風砂の都市
これは、最初に書いた小説です。20年以上前にあらすじを考えて、時々引っ張り出しては手入れをしていました。だんだんと、感じ方や伝えたいことが変わってしまいましたが、最初に考えたのが10代でしたのでそのままの所と手入れした所がなじまず、はっきり言ってとても古い雰囲気の話になっています。それでも目を通してくださる方がいらっしゃったら大変うれしく思います。
その男は言った。
「世界のすべては我々の掌の中で、整えられたものなのだよ。」
白一色で眩しいほどに統一された室内で、対峙する黒衣に銀髪の男に。
銀の髪に陶器のような白い肌、光の加減で何色にも染まって見える瞳の色が印象的な、その男の顔は強ばっている。
銀髪の男は答えて言った。
「ならば、この与えられた時を如何様につかっても、あなたは全て治めることができるのですね。」
その男は、非常に稀なことであったがうっすらと笑みを浮かべて、
「その通りだ。」
と言った。
ほどなくして、銀髪の男は、白亜の街を去った。
風は穏やかに西から東へと流れている。まだ夜も明けやらぬ暗緑色の海面を重たげに揺らしながら。
ここは、最寄りの港町からは少し離れた海岸である。立ち寄る船はただ一艘。名は定期貨物船の「ニケ」。貨物船ではあるが船賃を出せば一般客も乗せる。収容人数はさほど多くはないが、煩雑な手続きもなく乗れるので、庶民や旅芸人、または急ぎの旅客には人気であった。
港町には寄らない。正規の客船との取り決めでもあったが、船長としても入港料が高いので避けていた。もっともそれは表面上の理由で、ここ数年のアシュアス大陸の治安の悪化が理由の大半であった。三年前に新王が立ってからというもの、治安は目に見えて悪化の一途を辿っている。とはいえ、この時代、人も物流も大陸内は馬が主流、大陸間は船が唯一のルートであり、外界を見、見聞を広めるのは一般的なことではなかった。大衆は他者の治安と比べる術を持たない為に、そんなものだと受け止めている。
そんな人々をしても、このニケの知名度はかなりのものだった。世界の海を統べる、海商の王との二つ名までも冠されるようなった。船長は人嫌いと言われており、容貌魁偉な大男とか、影をまとった陰気な子男だとか容姿については噂は様々だった。
そして、この港はニケの為に作られたものであり。
倉庫や荷物番の常駐員もいる、といった、必要なものはそろった状態で維持されている。
近くの村から消耗品などは調達を済ませ、停泊も半日ないしは1日のみ。
間に合うものだけ、客として乗せる、という仕組みだ。
「なんで、こんな船に乗ることになったのかしら・・・。」
港というには簡素な、もやいが一つ、高大な倉庫が一つきりの、淋しい景色に不似合いな、華やかな美女はため息をついた。
「彼って・・・、なんて仕事運ないのかしら。」
七色のリボンを潮風になびかせながら、紗羅は船へて近づいて行った。
いつものことだったが、船内はちょっとした騒ぎになる。
この時代、呪術師は珍しくはなかったが、各大陸に5人しかいない最高位称号時読の呪術師、虹の紗羅の乗船である。
人が聞いたら訝しむようなことであったが、本人曰く「船のガードのメンテナンスが必要」なのだそうだ。しかも「なるべく頻繁に」だそうである。
この世界の常識として、人の集まる施設にはほとんど「ガード」がある。
一師相伝が呪術師の決まりであり、呪術師はすべて「結社」に属するよう定められているが、中には闇にもぐって暗殺などの請負をしている呪術師くずれもいて、その対策が講じられているのだ。「ガード」は大抵が何らかの呪いのこもった品であり、それを設置することできる高位の呪術者は時読み、だった。
それより下位の呪術者はその品の簡単な維持が出来るくらいで、その役割は常駐するものがチームで請け負うのが常である。
この船に派遣されているのは颯という、1年前まで紗羅の部下だったものだ。
世間の評価はすこぶる高い颯なのだが、なぜか出世からは外されている。この船への派遣もそうだ。本来ならもっと無名の、現場チームが交代で請け負ういわば「遠慮したい役」だ。だが颯ひとりが派遣されている。紗羅にとっては本当にわからない人事だ。
だから年に何回も、彼女はこの船を見に来るのだった。なにか腑に落ちないし、颯には中央の仕事に戻ってきて欲しい。一緒に仕事のできる人間も、育ってはきているが、・・・正直肩を並べるには心もとない。船長に会ったら、交渉して、颯を移動させて、と考えているがなかなか面会できない。大体が補佐官―副船長止まりで1年が過ぎた。
紗羅が船へと近づきながらこんなことを考えていると、颯の黒衣が甲板に見止められて、彼女はペンダントを無意識に握りしめた。颯と同じ、緑色の石のはまったシンプルなペンダントを。
一方その頃。船の停泊している姿をひょいと木にでも登れば見つけられそうな近くの林の中で、ひたすら走り回っている少年がいた。
「なんで!着かないんだよー。」
と言っては立ち止まり、見渡してはまた走ってる。
褐色に日に焼けた小麦色の肌をしている。瞳の色はこの地方にはもっとも多い黒だ。
黙って佇んでいれば美形の部類には入る顔立ちだが、言動の幼さからその点は目立たない。
「!地図があったはず!」
慌てて背中のバックに手を伸ばすが、空しく宙をつかんでしまう。
「な!なんで!ここに入れたのに」
すると頭上からクスクスと笑い声が降ってきた。
「なんてまあ。隙だらけですね?」
と言われてやっと、そんな近い場所にあった人の気配に気づいた。
「これで、私があなたの刺客だったら、即死ですね、」
と茶化すように言って少年の前に降り立つ。
柔らかな新緑の葉がちぎれて、数枚空に舞った。
「あれ?私と同じくらいかと思ってました・・・。意外と大きいですね」
その人物は、しばらく思考停止に陥ってしまうくらい鮮やかな、カワセミ色の外套を着ていた。軽く仰向けになって仰ぎ見ても、落ちないくらい目深にかぶったフードからわずかに口元が見える。唇が艶やかで赤みがさしていて、顎はとても華奢で、消え入りそうに白い。思わず見つめてしまったバツの悪さから、声が少しとげを含む。
「何か用?っていうかこんな朝早くにこんなところで一人って・・迷子?」
「迷子?それはあなたでしょ?港、すぐそこですよ?街道から外れたところで大きな声がしたから、ちょっと来てみたらまあ。」
そういいながら手元の地図を覗いている。
「その地図!」
「ああ、あなたのです。こんなにいい地図持っていながら、よく迷いましたね。」
「人の物を勝手に拝借するような人間には言われたくない」
「はい、お返しします。お詫びに、港までご一緒しますよ?」
どうせついでですし、とその人物は言う。
「申し遅れました、私はサラナー・ラクラスと申します。」
「俺は・・・ライ。」
自己紹介ならフードも取れ、とは内心思ったが、こちらも姓は名乗れないのを突っ込まれると厄介なので飲み込んだ。
「じゃ、行きましょうか。かなりぎりぎりですよ?」
そういって、サラナーは背を向けて走り出した。
「サラナーの、目的地は?」
「目的地ですか?ワイノスの、砂漠が見たくなりましたので。」
「砂漠観光?物好きだね!俺はもうこりごりだね砂漠なんて。」
駆けながらの会話である、2人とも息が弾む。
「行ったこと、あるんですか?一面砂って本当ですか?」
「まあね。砂しかないよ。ルートはずれるとすぐ死ぬよ」
「いったことあるんですか?本当に?」
「なんだその疑いの目は!」
そんなことを話しながら、走る。
ライは南から、砂漠を2つ超えてきたこと。あるものを探していて、各地をまわる予定なこと。
サラナーは北から、街道を辿ってここ大陸一の貿易都市にきたこと。砂漠へは行かなくてはならないが旅は今回初めてとのこと。旅銀があまりないこと。
林を駆けるうちに日が昇ったようで、あたりは徐々に明るくなっていく。明滅するような木漏れ日の中を駆けていると、ふとカワセミ色の外套がひときわ大きく風にはためいた。上質な素材で出来ているのか、胸騒ぎを覚えるくらいの光沢が軌跡を描く。新緑を透かすひときわ強い、白い朝の光。鮮やかな青。林を抜けていた。思わず瞬きをした次の瞬間。もうサラナーの姿はなかった。思ったより港に近い今の立ち位置から、船影が聳えている。そして乗船口には七色に装った、紗羅。
「!」
こんなところに、本当にあらわれるなんて正直思っていなかったのだ。
有名な呪術師が。
幸い、近付くに従い彼女は反対方向を向いていることが分かった。しかも熱心に話し込んでいる。好機とばかりに船内に滑り込んだ。
「…っと。」
書類を抱えて目を通している大柄な男にぶつかりそうになり、慌てて謝って通り抜けようとしたところ。
