物凄いジロジロ見てくる。
そして何かを悟ったようにニヤニヤとした笑みを浮かべる。
「ええ、ちょっと縁がありまして」
「あたしはミケ、こっちはタマね。これからはご近所さんだ。よろしくね」
ミケが右手を差し出す。
この世界にも握手という風習があるらしい。
俺も右手を差し出し、それに応じた。
「ジンです。よろしくお願いします」
その後、しばらく世間話を交わした後に彼女達は去っていった。
ベイルの花街で白猫館という店をやっているので、機会があったら来てほしいと言われた。
なんでもベイルでは珍しく魚料理が食べられる店らしい。
知り合いの好で安くするということなので、いずれ顔を出してみてもいいだろう。
「ただいまー」
「お帰りなさいジン様」
家に戻ると、朝食の準備を終えたリザが出迎えてくれた。
俺が玄関に姿を現すと、パァッと顔を明るくし嬉しそうに駆け寄ってくる。
結婚した経験は無いが、まるで新妻みたいだなと思った。
「早くに目が覚めたから、ちょっと走ってきた。みんなは?」
ミラさんは朝に弱いらしいので、当分起きてこない。
シアンは起きてるかもしれないが、朝は基本食べないらしい。
「あ、もしかして俺のために朝食用意してくれた?」
もしかして、この世界の人は朝はあんまり食べないのか?
でもガロの宿では、たしか朝食が出たような気がする。
「いえ、私もジン様と一緒に頂きたいので」
リザはそう言って笑顔で答えてくれるが、明らかに俺のためだろう。
内容と量を見ればわかる。
俺は朝からしっかり食べる派なので、正直有難い。
自分で作ろうと思えば、出来ないこともないだろうが朝から料理をしようという気にはなれない。
俺1人であれば、買ってきたパンをそのまま齧って終わりだろうしな。
テーブルに並ぶのはパン、目玉焼き、焼いたハム、チーズ、生の野菜、フルーツなど。
この家で料理を担当するのは、ミラさんとシアンらしくリザは普段やらないそうだが、きっとモリモリ食べる俺のために頑張って用意したのだろう。
普段やらない娘が俺のために頑張ってると思うと、ちょっとグッとくるものがあるな。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
「えへへ。よかったです」
リザの嬉しそうにほころばせる、その笑顔がとても可愛かった。




