閑話 悪夢を抱きながら1
あぁ……
またこの夢か……
かつては毎日のように見た夢も、最近では時々思い出したかのように訪れる程度。
この悪夢にうなされ、苦しめられ、何度絶望を味わったことか。
こんなに辛い記憶なら、全て忘れてしまいたい。いっそ死んでしまったほうがどんなに楽なことだろうかと、毎日悩んでいたあの頃……
だが今ではこの悪夢が私の支えであり、希望となっている。
忘れなくてよかった。
この悪夢が全てを思い出させてくれる。
絶望、憎悪、苦痛。
私に宿る黒い感情を風化させずにすむ。
時とともに曖昧になる感情を、憎しみの炎で再び燃え上がらせることが出来るんだ。
王国歴464年――
それは何時もと変わらない朝だった。
南方大陸ファラカル。
大部分が硬い土と乾いた砂でできた大地。
大地の支配権を奪い合う数多の獣人種と、多様な魔物が日々大河のごとく血を流す世界。
私が住んでいたのはそんな大地の端、海岸沿いにほど近い場所にある黒の森。
我らダークエルフが支配する領域だ。
父は狩人で朝日が昇る前に集落の男衆と出かけていった。西の沢で大物が目撃されたといって、前の晩の酒盛りでは誰が一番に獲物を見つけるかで、みんな盛り上がっていた。
母は集落の女衆と共に近くで果実の採取だ。
この時期はウラの実が丁度熟し始める頃合いなので、森の動物に食べられてしまう前に急いで採取しなければならないのだ。
私はまだ子供だからと集落に残って、より小さい子供達の面倒を見ている。
集落の男も女もみんな忙しく働いているので、子供の面倒を見るのは年老いて普通の仕事ができなくなった者達がする。
だが将来を担う子供を預かり、幼児教育を任されるのは非常に名誉な仕事であり、責任ある大事なもの。
そのためこの仕事を任されるのは単に年老いた者というのではなく、集落で敬意を払われる尊敬に値する人物が受け持つということになっている。
今でもあの時、何が起きたのかを正確に計り知る事はできない。
時間は昼ごろだっただろうか。
母達の帰りが遅いことを懸念していた。とっくに集落に戻って昼食の用意をしている時間。そんな頃合いだった。
「ああああああーーーーッッっ」
叫び声を上げながら血まみれの男が集落の広場に入ってきた。
集落に残る老人と子供たちは、その異様な光景に理解が及ばない。
騒ぎを駆けつけ、人がぞろぞろと集まる。
私もつられて足を向けた。
そこにあったのは絶望だった。
巨大な蠍。
森では見かけない魔物がそこにいた。
話には聞いたことがある。
集落からずっと東へ。森を抜けた先の場所に広がる乾いた砂の海、死の砂漠。
砂の嵐が吹き荒れるこの場所には、大陸を代表する怪物が住んでいるという。
大陸に住む全てのものに恐れられる魔物、砂漠蠍。
鉄の鎧のような体。馬を両断するほど強力な鋏。掠っただけ死に至らしめる毒針を備えた尾。
大きなものは体長5メートルを超えるものも珍しくはないという化物だ。
蠍は血まみれの男に覆いかぶさり、頭からばりばりと食べ始めた。
巨大な力の前に抵抗は無意味だった。
逃げなきゃ。
弾けるように鼓動が高まり、ぼんやりとした意識が覚醒される。
だが次の瞬間、更なる絶望が私を襲った。
私が見たのは四方八方から現れる無数の砂漠蠍の大群だった。
「ここに隠れていなさい。小さい子の面倒は貴方が見るのよ。お姉さんなんだからできるでしょ」
どうして、どうやって、どのように其処へ辿り着いたのかは覚えていない。
私は気づくと地下に作られた貯蔵庫にいた。
集落全体で保存食を貯蔵しておく場所。
振り返ると、私の他には3人の老人と9人の幼子が身を寄せあっている。
「まってお母さん!」
血に濡れた母の顔。
顔色が悪い。怪我をしているのだ。
母は弱々しく、私の頬に手を添える。
「怪我をしてるみたいね。大丈夫治してあげるから」