「待て。君は乗客か?」
と書類束で目の前を遮られた。
「は、はい。」
見上げるほどに体格の良い男だ。着古したズボンは元が何色だったのか解らないくらい、さまざまな色に染まっては退色したようで、部分によって赤、緑、青とさまざまな色目を載せている。そんなになるまで破けないなんてどんな生地だ?と思わずしげしげと眺めていると。
「悪いが、荷物が多くて客室はあまり設けられなくてな。港で他をあったってくれ。」
「へ?…ええ!」
間の抜けた大声を思わず出してしまった。
「そういうことだ。」
「え、ちょ、ちょっと!」
はっとして振り返ると、声を聴きつけたのかこちらを振り返って見ている黒衣の男と目が合った。黒髪に黒衣、ニケにいるといえば間違いない「癒し手の颯」だ。ならばこちらからは死角になっているが向かい側が紗羅。
颯は信用できるよ。とあの人は言ったけど。でも紗羅のことは何にも聞いていない。ここはあまり目立たないようにしなければ。
「あの。どうしてもこちらに乗せて貰いたいんです。雑用でも何でもします。」
声のトーンを落として、颯を伺うともうこちらへの視線は消えていた。紗羅との話に戻ったらしい。
「聞いた。副船長!おれ、こいつもらうわ。」
言い終わるや否や、横合いからするっと腕が伸びてきて、首に絡みついた。
「積荷の作業が一段落したら調理場に寄越してよ。あ、キミ料理できる?」
腕の主は副船長と同じくらいの身長で、華奢ですらりとしていた。淡い褐色の髪を後ろで束ね、コックコートを着ている。肌は日焼けしておらず薄い黄色味を帯びている。瞳は空色だ。
「料理は基本は出来ます。」
「よし。いいだろセルゲイ。毎度人手が足りないんだよ。真面目に働くなら目的地まで乗せようや。」
セルゲイとは副船長の名のようだ。
「ハザト。…お前その勿体無がる癖どうにかしろよ。」
「だって折角の労働力を、無碍にするのもどうかと思うぜ。大体調理場はできるやつが少ないんだよ。」
ハザト、と呼ばれた男はそういうと屈託なく手をライへと差し出した。
「そういうわけだから。ま、俺は無駄飯食いが一番嫌いで、さぼるやつは鮫のエサにするから!よろしく。」
ヒク、とライの頬がひきつったがそれには気づかなかったらしく、調理場は誰に聞いても知ってる、食堂の横だから!と言い残すとさっと立ち去ってしまった。
「…サメ?」
固まってしまったライに、副船長・セルゲイが声をかける。
「ま、気にするな。せいぜい無人島にけり落とすくらいしかしたことはない。」
「え。」
とますます青ざめるライに目をやって。
「冗談だよ。あ、そういえばお前、名は?」
声に低さや立ち振る舞い、日に焼けて赤褐色になった肌、奥まった黒色の瞳に彫りの深い顔立ちから、親父くらいの年かと思っていたライはおや、と思った。笑うと若い。
「おれは、ライ、って言います。歳は一七、ハウェイナ出身。」
「ハウェイナはいいところだな。俺は、セルゲイ・アーカム。副船長、二十八だ。」
そういいながらも足は動かしたままだ。
「さっそく、積荷の整理をしなけりゃならん。」
ライも慌てて付いて行く。
頭には色あせたバンダナ、パンツと同じく日に焼けた退色したシャツはぼろぼろだ。袖なしかと思ったがよく見ると袖口に千切ったような跡がある。
装飾の類は一切なし。それがかえって見事な体格を際立たせている。腰に剣を佩いているが実用的な形をしている。というか。見覚えがあるような形だ。
(親父の…に、似てるな?)
しかしそれはうかつには言えないことだった。父の名は特に。
そう思ったすぐに、事件は起きた。
船内倉庫に向かっていたはずが、すっとライのまわりが陰った。
「見つけた。」
地を這うような声がした。耳元で。
「なんてことかしら。これがあの高名な颯の守護する船なんて。こんなにあっさり侵入できるなんてね。」
ライはとっさに腰の短剣に手を伸ばそうとした。だがぴくりとも体が動かない。
「さあ、いらっしゃいな、讐至刹王の御許に。」
ライは不意打ちに困惑しつつも、必死にセルゲイに声をかける。
「副船長!悪い、術師をここに連れてきて!迷惑かけてごめん!」
そばにセルゲイの気配は感じる。だが五感は徐々に遠のいていく。じわじわと、手足の重みが増し、床に飲み込まれるようなぐにゃりとした感覚が増す。
「迷惑?あははそうだねえ。あんたを乗せたのが、運が無かったねえ。この船もタダじゃあすまないよ。」
重みにつぶされそうな頭をもたげる。
「…な…んで?」
ぎりっと唇を噛み、痛みでなんとか意識をつないだライは、
「われ、求める、出でよ剣の守り人!」
と必死に声をしぼりだした。
「…無関係だろうこの船は!いつもそうだお前らはっ!」
と言うやいなや、剣から白銀に輝く光があふれ出、辺りを満たした。
(用件は?)
そう、かすかな、しかしはっきりと頭に直接響く声がした。
「この気色悪いのを、思いっきり吹き飛ばして!」
(了解した。)
そう聞こえた。と思いきや、あっという間に場に光がもどった。
「大丈夫か?」
セルゲイが柄に手をかけてこっちを見ていた。
颯はいつの間にかすぐ横に来ており、
「この御仁が、なにやら術をつかったようじゃが…?」
と顔を覗き込んでくる。
「少し、口を切っておるな。船医室に連れてゆこう。」
そう言うと、大きな黒いマントで姿を隠すようにして、
「紗羅どの。ガードの確認はお任せいたす。」
と顔だけ振り返ってその場を去った。
船医室にて。
「ではそこもとがライ・ゼンドーか?」
といきなり尋ねられた。
「ハウェイナで耶守理宇に助けられた?」
「はい…で…あります?」
ライはよくわからない語調で語りかけられたので、とりあえず合わせようとしたのだが。
「かたくならずとも好い。普段の言葉で構わぬよ。某のことも颯、でかまわぬ。」
と軽く笑われてしまった。
近くで見ると颯はとても整った顔立ちで、まだ若くて、なんというか昔幼馴染の少女の持っていた流行の役者の絵姿のようだった。しゃべり方はとても変わっているけど。
「話はだいたい聞いておるよ。しかし先ほどは妙じゃった。ライ…と呼んで構わぬかの?」
「はい。」
頷くのを確認した颯は先を続ける。
「ライは呪術者ではないのじゃろう?」
「もちろん。」
「ではああ易々と侵入を許すはずがないのじゃが。」
そういって簡単に説明してくれたのは、おおよそこういうことだった。
船のガードは、「呪力均衡型」といい、一定以上の呪術者が所定の手続きを踏まずに入り込むと一端ガードが無効化してしまうそうだ。
過去は「呪力はすべて弾き返す」形のガードが主流だったが、そうするとちょっと力のある護符なども隔離せねばならなくなり、現場では手続きが煩雑になり過ぎて不評だったためだ。また、ちょっとしたまじない程度でも過剰に反応したり反響しあったりと、いろいろあって改良したのだそうだ。
「今回は、ガードが外れるほどの呪術者は乗ってはおらぬ。で、ライの追手は遠隔操術を使っていたが、紗羅どのの術を破るほどの呪術師で、このような不法を行うものはおらぬ。」
「あ、ガードはもう大丈夫かな?」
「紗羅どのが直しておるよ。残留したものも無いようじゃったし、大した手間にはならぬはずじゃ。」
「良かった!おれ、とりあえず調理場行ってくるよ。雇ってもらえたのに早速迷惑かけたし。」
それを聞いて。颯は真面目な顔をして。
「一つだけ確認しても良いかの?」
とまっすぐ瞳を覗き込んで言った。
「ライは、剣に誓って、不正、不実は働いてはおらぬな?」
これをライはまっすぐな瞳で見返して、
「…剣と父母と、自身の先霊にかけて誓えます。間違ったことはしていません。」
そう答えると、一礼をして出て行った。
「さて。ではライ。今朝の件について、船長に説明してもらおうか。」
とセルゲイに声をかけられたのは、やっと船内の夕食の給仕、片付け、翌日の仕込みも終わった日付の変わる寸前だった。今朝といえば、あの刺客のことだろう。それにしてもなぜ今の時間に?普通あんなことがあれば有無を言わさず船から降ろすだろうに、厨房ではライは普通に受け入れられたのだった。
そのことを歩きながらセルゲイに問うと、
「ハザトがお前の働きぶりを気に入ったと言うんでな。やつが言うには『料理を一心に手掛けられる人間に悪人はいない』んだとさ。」
と笑って言うのみだ。
「でも、おれが乗ってるって王にばれたのはまずいだろ?」
「まあ、それも船長にかけあってみるんだな。」
というとセルゲイは扉を開けた。
「船長、ライを連れてきました。」
そういってドアを開けたそこには。
見たこともないような美形が佇んでいた。
黒いコートに白いシャツ、装飾品といえば両腕の銀の腕輪だけという、シンプルないでたちだったが、顔立ちが
(女のひと?)
ライは第一印象でそう思った。
絶世の、と形容してもまだ足りないような、とにかく想像すらしたことないレベルの顔立ちだ。白い肌に、角度によっては何色にも染まって見える瞳、髪。今は部屋の照明によってオレンジがかっている。
「はじめまして。この船の船長、フィーザ・ダイナスだ。」
声音は柔らかいアルト。フィーザ、とは女の人には変わった名前だな、とぼんやり思った。
ぼうっとしているライを見かねて、隣に立っているセルゲイが小突いた。やっと我に返る。「はじめまして。このたびは大変迷惑をかけてしまってすみませんでした。ライ・ゼンドーって言います。」
「…ゼンドー?」
横に立っていたセルゲイがいぶかしげな声を発する。
ライは内心しまったと後悔したが、考えてみたらいまさらか、と思いなおした。
「ゼンドーって、ひょっとして?」
フィーザが相変わらずの穏やかなアルトの声で言う。
「2年前の王城襲撃事件の、手配書で見た名だ。人相書きはなかったな。で、名だけが出回っているから却って記憶に残ったんだが。」
危うく船を破壊してしまうところだったのだし、この場で全て話すのが筋だろう、とライは思っていた。
「その事件、首謀者は確かに俺です。でも、一切間違ったことはしてないです。」
話すと長くなりますが、とライは断りを入れて、口を開いた。
2年前、故郷ハウェイナは王城から1日程度の距離に位置するものの、流通のメインルートとは真逆の奥まった片田舎だった。
父、ヨリュウは腕のよい刀鍛冶で、とはいえ激しく気分屋かつ職人気質で、もっぱら母の薬師のヒナヒが生計を立てていた。
そんな父の評判は、知る人ぞ知る程度であったのだが、どこからか聞きつけたのかある日王の使いと名乗る横柄な男が来ていった。王の為に刀を作れと。
即答で父は断った。とても王に献上できるような立派なものではない、と、初めて父がへりくだるのを聞いた。振り返ってみれば、それは家族を守ろうとしてくれたんだなと思えるが、当時は頭を下げる父が情けなかったし、悔しかった。
「・・・・。」
その後のことは、2年の放浪の間に整理はついて、口に乗せられるようにはなったが、やはり言いよどんでしまう。
「どうせ、言うのも憚られることをしかけられたのだろう。」
とフィーザは言った。
目が合うと、落ち着いた表情で見つめ返された。
それで、ああ、この人には話して良いかと思った。
「しばらくは、せっつくだけだったんだ。でも当時はあの王も政権握りたてで、いらだっていたみたいで。刀鍛冶ひとり動かせないという風評が気に障ったみたいで。」
で、母がさらわれた。夜盗の類と見せかけていたがあからさまだった。身代として刀が要求されたのだから。母はライが剣の師匠の夷庵とともに奪還したが。
それだけでは終わらなかった。母は病をえていた。どんな手段を講じても母は悪くなる一方だった。当時、高名な呪術師が近所にいたのだが、彼にも治せなかった。
そんな中、父が城に呼び出された。
身内の方に不幸ごとがあったそうだが。わしにできることがあるならなんでもしよう。
あからさまな脅迫。だが父と母は折れなかった。
数日後母は亡くなった。時読みの耶須理宇は母の意志を継いで、正体不明の母の病の原因を探ると言ってくれた。母は末期の壮絶な苦しみの中でも、敵打ちなどは決してするな、それよりもこんな方法で、自分の欲求を満たそうとする王の犠牲を増やさぬため、この病の薬をさがして、と言い残した。
「待て、じゃあなぜ城を襲撃したんだ?」
セルゲイが聞いてきた。
「母は薬師だった。時読みにもわからなかった。なら薬は王しか持ってないと思って。」
母も亡くなってしまった後であれば、王城の警備も薄いのではないかと考えたのだが。協力者であった剣の師夷庵の因縁の相手であったらしい王を目にして、彼は怒りにまかせて城に火を放った。
その後、師とは火事場の騒動の中に、離れ離れになり。
師の行方は知れない。
で、王城襲撃、放火犯とされて手配されてはいるが当時一五歳のライに城内まで侵入され、放火された顛末を詳らかにはできず。表向きは父とライの共犯とされているのだ。
「…これが、俺の話せることすべてです。」
そう言って、流石にライはフィーザの顔をうかがった。もう直ちに放り出されるだろうなと観念しつつ。だが、当の船長は眉一つしかめずにセルゲイに言った。
「しかし。妙な話だな。時読みクラスの呪術師ならば大抵の人間は知っているはずだが。耶須理宇?なんて聞いたこともない。セルゲイ、知っているか?」
「いいえ。初めて聞きましたが」
「そうだな、颯にも後で聞くとしよう。」
きょとん、としてライは二人のやり取りを聞いていたが、
「迷惑かけてしまったので、次の停泊地で降ります。巻き込んですみませんでした。」
と船長に声をかけた。
「迷惑?」
船長はそこでちょっと微笑んだ。
「何も問題ない。身元調査した人間を乗せるのは我々でなく正規の港に入る船だ。」
セルゲイの方に目で合図すると、彼が引き継いで説明してくれた。
「この船は、特殊な航路を使っているんだ。開拓したのは先代のニケ号の船長。相当の偏屈だったが俺とフィーザは気に入られて、船と航路を譲り受けた。で、どの船より早く、失われた海域のヘリまでの航路を行ける。もっともそこまでは、俺たちも行かない、最近はワイノス港までで折り返ししているが。」
「失われた海域?」
ライにとっては初耳だった。
「船乗りの間では、口にするのも忌まれているから陸のものにはまず伝わらないが。世界の果てと言われている。…詳しくはまた、興味があったらハザトにも聞いてみるといい。話が逸れたが。我々は、乗せたいものを乗せて商売している。敵も多い。独立独歩、それがこの船の流儀だ。」
フィーザはその説明に、一つ頷くとライにまた問いかけた。
「あとは、ライ、キミがなんで呪術師までも退けられるのか知りたいのだが。」
「それは、剣の守護をもらったから。…親父に特別に。」
そこで、不思議そうになぜかセルゲイを見た。
「セルゲイのも、付いているんだろ?同じ気配がするけれど。」
問われてセルゲイはぎくりとしたようだった。
「それは…たしか通りすがりに貰ったと言ってなかったか?」
そこで呆れたように言ったのはフィーザの方だった。
「酒に弱いくせに、そうは見えないから正体不明の厄介事を持ち込むのだ、この有能なセルゲイ副船長は。」
意外な弱点はあるものだ。
「え?じゃあ、セルゲイは覚えてないのにそれ貰ったってわけ」
貸して、とライは手をのばして刀を吟味しはじめた。
「…剣の守護の名前、聞いたんじゃない?それも覚えがない?」
「あいにく…。」
「聞いても無駄だ。セルゲイは本当に酒に酔うとダメだから。」
そこで柄を確かめると、ライの顔が一基に険しくなった」。
「これ…。」
名前わかった。とライはセルゲイに刀を返した。
「持って。そして、今、誓えばいいよ。復唱して。セルゲイにはカクシナはないよね・」
「カクシナ?」
「忌み名ともいわれるよ。本当の名前」
「いや。ないが」
そこで少しのためらいが見えたがライは構わす、
「じゃあ、自分の名前に続けて言って。ここに命数の尽きるまで、この刀と命運をともにするものである。私はそれを、御柱に誓う。
「刀の名は一回しか呼んではいけないから。」
と言い、ライは懐から紙とペンを取り出して筆記で教えた。
「俺がこの刀、っていった箇所で、この名前を呼んで。」
フィーザも興味深そうに
「初めて見るな、こんな儀式。」
と見守っている。
「じゃあ。…セルゲイ・アーカム、ここに命数の尽きるまで、絶影と命運を共にするものである。私はそれを御柱に誓う。」