「怪我をしてるのはお母さんだよ!」
私の声は届かない。
頬に温もりを感じる。
母の手から送り込まれる力が、私の体内で暖かい何かに変わる。
「これで大丈夫」
「お母さん!」
より一層力を失ったかのような母は、気丈にも笑顔を見せて立ち上がった。
私の静止を振り切り、貯蔵庫の扉を閉める。
扉の外から母の声が聴こえる。
「しばらくそこに隠れていなさい。絶対に出てはダメよ、軽はずみな行動をとれば貴方だけじゃなく、みんなが大変な目に合うかもしれないんですからね。お願い……貴方は生き残ってね」
「お母さん!待って行かないで!」
私の呼びかけも虚しくその直後、母はその場から立ち去った。
どれくらいの時間が経ったのか。
泣き叫んでいた幼子たちは泣きつかれて寝てしまった。
扉の外から聞こえていた喧騒も静かになった。
何かがいるような気配はしない。
もう出ても大丈夫だろうか。
もしかしたら母が怪我をして困っているかもしれない。
だとすれば急いだほうがいい。
私が扉から出ようとすると、老人の1人が肩を掴んだ。
感情を押し殺したような険しい表情だ。
老人は視線を幼子に移し、まだ行くなと首を振った。
「どいて!」
私は老人の手を振り払い、扉を押し上げた。
みんなを危険に晒すような真似はしたくないけど、少しくらい様子を見てきても問題ないはず。
でも扉はびくともしなかった。
いくら私が力のない子供だとしてもおかしい。
扉は木製で外から鍵を掛けられるようになっているが、まさか私達を閉じ込めたまま鍵を掛けていってしまったということはないだろう。
どうしよう……どんなに押しても引いても、扉は開く気配がない。
母のことも、集落のみんなも心配だけどここから出られないことにはどうしようもない。
私以外の老人や幼子では、腕力に期待できそうにもない。
ここは食料の貯蔵庫だ。保存食は十分にあるし、日持ちする果実もいくらかある。
少しの間なら耐えられそうだけど、外の様子がわからないのでは不安が募るばかりであった。
何日か経った。地下であるため窓もなく、外の様子も窺い知れないため正確な時間はわからないが、感覚からして3日は経過していると思う。
老人たちも幼子も体力を消耗している。
地下室は十分な広さがあるが、光の差さない密閉された空間。光を生み出す術も、火を焚く道具も用意していないため、常に闇に包まれていた。
これでは夜目があっても、殆ど物を見ることは出来ない。
闇の中で狩りすることもある私たちは闇を恐れることは無いが、それでも疲弊はする。
老人と幼子であれば尚更だった。
「おい、こっちだ。何かあるぞ」
「地下室か。瓦礫で埋まってるな……工兵を呼んでこい、撤去させろ」
「隊長、蠍の駆除が終わりました。斥候によれば、周辺の魔物は残らず駆逐完了とのことです」
「わかった。やはり異常発生か?」
「魔術師たちは、その可能性が高いと言ってますが詳しく調べるまでわからないそうです」
「そうか。そういや司教様はどうした?」
「天幕でお休みになられています。お呼びしましょうか?」
外から男の人の声が聴こえる。聞いたことのない声だ。集落の者ではない。
「集落の戸数を確認しろ。遺体は広場に集めておけ、瓦礫の下敷きになってる奴も全てだ」
「報告どおりですよ。奴らの殆どが金の装飾品を身に着けています。凄いですよ、この集落だけでどれくらいの価値になるのか……」
「懐に仕舞いこむのだけはやめておけよ。これらの戦利品は陛下に献上する手筈になっているのだからな。その代わりに生き残りを自由にすることを許可してやってるんだ」
「わかってますよ。さすが隊長、話がわかる人だ」
「まぁ兵の息抜きも重要だからな。ただし殺すなよ、まだ価値はある」
何だろう……何の話だろうか……私達を助けに来たのではない……?