(了解。我、絶影はセルゲイ・アーカムを主とし、その命運を共にするものなり。)
「…はじめて聞いたな、剣が喋るなんて。」
フィーザは感心した様子でそう言った。
「で、…あの、やっぱり、その剣どこで手に入れたかなんて、覚えていないって訳ですよね?」
ライは複雑な表情でそうセルゲイに問いかける。
「そうなんだが…。そんな裏町には行っていないと思うんだが。どこで託されたんだろう?」
「無駄だ、セルゲイ。酒の上でのことは思い出せたためしがないだろうが。」
フィーザの醒めた視線が恐ろしい。
「ところでライ。セルゲイの剣を見たことがあるのか?」
問われてライは言い淀んだ。セルゲイとフィーザを交互に見てからつぶやくように。
「これは、母が亡くなってから父が作った最後の剣です…。」
と言った。
「父とは、王城襲撃の夜から会っていません。接触したら危険も増すだろうって、耶須理宇が助言してくれて…で、以来不定期に連絡を取り持って貰ってます。でも最近まったく連絡が無くて。」
「そうか。それは、重要だな。ちょっと待ってろ。」
そう言うとフィーザはこめかみに手を当て、すっと目を閉じた。
「ああ、セルゲイが剣を手に入れたのは百六十日前のことだ。確かワイノスのフェスタという町だ。今回の航路の最終地点だ。」
事もなげにすらすらと言うフィーザをあっけにとられて眺めるライに、
「船長の記憶力はけた違いだからな。」
となぜかセルゲイが誇らしげに語りかけてくる。
「まったく。たしか颯と一緒に出たかと思ったら、妙な女といっしょにかえってきた日だった。しかもその女を颯と間違えて。あんな妙な女と知り合いになりたくもなかったが。」
フィーザの視線に棘が混じる。
と、突然船が大きく揺れた。
昼間の太陽はこの上なく眩しい。
刺すような…という表現ですら徹夜明けの目にはまだ生易しかった。
ここは、ジェプトという町だった。プエルタ大陸の一番の港町、だそうだ。
このニケ号の航路のちょうど三分の一の、寄港地なのだそうだ。
「新入り!昨日は災難だったなあ。ま、一段落ついたみたいだから観光でもしてな?って言っても無理か。」
ハザトが甲板の柱にもたれて話しかけてくるのを横目に、ライもぐったりと手近な積荷にすがって町並みをうかがう気力くらいしかない。
昨夜。船が激しく揺れたかと思うと、突然猛スピードで疾走しはじめたのだ。
夜間は視界が聞かないため、帆船は帆を畳んでいるので進むだけでも異常なのだが。
まるで見えない綱でも舳先につけられたかのようだった。
夜勤の者が気付いて船長室に飛び込んできた。
その時には、揺れが治まってはいたし乗客も起き出したりはなかった。結論としては船長が一言、
「起きている人員だけで、取り合えず非常用のボートの準備と非常食の確保を。」
つまりは無駄に騒ぐなという指示で。
セルゲイと夜勤の数名はボート準備に。
まだ起きていたハザトとライは非常食をまとめてボートにつ詰め込んでいた。
ちょうど朝日がさす頃、陸が見え出して寝ず番のメンバーと入れ替わりで起き出した船員が唖然とする間にも、船は進み入港を終え。
ニケ号は、とり急ぎ、予定よりも一か月以上も早く到着してしまった積荷を引き受けてくれるかどうか交渉に向かった船長と腹心意外の船員を乗せたまま浮かんでいるのだった。
「ハザトさん…船長って見かけによらずタフですね…。」
「お前さん、船長の前で見かけについていっちゃいけないよ?命が惜しけりゃ。」
ハザトが恐ろしげに辺りを見回す。
「とってもよく解るある話をきかせてやろう。」
それはまだ、船長が乗組員を集めながら出資者も募っていたときの話。
セルゲイとフィーザはこの町、ジェプトの豪商に話を持って行った。
ジェプトは織物、茶葉、香辛料、金脈、鉱脈が豊富で、商売の盛んな地だ。だが一方で一夫多妻制もあり、金持ちは妾を村ができるほどの規模で囲っている。
そんな文化圏にあの船長。
駆け出しで、提供できるものは可能性、交渉の持ち札は少ない。
そしてあの美貌だ。
相手の商人は言った。
「なにも危険な海に出ずとも、一国の王妃並みの贅沢をさせてやれるぞ。」
今にも寝所に引きずり込みそうなあからさまな態度と言葉に、
「時間の無駄でした。私は性技を売り込みにきたのではありません。人間の言葉を解さないようですので、失礼します。」
と涼しい顔で言った。
「あなたが人の言葉を解するのであれば、私の来訪目的がどれほど貴方に富をもたらすか、お分かりいただけたでしょうに、残念です。」
そういうと、渡していた書類をぱし、と取り上げて、優雅に一礼をして去って行ったのだった。
「俺も居合わせたんだよ、結構長い付き合いなんだが…あれは恐怖体験歴代三位だ。ちなみに二位と一位も船長がらみだ。人の本拠地でそこまで言うかっての。」
確かに恐ろしい口上である。
「でも、どこかの姫かと思ったよ。正直言って。」
「うん。おまえそんなこと言ってみろ。鮫のエサより恐ろしい目に遭うぞ。」
あの人は女扱いされるのが一番嫌いなんだよ。で、いつも副船長がついているし無体を働くやつも蹴散らされるし。というか、俺も知らんよ、船長の性別。
「そうなあ。あの人に交際でも申し込んだら教えてもらえるんじゃないか?言ったように、まあ死ぬ気でやってみるといい。」
それはちょっと違う。命を懸けてまでは、知らなくていい。
「うん。ま、どっちでもいいや。いい人だし。」
そんな話をしながらふと、サラナーを思い出した。ちゃんと船に乗れたんだろうか。
その時。視界の隅にあの川蝉色のコートを認めた気がした。間違いない。港を町の方へと進んでいる。
「ハザトさん、おれやっぱり観光してくる。」
そういうと、ライは港に向かった。
「ああ、ライ。間に合ったんですね」
サラナーは後を追ってきたライに驚きもせず、まるで待ち合わせていたかのようににっこりすると、頭だけ出していた外套をするすると脱ぎ去った。少し覗いていた口元から、肌が白いなとは思っていたが。目の前にいるのは大層な美少女だ。
生成りの質素なワンピースから伸びた手首も細くて白く。にっこりほほ笑む顔は小さくてかたどる髪は淡い金髪。目は青く、鼻筋は控えめに形良く。
眠気は瞬時に引いてしまった。
「あれ?でも、目的地はワイノスって言ってなかったっけ?」
「よく覚えてましたね!」
「昨日聞いたばっかりだろ。さすがに忘れないよ。」
ちょっと間が空いて、サラナーは返して言う。
「ここは観光でちょっと。叔父の店があるので顔出しも兼ねてです。」
「そうなのか。でも珍しいな。おれのところじゃ、親族は固まって暮らすもんだったけど。」
「叔父は、変り者なんです。…ここにはちょっと詳しいですよ、よかったら案内します。」
まず、叔父のメゾンに行かなくては、とサラナーは言う。
「?店の名前?何屋やってるの?」
「まあ、大きな服屋です。」
メゾンという名の服屋なんだな、とライはついて歩きながら看板を探してみる。
人ごみの中でも、サラナーの見事な金髪は目立つ。見失いはしないだろう。
そう思ってついて歩いていたが、数歩進んでサラナーのほうから歩み寄られたかと思うと。さっと腕をからめてきた。
「え!ちょっとこれ」
「だってあなた、迷子になりそうですから。」
と上目使いで微笑んでくる。
「叔父の店までこうしていましょう。」
腕の柔らかさと、胸に当たりそうな距離感に思わず身を引こうとした瞬間、
「最近、妙な気配が消えなくて。ボディーガードも連れていたのですが、はぐれてしまって。少しの間だけ、こうしていて下さい。」
と早口に囁かれて、身を引きかけて留まった。でも、護衛なんか、居たっけ?
「連れが居なくなったってこと?それ、いつ?」
「船内で合流したんですが、この町に着いて、一緒に降り立って、で、気づいたら一人です。」
「なんだって?」
そんな妙な事、あるものだろうか。
「…何かの間違いで、もう船に戻ってるかも。後で確認しよう。俺、調理場で雇ってもらったし、聞きやすいと思う。」
そう言ってサラナーを見ると、複雑な表情をしている。
「なぜだか、最近こんなことが多くて。居るはずの人が居ない。持っていたものがない。向かった記憶もない場所にいつの間にか居る…そんなことが、なんだか日ごとに増えるんです。で、最近は常に傍らに誰かが居るような気がしてならなくて。」
そう言い募るサラナーはどんどん顔色を失っていって、軽く組んでいたはずの手が痛いぐらいに掴まれていた。
「大丈夫か?なんか顔色も悪いよ、サラナー?」
覗き込むと、はっとしたように瞬きをして、
「あ…大丈夫、です。不思議とあなたといるとその、…記憶が安定するみたいです。いつもならああなってしまうと暫く何もわからなくなるのですが。」
と驚いたように、はにかんだ笑顔を向けてきた。今までの物言いからはちょっと意外な、無邪気な表情とセリフだったので、不意になぜかライは胸苦しくなった。
「ああ。付きました。叔父の店です。ちょっと中でお茶でも飲んでいて下さい。」
そういって促されるままに見上げた店は、まるで城のような外観のきらびやかな建物だった。
それから後は、もうライには何が何だか意味不明だった。門扉(としか言いようがない)を開けた途端にいらっしゃいませ…と左右から優雅に歩み寄る従業員。サラナーは手慣れた様子でお茶をこの方に、と言いつけてさっさと店の奥に消えてしまい。一人残されたライは、そこかしこに飾られた溢れんばかりの花に眩暈を覚えながらテラスに案内され、どうやって持てば良いのか悩むような華奢なカップを睨みながら、かなりの時間を過ごした。やっとサラナーが現れた時には何十時間も経過したような気になっていたが、まだポットからは湯気が立っていたので、実際はわずかな時間だったようだ。
「仕事任されちゃいました。まったく叔父も人使いの荒い…ニケ号の早い入港はもう噂になっているみたいです。どうせ時間は余っているんだろうですって。」
そう言いながら、向かいに座って書類を捲る。見る間に眉間に皺が寄って、
「あのひとは、まったく!ちょっと、貴方も一緒に来てください!」
と言って、勢いよく立ち上がるとライを引っ張った。
出来ればこの建物から今すぐ連れ出して貰いたかったのだが、思いとは裏腹にどんどん奥へと伴われて行ってしまった。色とりどりのドレスをまとった等身大の人形、花、帽子、床一面に広げられた布、間を泳ぐように行き交う極彩色の婦人、対照的なモノトーンの従業員たち。ライは、アシュアス大陸の故郷の村、似たり寄ったりな村々を回った二年の旅を思い出しながら、…世界は広いなあ、とぼんやりしみじみ考えた。
「叔父さん!…何ですこの趣味の悪い冗談!」
いつの間にか立派な部屋に躍り込んでいた。正面にはアシュアスでは王侯貴族しか纏わないであろう豪奢な装束を着こなした壮年の男性が立っていた。
「おお、さっそく揃って採寸に来てくれるとは。いや、いいねえ、お似合いだよ。」
「なっ…。」
サラナーが絶句しているのを横目に、男性はライににこやかに歩み寄ってくる。
「はじめまして、サラナーの叔父の、サルマンと言います。」
「あ。はじめまして。ライと言います。…あの、採寸って?」
「おや、サラナー、説明せずにお連れしたのか?それにそんなにあせって飛び込んできて…。喜んでもらえて嬉しいよ。」
「違います!嬉しくないです。いつもの仕事は?」
いつもの?とライはサラナーを見やったが、
「いつもあんな仕事ばかりではね。前から言っていただろう?折角こうして恋人を連れて来てくれたんだ、これを機会にあんな危険な仕事は廃業しよう。」
サルマンは表情を改めて、幾分強い口調で言った。
「常々、廃業を勧められていましたからその件は分かりますが…なんですこのも…模擬挙式モデルって!」
「だから。ライ君と、サラナーで新郎新婦役を、やっていただいて。新作のウェディングドレスモデルを探していたんだが、縁起が悪いとかでさっぱりなり手がなくて。」
「そんなの!本気で探せばすぐ見つかるでしょうが…。」
ライもまったくその通りだとは思ったが黙っておいた。もう少し成り行きを見守らないことにはフォローも入れられない。
「そうだ、じゃあそのモデル、セットで探すのを仕事にしましょう。」
とにかくとっても嫌がっているようだ、とは充分分かったので、ライも会話に加わってみる。
「えっと、サルマンさん、おれの居た地方でも婚礼前に花嫁衣裳着るのって縁起が悪いって聞いたことがあります。彼女もそれが気になっているんじゃないでしょうか。」
おや、とサルマンがライを見て言う。
「いやあ。うちの姪のことをそんなに気にかけてくれる彼がいるなら問題ない…というか本当に挙式したらどうだろう?」
「叔父さん!!」
悲鳴を上げるサラナーに、さすがにこれはまずい、とライも感じてきた。この規模の服屋なのだから、目立つことこの上ない盛大な祭りだろう。で、我が身はお尋ね者…。
「あの!モデル、希望者を見つけてきます!おれなんかよりもっと…そう!背も高い方がいいんじゃないですか?」
「もっと似合う…ねえ。う~ん。すぐに見つかって、うちのデザイナーが乗り気になればいいけど。」
「じゃあ!ちょっとこの話は保留でお願いします。おれ、目立つのすごく苦手なんです。」
そういって、ライはサラナーを引っ張ってその店を離れたのだった。
「だから。お前本当に命知らずだなあ。死ぬぞ?」
ハザトはライの話を聞いて即答した。
「船長にウエディングドレスのモデル依頼だ?…まあ、確かに時間はあるし、この機会に新しい人脈を発掘したいとか、言ってはいたが…。」
試してみても死なないかも!とハザトはニヤニヤしながら言った。
「まあ、失敗してもこっちは痛くもかゆくもない…いや、お前結構器用だ。調理場的には困る。切られるなら、足にしとけよ!」
という返答だったので、とりあえす、セルゲイに当たってみた。
「…それは…やっぱりやめた方がいい。確かに人脈の点ではいい話だが、あの人にそんな色気のある話を持ち込んだ例を俺は知らん。」
と真顔で警告された。その際初めて聞いたのだが、先ほどの服屋はハスティアといい、世界に名だたる高級仕立て屋で、オーダーメイドで一着、小さな国なら丸ごと買収できるくらいの品物なのだという。
「それよりも適任がいるぞ、いい具合に。」
セルゲイによると、船のガードが不具合を生じたことに責任を感じた紗羅がまだ船内にいる、頼んではどうか?ということだった。
「颯に一端頼んでみて、セットで行ってもらえばいい。そのハスティアに。面白いことになるから。」
船長には話をしておくから、早速あたってみたらどうだ?
そう言われて、当たってみると。
「…。紗羅どのと船長が良いなら、引き受けても差し支えはござらんが。」
颯の部屋にはサラナーと話をしに行った。ついでと言ってはなんだが、サラナーの記憶が時々途切れることを相談してみて、健康上の異常は見受けられない、という回答をもらい、その足で三人で紗羅に話を持って行った。
「え、あの、それ…ほんとうに!本当にあのハスティア、しかも、…ウエディング!」
まさか1日で航路の大半を消化してしまうとは思いもしなかった紗羅は。実のところ一週間を休暇として申請したのだが帰途はそれでは済みそうになく、今まで溜まっていた有給の申請書類の作成に久しぶり過ぎて手間取り、ひどく不機嫌だったのだが。ものすごく驚き、かつ次の瞬間には初対面のサラナーの手をひし、と握ると
「本当に、いいの?ああもう減給されてもいいからそちらの都合に合わせます!」
とものすごい笑顔でぶんぶん握手をしたのだった。
その日の夜。
「セルゲイ、わたしは別に出てもよかったんだが?」
とフィーザが軽くセルゲイを小突いて言う。
「デザイナーはあの二人を気に入った様子です。まあ、船長の服も作ってみたいと言ってましたね。」
フィーザとセルゲイも二人に付き添って、首尾よくサルマンとコネを作るのに成功した祝杯と、2人は船長室で向かい合って酒を酌み交わしていた。
もっとも華奢な船長がブランデーのオンザロック、厳ついセルゲイは紅茶という、傍から見るものが居れば滑稽な光景だったが。
「あなたにドレスなど、着せられません。大体…」
大体似合う服などないか、とフィーザはなぜか自嘲気味に言った。
「あの日から、わたしは肌など晒したことはないからな。」
それはセルゲイとフィーザだけの秘密で、誰にも知られていないことだった。
とは言っても、セルゲイにとっての秘密とフィーザのそれとは、事実は一つだが各々の捕えた像は違っている。
フィーザは『自分のせいで血を分けた姉が死んだ日の秘密』を思い。
セルゲイは『フィーザの自由を奪った呪われた女の妄執』を思い返していた。
どちらも起こったことは同じ、一人の、フィーザに似た女の死なのだが二人の事実はこんなにも違う。それは幸か不幸か、今はまだ、そしてこれからもひょっとすると解らないことであったが。
互いに黙したままグラスを傾けていたが、ふとフィーザが口を開いた。
「やっぱりわたしは女に見えるのかな?まあセルゲイは昔馴染みだし聞いても無駄か…。」
「そりゃ…はじめから分かっている問ですから公正な答えにはならんでしょう。」
「違いない。」
「ところで、ライが連れていたあのサラナーって子、いつ乗船したのか係のクマルに確認したんですが、いまいちうやむやなんです。」
「連れのボディーガードが居ると言っていたが、その人物には確認したのか?」
「それが。連れは最初から居ません。」
「颯が異常なしと見立てたと聞いたが…。」
「ライが言うには、記憶が抜け落ちがちになるそうですよ。あの御嬢さんは。」
そしてセルゲイから、ライが剣の力で追手を撃退したときの騒ぎに乗じて乗り込んだのではないか、という推論が出た。
「目的地は砂漠か。…不思議な娘だな。強力なコネも出来たし、利害で考えれば別にこのまま乗って行っても良いんだが。…なにかしら、悪い予感はするな。」