扉の外からガラガラと何かが崩れる音が聞こえる。
何人もの男の声。
金属の擦れる音。
大きなものが倒れる音。
そうした喧騒がしばらく続き、やがて収まった頃。扉は久しぶりに開かれて、外界の光を地下室へと招き入れた。
「大丈夫か?我々はルタリア王国から参った聖典騎士団だ。貴公らを救出に来た。もう安心するがいい」
声の大きな男が開かれた貯蔵庫の入り口から、中の者にと声を掛けた。
聖典というのは女神教の有り難い教えを記した、書物のことらしい。
彼ら聖典騎士団は隣の大陸に存在する女神教ルタリア派の頂点、法王の指示の元にこの地に使わされた布教部隊という話だ。
私を始めとした貯蔵庫に閉じ込められていた人達は、聖典騎士団と名乗る者達によって救出された。
みんな一様に疲弊していたが、なんとか無事に生き残った。
そうだ……集落のみんなは、どうなったんだろう……
その問を投げかけるべく、休憩場所となっている箇所から立ち上がり、私に答えを教えてくれる人を探した。
そして見てしまった。
おぞましいものを。
瓦礫の中から無理やり引き摺り出される集落の者の遺体。
身に着けていた金を始めとした装飾品を、乱暴に奪い取っていく。
金は精神を安定させ、魔術の操作力を引き上げる有効な触媒であるため、集落の成人した者なら誰でも身に付ける重要で希少なものだ。
それを獣のようにむしり取っていく男たちに、私は恐怖を覚えた。
装飾品を奪った遺体は広場に集められる。
すでに多数の遺体が、山のように積み上げられていた。
「獣脂をもっと持って来い。燃え残らんようにな」
腹の出た大柄な男が周囲の者に叱咤を送る。
金属の鎧を着込んだ者達とは違う、キラキラして飾りがたくさんついた白いローブをまとった中年の男。
「このような埋葬の仕方、本当に宜しいのでしょうか?女神教の教えに反するのでは……」
「馬鹿者。こいつらは異教徒だ。そのような者に女神教式の埋葬に、わざわざしてやる道理がどこにあるというのだ。それとも彼らは死の間際に女神教に改宗したというのかね?それを貴様が確認したと?」
「い、いえ……そのようなことは」
「くだらないお喋りで私を疲れさせないでくれたまえ。私は国王陛下直々にあらゆる権利を委任されてここに立っているのだ。その私に意見するということは、陛下のお考えに意見するということに等しい。国家反逆罪を疑われても致し方のないことだと理解しておるのだろうな」
「も、申し訳ありませんっ、ラズン司教様」
司教と呼ばれた男のもとに、助けられた老人の1人が這い寄る。
力のない弱々しい動き。
「この度は、私どもの集落をお助けいただいて……感謝の言葉もございません」
手が届きそうなほど司教に近づき、地に頭をつけて深々と感謝を示す。
私達にとって相手に最大限の敬意を示す、挨拶の一つだ。
司教と呼ばれた男は感情の篭もらない表情で老人を一瞥する、そして徐ろに懐から何かを抜き取りそれを老人に向けた。
パンッという乾いた高音が響いて、老人の頭部が弾けた。
「汚らしい異教徒が私に許可無く近づくんじゃない。くそっ、陛下から頂いた聖者の外套が汚れてしまったではないかっ。おい、誰か魔術師を呼べ。洗浄を使えるやつだ。はやくしろ!ええい、こんなことで希少なミスリル製の魔弾を1つ消費してしまうとは。おい、そこのお前、はやくこのゴミを片付けろ。グールにでも成られたら臭くてかなわんぞ」
私は目の前で起きている現実味のない光景に、声も出せずにただ立ち尽くしていた。
ついこないだまで母がいて父がいて、集落の幼子たちの面倒をみながら毎日平和に暮らしていた筈なのに。
一体どうして、こんなことになってしまったんだろう。
わからない。何も考えられない。
頭が何も働かなくなってしまったかのようだ。
山積みとなった集落の者達の遺体。
ごうごうと炎の柱を上げて、煙を撒き散らしながら燃え盛る。
熱風がここまで届くほどの強烈な炎。
天まで焦がすほどの巨大な火柱を見て、私はもう全てが終わってしまったんだなと、やっと気がついた。
「ああっ、やめてくださいっ……お願いします。助けて……」
「うへへへ。亜人ってのも中々悪くはないな。男好きしそうなイイ体してるじゃねぇか。それにこんな露出の多い服装なんだ。そういうことなんだろう?」
「そんな、違います」
「確かダークエルフが露出の多い服装なのは、刻印術って奴を肌に施してるからじゃなかった……かな?」
「ああん?なんだそりゃ。まぁどうでもいいや。お前参加しないなら、気が散るからどっか行けよ。俺は今そういうおしゃべりする気分じゃないんだ」
「勿論参加するよ。他の女はみんな取られちゃったし。問題無いだろ?」
「下は俺が先だぞ」
「わかった、わかった」
どこからか聞き覚えのある声が聞こえる。
私はその声に導かれて、所在を探し彷徨った。
そして騎士団の天幕の1つから、その場所を見つけた。
「お母さん?やめてっ、お母さんに酷いことしないで!」
裸の男が立ち上がる。
片手には、この大陸では滅多に見ない鉄の剣。
「何だコイツのガキか?まったく、うるせえなぁ。……俺は邪魔されるのが一番ムカつくってのによぉ」
怒りの形相を浮かべて、剣の柄を握る。
私は恐怖で体が動かない。
「メリッサ?貴方がどうしてここに?やめて、その子に乱暴しないで!私が相手をするからお願い――」
「……お願いします。だろ?」
「お、お願いします……」
現実とも夢ともつかない地獄のような光景を、私はどうすることも出来ずにただ静かに眺めていた。
終わりのない途方も無い時間を、いつまでも、いつまでも。