「砂漠には悪魔が集う卓があるという言い伝え、ご存じですか?」
唐突にセルゲイが言う。
「最終目的地のワイノスに寄港する船が極端に少ないのは、こいつのせいだと思うのですが。ま、おかげで利益はけた違いですし今までは気にしていませんでしたが。今回は裏をとってみようと思っています。」
「何か…あるのかもしれないな、確かに。」
ブランデーの氷がからん、と大きな音を立てる。
手元のグラスを見ると。大きめの氷が真っ二つに割れ、沈んでいく。
「本当に良かったなあ、あのモデルの話がよそにいって。」
街ぐるみ、と言っても差し支えない規模のファッションショーの一環だったようで、今や街中がお祭り騒ぎだった。
颯は、『こんな規模の装束展があるとは…』と絶句していたが、他のニケ号の船員たちにとっても初めて目にするものだった。
「予定よりも早く着いたから、今まで見たこともないものが見れるな。宝飾品も流通するし、時間もたっぷり取れる。」
とフィーザは商談を持ち掛けに東奔西走していたので乗組員で外商担当以外のものはそれぞれ交代で長い休みをもらっていた。
「なんか今夜は飲むって言っていましたよ、ハザトさん。」
と傍らを歩くサラナーが言った。
「らしいなあ…ってサラナー、なんで知ってるの?」
「誘われてしまいました。男ばっかりでむさくるしいって。」
確かに。ライは船員の皆の風貌を思い起こして、
「…強面率高いからなあ…サラナーが混じるとなんか犯罪っぽいんじゃないか?」
誘拐されてでもいるかのような絵面だ。
「あと紗羅さんと船長も来るそうですから、そこに混じります。」
なるほど。納得してライは話を戻した。
「ところでこのモデルの件が終わったら、ワイノスに出発するみたいだけど、サラナーって砂漠観光してからどうするの?」
ぴた、とサラナーの歩みが止まった。
「とにかくワイノスの砂漠に行くべき、って気だけがすごく強いので、…記憶が途切れがちになる前から、ずっとそんな気がしていたので、行って…後のことは…。」
またとても悲しそうに、心細そうにする。無理もない。今朝がた、乗客名簿を見せてもらったところサラナーの連れなどいなかった。それどころかサラナー自身の名すら無かった。サラナーは乗船手続はした、と弱弱しく言ったが、責めてるわけではない、と名簿係が慰めてもしばらく真っ青な顔をしていた。
「それなんだけど。俺もさ、ずっと母の罹った病気の治療方法を探しているから、癒し手のところと民間治療、薬師とか当たり続けている訳で。一緒に動かない?これから。」
まあ、お尋ねものだからかえって厄介ごとが増えるかもしれないけどさ、良かったら、と言うと。サラナーはとても嬉しそうに笑ったのだった。
「ありがとう。とてもうれしいです。こちらこそ面倒事に巻き込むかも知れませんが…先日のモデルの件みたいに。」
そう言って、、ちょっと申し訳なさそうに肩をすくめる。
「さっそく今日から当たってみる?二件話をしに行く予定。」
ライが目星をつけていたのは、この大陸で有名な癒し手と、民間療法でこの地固有の『ジュエルヒーラー』といわれる療法の療養所だった。
二軒とも街中の施設で、直接足を運んでも夜までには用事は済みそうだったので、そのまま連れだってまずは癒し手の元に向かった。
「ほんと、世界は広いな…。」
昼食に入った洒落たレストランにて、ライは思わずため息をつきながら向かいのサラナーに零していた。
「アシュアスの癒し手なんてもっと、こうなんていうか…気さくな人ばっかりだったのにな。ここは全く違うなあ。」
サラナーも紅茶を飲みながら相槌を打つ。
「私の居たフィラードでも、こんなことは無かったです。…街の診療所でも当たってみます?」
結局、二軒とも目的は全く果たせなかった。癒し手は有名すぎてふらりと立ち寄っただけでは会ってもらえなかったし、ジュエルヒーラーは富裕層向けの療養施設の奥深くにいるそうでまったく相手にされなかったのだった。
「診療所をお探しなんですか?」
浮かない顔の旅行者二人、しかも若年、という組み合わせに、地元のウェイトレスが親切に話しかけてきた。
「この街中で有名なところを当たっても、無駄足になりますよ?とってもお高いですから。私たちは海のそばの洞窟まで行ってます。何でも治してくださる、すごい方が居るんですよ。しかも私たちに払える金額で。」
良かったら地図をどうぞ、と彼女はメモを取り出して、書き置いて行ってくれたので、午後はそこに向かうことにした。
地図がなければ見落としたかもしれない小さな看板には「イン」とだけ記されている。
「変わった名だな?なんかアシュアスの砂漠のあたりでこんな名前の人、いたけど…。」
そう言いながら、洞窟の中に足を踏み入れると、
「先生は今日はお休みだよ!」
と奥の方から一四~五歳くらいの少女が出てきた。黒髪に黒い目、黄色がかった肌をしているのでアシュアスの人間のように見える。
「あたしで分かることなら治療できるけど。」
見たところ元気そうじゃない?とさらに早口で言い募る。
「あの。ちょっとややこしいことなので、できれば先生に会いたいんだけど…明日出直したら会えるかな?」
ライが言うと、ぴく、と少女のきつい眼差しが吊り上った。
「見た感じ、旅の人みたいだけど?あたしに用件言ってもらえるかな、先生には伝えておくからまた出直してみて。」
明らかに警戒されている。ライとサラナーは顔を見合わせて苦笑する。
「じゃあ…これ、渡してもらえるかな。明日同じくらいの時間にまた来るよ。」
ライはそういって、小さく畳まれた紙片を胸元から取り出した。
「この症例の、治療法を探しているんだ。先生にそう伝えてもらえるかな?」
「分かった。でも渡す前に一応、確認させてね。」
そういって彼女は紙片にざっと目を通す。
「…。…!」
彼女の目が見開かれたかと思うと。
「ちょっと待っていて、すぐ戻るから!」
と紙片を持ったまま洞窟から走り出していってしまった。
そして本当にあっという間に、彼女は先生を連れて戻ってきた。
「ユイファがこの紙を持ってきたんだが。この症例通りなら…。」
ライはその沈黙の後を引き継いだ。
「その症例の人はもう亡くなっています。おれの母です。治療方法をアシュアス大陸内で探しましたが見つからなくて。で、色々な先生に聞いて探し続けています。」
「!」
先生を連れてきた少女、ユイファは居たたまれなくなったのかすっと身を引いて、傍らの簡素な椅子に座りこんだ。
サラナーは、ユイファと先生のただならぬ反応に面食らっていた。ライの母の件、指名手配の訳は本人から聞いてはいたが、あまりにさらっと話したのでいまひとつ現実味がなかったのだ。
「私はここで、癒し手の真似事のようなものをしている…インという名で分かるだろうが、アシュアスの中部砂漠の出だ。この症例の報告書は、キミが?」
「母を看取って作ったものです。母自身薬師でしたから。母からも助言されて補足してあります。」
違和感。サラナーはライを見た。いつもの声ではない。どんどん平坦で抑揚のないものに変わってきている。能面のような無表情に驚き、そして視線をユイファに向けた。ライの視線の先に彼女が居たからだ。
「泣くな!」
突然、無表情のままライが彼女に掴みかかった。
「泣くな。」
おびえた泣き顔を見て、さらに冷たく無表情に言って、ライはすっと彼女の襟を放した。
ユイファはゆっくり席を立って、サラナーの脇をすり抜けて外へ出た。
放っておく訳にもいかないだろう。彼女はインに目で挨拶すると、
「わたしも席を外すね。」
と言って、ユイファの後を追った。
彼女はサラナーより小柄で、ゆっくり歩いていたのですぐに追いついた。
しばらく無言で、横に連れ添って歩く。
「…後であの人に謝っていたって伝えてくれる?」
彼女がぽつりと言った。
「あたし、インさんのもとで勉強させてもらって、これでも結構長いんだ…だから、最近、人の死に立ち会うことも出てきたんだけれども。」
でもね、あの症状は酷い。
そう言って、彼女は目をごしごしこすった。
「ありとあらゆる苦痛をもたらすあんな症例があるなんて。最初は軽微な不調、それから徐々に全身の痛み、で、筋繊維が千切れる。体も動かせなくなって、最終的には肌が糜爛して、苦痛のあまり幻覚を見るって…。」
サラナーは絶句した。
「あたしの母さんや父さんがそんなことになったら…って思ったら苦しくなって。とても、看取れないよ…。」
話しているうちに昂ぶったのか、彼女はまた涙を浮かべる。
「治療方法を見つける、ってお母さんと約束したって、ライは言っていた。」
サラナーはぽつりとつぶやいた。
「何度も、何度も、肉親の最期の姿を説明して思い出して?それって…。」
とても酷い。二年で乗り切った感情なら、せめて穏やかな最期であったのだろうと勝手に思い込んでいた。だが、いまだに乗り越えていないものがあったのだ。
「こんな思いをするのは自分たちだけでいい、って言い残したって聞いたの。」
サラナーは言った。
「謝っていたって、あの人に伝えて。きっとあたしが泣いたのが腹立たしかったんだと思う。泣きたいのはあの人なのに。」
ユイファはそう言って、今度こそ涙を収めてぎこちなく微笑んだ。
「だめねあたし。すぐ感情が出ちゃって。これを直せたら一人前だよ、ってイン先生にも言われるんだけど。」
「だめじゃないと思うけど?そういうのもきっと大事よ?」
サラナーも微笑んで、そっと彼女の肩に手を添えて、二人で引き返し始めた。
「癒し手ってさ。」
彼女が言う。
「手当、って言うじゃない?痛いところに子供がよしよし、してくれても効果は無いけどなんか和らぐじゃない?手を添えるだけでも感情がこもっていれば癒しになりえる。って先生が言うの。」
あんたの手もなんかやさしいね、と彼女は言った。
「残念ながらここも手掛かりなし。」
洞窟にもどったサラナーに向かってライは言った。そして連れだって戻ってきたユイファに目を留めると、
「さっきは取り乱して悪かった!」
と頭を下げた。
「こっちも無神経でごめんなさい!」
とユイファも勢いよく頭を下げる。それを見てインとサラナーはくすっと笑った。
「あの、インさん。」
「記憶が途切れがちになる病気って、あるんでしょうか?」
サラナーがおもむろに口を開いた。
「行った記憶のない場所に気が付いたら移動していたり、居ると思った連れがいなかったり、そんなことが起こるとしたら、治療方法はあるのでしょうか?」
インはじっとサラナーを見た。
「それは、あなた自身のことかな?」
サラナーは頷く。
「そうだね…あるかも知れない。ここにも、心に強い衝撃を受けた人で、名前も忘れた人が来たことがある。一過性のもの、つまりすぐに治ったんだけど。あなたのその症状は、今も続いてる?酷くなる?」
サラナーはこくりと頷いた。
「私のような癒し手の真似事をしている友人から聞いたんだけど。一人の人間の中に何人もの意識が住み着くことがあるらしい。信じられないような話だけど、三人分の人格がそれぞれ感情と記憶を持って一人の人間の中に息づいている事例もあったそうだよ。」
心に絶えず傷をつけられるような状態に置かれると、特定の人格、痛みに強い人格が現れてその時をやり過ごすんだそうだ。とインは話した。
「私の専門は、ストーンヒーラーといってね。特殊な鉱石を配置して、磁場を作って治療をしている。サラナーさんの場合はその友人の方が専門みたいだ。」
「その方には、どこに行けば会えますか?」
「この街の人間じゃないんだ。ワイノスにいるよ。」
ワイノスのクスタという街にいると聞き、サラナーとライは紹介状を書いてもらってその場を去った。
「いろんな民間療法があるんですね。」
帰る道すがらサラナーが口火を切った。ライは今までになく無口で、しびれを切らして話かけてみたのだ。
「そうだな。ドリームヒーラーって?紹介してもらった相手、それも聞いたことないや。」
やはりどこか、上の空な気がする。
「ライ…話したくなければいいですが、話して楽になりそうなことを抱えているならいつでも行ってくださいね?」
何気なさを装って、さらりと口にしたのだがライは足を止めてじっと見つめてきた。
「話して?どうなるものでもないよ。過ぎてしまったことなんて。」
また、能面のよな無表情だ。
「さっきインさんが言ってくれたこと、そのまんま、今のライに当てはまる気がします。」
サラナーは言い募る。
「だって、今のライはいつもと全然違います。人形みたい。つらい時は辛いって、言えるときに言わないと、どんどんおかしくなってしまいます!」
「…。」
いつの間にか時刻は夕刻で。沈みかけた太陽が二人の間に楔のように黒い影を落としていた。
「そっか。…ありがと、そんなこと、言ってくれるような相手、今まで居なかったからさ、うれしいよ。…でも今は気持ちだけでいいよ、それで十分。」
ライはふっと微笑んだ。
「正直、まだ悲しいなんて思って浸ってる余裕はないって言うか…やっぱり治療法を見つけてからじゃないと、肩の力抜いちゃいけない気がしてさ。あんな取り乱しといて、かっこつけられたもんじゃないってわかっているけど。」
押し潰されそうで、ゆっくり思い出す暇などないほうがむしろ救われていた。治療方法が見つかったとして、で、父と落ち着いてどこかで暮らせたら…どうだろうか。その時には、サラナーに聞いてほしいことが色々あるだろう、とライは思った。
「サラナーこそ、大変なのに気を遣わせて悪かった!」
今は前向きに、出来ることからやっていこうな、とライが提案して、連れだって今夜の酒宴の場に向かうことにした。
今夜は気分転換できる用事があらかじめ入っていて良かった。とライは向かいながら思った。
「そうか、そんなことがあったのね。」
酒宴も終わり、船の甲板でサラナーは紗羅に話を聞いてもらっていた。夜気が火照った頬を優しく撫で、波音は柔らかく闇を満たしている。
モデルの期間は2日間、準備期間は1週間で、結局半月の滞在に決定したと酒宴の席で聞いた。サラナーと紗羅は女同士で急速に打ち解け、二人で深い話もするようになった。
「…そういうことって、少しづつでも言ったほうが良いと思ったんですが…言ってもらえなくて。」
サラナーが寂しそうなのを見て、紗羅はちょっと考えて言葉を選びながら言った。
「気持ちはわかるけど、でも、ライ君はずっと一人で頑張ってきたわけでしょう?打ち明けるにしても時間がいると思うわ。」
「でもあの様子は尋常じゃなかったので…あんなことを続けていたなんて何だかいたたまれなくて」
あら、という表情で紗羅はサラナーを見た。
「ほんとうに、気になるのね?ライ君のこと。」
その含みに頬を染めて、サラナーはこくりと頷いた。
「まだあまり一緒に過ごしてはいませんし…お互いあまり立ち入ったことは話していないんですけど。なぜだかとても落ち着くんです。」
「いいわねえ。そんな風に言えるのって素敵なことよ。大事にしなくちゃね。」
紗羅はきゅっとペンダントを握りしめる。
「…大事なものなんですか?」
店でもその仕草を良く見た気がして、サラナーが尋ねると、
「大事な人から貰ったんだけど、贈った本人、忘れているみたいね。」
と言ってふう、とため息をついた。
「颯さん?」
と訊くと
「分かる?」
と紗羅は言ってまたため息をつく。
「最近知り合ったばかりのサラナーちゃんにも伝わるのに、なんで察してくれないか。」
と、再びため息。
「回りくどくプレゼントさせたから、本人の中では送った内にはいってないのでしょうけど。でも大事にしていたら気づくかな?と思ってね。」
仕事所で颯を助けた形になったことがあって、その後の事後処理で偶然手に入ったものを譲り受けた。それは贈り物ではないのでは、とサラナーは思ったが言わずにおく。
「…今回モデルを変わっていただきましたし。何かお礼をしますね。」
サラナーはそういって、にっこりとほほ笑んだ。
「…不思議ね、サラナーちゃん、時々すごく大人っぽいわ。」
紗羅が何気なく言った一言に、サラナーは一瞬表情を曇らせたのだが彼女は気づかなかった。
「もう何が起っても驚くまいとは思っていたが。」
ここはワイノス。一番大きい港町のクスタだ。
「こう立て続けだとやっぱり、事態は深刻なんじゃないかと思えてくるな。」
フィーザが傍らに立つセルゲイに言うと、
「ワイノスの砂漠には、っていうあれですかね。なんか直接行ってみたくなりましたよ。」
幸い仕事には影響はなかったですがね、とセルゲイが言うと。
「本当だな、そこだけは不幸中の幸いか。」
とフィーザも心底そう思う、といった風に答えた。
実際乗客の快く、予定よりもはるかに早く着いたことを受け入れてくれたものがほとんどで、ごねる客には投宿料金を払い出すことで片がついた。
「まあ、時間もかなりあまった訳だ。…砂漠が呼んだのかもしれないな。」
一先ずこの仕事が一段落すると酒宴を設けて長期休暇、というのがこの船の決まりだったので。その夜も、例にもれず少し格式の高い店を貸切で酒宴を設けることになった。
店内は間接照明で柔らかい光に包まれている。壁には明り取りの小窓が随所に作られており、ろうそくの光がゆらゆらと幾重にも光の環を投げかけてくる。
その光は壁に吸収されて岩肌を模した店の壁が芸術品のような陰影を描き出している。
「ステージがあるんだって?」
とハザトが酒をデキャンタで席に持ち込みながら言った。
「ステージですか?ワイノスってたしか独特の歌と踊りがあるんですよね。」
とライが言った。
「良く知ってるね、若いの」
と言ったのは昔は凄腕の傭兵だったらしい、カルという名の初老の船員だ。
「砂漠のオアシスを芸事だけで渡り歩いて糊口をしのぐ、旅、また旅で一生を終える。そんな民族がいるらしいな。」
「なんかそんなこと言ってた。中でも飛び切りの芸達者が来てるってさ。」
などと話していたその時、店内の明かりが一層絞られた。明り取りのろうそくが店員たちによって店の中央の円形のステージに集められる。
皆が見つめる中、音もなく背の高い影がゆらりとステージの中央に現れた。
「皆様、今宵はお集まりありがとうございます。皆々様の酒の肴にでも、舞と歌を添えに参りました。」
す、とあげた顔は。
目、だ。飲み込まれそうな深い緑の瞳に、見たことのない力が宿っている。とても整った顔立ちなのだが目が一番印象に残った。
しなやかな長身にたっぷりとしたシルエットを描く装束が、ゆらり、ふわりと纏いついては弧を描く。
銀に輝く月の夜は 黒衣の子らを白の外 皆で石もて追い出せよ
金に眩き日の下で ましろの子らが まどろみて
見る夢 はるか 黒の夢 かつて追いたる 子らの夢
「なんか。…不思議な歌だな。」
「そうですね、幻想的です。」
歌い舞っていたその人物が、やがてその動きを止めると店内はしん、とひと時の静寂に包まれた。
一礼をして次は帯に挟んでいた笛を口元に運び。玲瓏たる音色を響かせる。店内は静まり、皆うっとりと聞き惚れた。
やがて演奏は止み、また店内は皆の喧騒に包まれた。
「いかがでしたでしょうか?」
店の主がにこやかにセルゲイの元にやってきた。
「先ほどの踊り子が、後程皆様にご挨拶したいと申しておりますが。」
宴もたけなわといったところで断る理由もなく、その申し出を承諾し、しばらく後。
「や~皆様!お揃いで大層盛り上がっていらっしゃる!」
と躍り込んできた男が一人。
ニケ号の船員で貸し切った空間で、その男はとても異彩を放った。淡い山吹色のぴったりしたシャツに鶯色のひらひらした上着、スカート(!)は桜色、その下は細見の黒いパンツ…。首に手首に足首に、首と名のつくところにはしゃらしゃらと鳴り響くほどの装飾品を付けている。
「あれ?船長さん?何驚いてるんです、先ほどはご清聴いただいちゃったからこうしてお礼に来たのに。それに初対面じゃあないでしょう?」
そう言いながら店内をぐるっと見渡して。
「あら!綺麗な御嬢さん!見たことないわこんな髪の色!白い肌ねえ、うらやましいわ。」
あたしなんかほら、旅ばっかりで日焼けがひどくってねえ、となぜかオネエ言葉だが、完全に男である。
「…思い出した。セルゲイが以前世話になったな。」
「思い出したって…じゃあ今の今まで忘れてたっての、アタシのこの美貌を!」
まあ船長にはちょっと負けるかなあ?とけたけた笑いながらもセルゲイにばっちり視線を合わせている。
「さすがにセルゲイは覚えてるでしょう?アタシとのあの夜のこと。」
うええええ!と店内は騒然となった。
「待て、あの時の女なら、確かガルスといったか?」
(船長今女って言った!)
店内の誰もが胸中で絶叫したに違いない問題発言に続いて、
「丁度いい、セルゲイのあの日の行動について、訊きたいという者が今ココにいる。後で時間を取ってくれないか?」
と至極真面目に切り出したものだから、店内はしん、と凍り付いてしまった。
「アタシは確かにガルスだけど。…いや~、女ってマジで言ってくれるの?うっける~!船長最高!」
と発言し、その場の時間はやっと動いたが…
(船長って天然?)
疑惑が皆に根差したのは言うまでもなかった。
「では改めて。アタシはガルス・シナクス。年齢なんて野暮はきかないでね?」
と言って大げさな身振りで握手を求められた。
「どうも、はじめまして、ライ・ゼンドーと言います」
ここは先ほどの店の、ガルスに与えられた控室だった。ライはその手を握るのをちょっとためらったのだが、がしっと捕まえられてしまった。
「そんなに固くならなくてもいいわよ、取って食いやしないって!」
で、何、訊きたいことって?とガルスは言う。
「…父を、知っていませんか?」
ん?とガルスの緑色の目がライの表情をうかがう。
「まず、かしこまった言い方はしなくていいわよ、肩こるのよね。…にしても変わった質問ねえ、初対面の人間に訊くには。」
黙り込むライに、ガルスはにっこり笑いかける。
「あはは、ごめんね?ちょっと意地悪しちゃった。訳ありなんでしょう?」
そうでもなくちゃ、こんな怪しいやつと話そうなんて思わないでしょうははは、と豪快に笑われた。
「お父さんって言ってもね…アタシがあのときセルゲイとばか騒ぎしてた時のメンバーって沢山いたしねえ。印象に残ったのは、短剣をくれたお兄さんくらいかな?」
「それ、間違いなく親父。」
です、は飲み込んだ。そのライをガルスは見返す。
「ええ!だって下手したらアタシより年下っぽかったわよ?」
あなたいったいいくつ?と尋ねられて。
「17。」
と答えたところ。
「いくつの時の子供よ?随分早く結婚するのね、ライの国では。」
「いいえ…なんか訳ありで。駆け落ちみたいにして、とか聞いたんで。皆がそうって訳でも。」
ふううん、すごいのね、ドラマだわ!とひとしきり感心されたところで、
「で、父の様子なにか変ったところとかは?」
「ん。別に。だって楽しく飲んだ記憶しかないし。刀をセルゲイに渡すときに、熱心に名前みたいなのを教えてたのは覚えてる。で、いいなあ、って言ったらアタシにもくれたの。この短剣」
「なにか気になるような素振りとかは?」
「んん。何も。綺麗なナイフ!って言ったら喜んでくれたけど。」
そのときの短剣がこれ。とガルスは懐から一振り刀を取り出した。
「借りてもいい?」
そういって柄を調べ、やがて小さなほころびを見つけると、つ、とつまみ上げた。一枚の紙が柄に生地から剥がれ落ちる。
「…親父の…手紙?」
「なに?なんか尋常じゃないわね、そんな手法とるなんて。」
広げたちいさな紙には
「ライ、無事でいてくれて良かった。伝達の彼は信じ過ぎない方が良いようだ。今は、これだけ心にとめておいてくれ。」
と小さな文字で走り書きがあった。
視線を感じて顔をあげると、ガルスの真剣な目があった。
真剣味半分、好奇心半分といった方が良さそうだったが。
「なんか、大変そうね?よくわからないけれど、何かの縁ってことで、他に手伝えることがあったらオネエサン力になるわよう?」
(ならまずその言葉使いをどうにかしてほしい)
と正直思ったがそこは飲み込んで、
「ドリームヒーラーってのも探してるんだけど…。」
と切り出した。
がさがさ、がさがさ。
もう一時間は、この音を聞いているような気がする。たまりかねて先頭をすいすいと進むガルスに声をかけてみた。
「有名な、先生って紹介されたけど。本当にこんな町はずれにいるの?」
「モチロン!アタシの茶飲み友達なんだから。偶然にも。なんか不思議ねえ。」
優雅ともいえる動作で振り返るガルスは、今日は昨夜のような奇抜な服装はしていない。黒い長そでの、膝までくらいの上着を羽織り、淡いブルーの仕立ての良いシャツを着ている。ズボンは深い藍色だった。本人いわく、
「先生は良い人だから敬意をはらうの」だそうで、なら昨夜のあの極楽鳥のような服はなんだったんだと問うと。
「だってえ。海賊の酒盛りだったんでしょう。」
ときた。
「海賊。そんな風に見えるんだ。」
「当前じゃない。あんなに羽振りは良い九割がた目つきが悪いわじゃあ。正直、サラナーと船長、そしてあんたは浮きまくってたわよ」
「みなさん良い方たちですよ?」
少し遅れていたサラナーも追いついてきた。息が上がっている。
先ほどから掻き分けている叢の、立ち枯れた黄色の葉に川蝉色のコートがはっきりとしたコントラストを描く。ガルスがじっと見つめて、口を開く。
「それにしても、サラナーちゃんってほんと、綺麗ねえ。なんではるばる砂漠まで旅しようなんて思ったの?親御さんには危険だって止められなかった?」
サラナーは、ちょっと小首を傾げて、
「でも、ずっとついて来てくれてる人がいますよ?」
とほほ笑む。その一言には迷いは無くて、ライは何かとても邪悪な胸騒ぎがした。
「ライがついてるから、ってこと?聞くんじゃなかったわ、ごちそう様」
ガルスがいいっと舌を出す。それでサラナーも、
「違います、そんなんじゃないです!だって、ライは…最近?」
サラナーが言葉に詰まる。
「ところでさ!まだかかるの?」
くたくただよ!とライが声を上げる。
「こらこら、若いものが何を言うか!もうすぐよ」
ほら、とガルスが少し先の看板を指さして言う。
「あと、たった、あ・れ・だ・け。」
言いながら、看板から左手に、今度は木立の中をかすかに昇って行く道を指さして言った。
それからさらに30分以上は歩いただろうか。
獣道を少しましにした程度の小道の先にその「ドリームヒーラー」の家があった。家、というか。その異形な景色にライは息をのんだ。
「すごいでしょう?この建物が気に入って、こんな辺境に住んでるんだから中身も相当よ?」
と言ってさっさと入ってしまう。
「サラナー、…大丈夫?」
ガルスが行ってしまったのを見送り、傍らのサラナーを見やると、建物にぼんやりと見入っている。
「サラナー?」
「…ここ、なんだか、来たことあるような気がして。」
緩やかな上り坂を延々進んだ果ての目的地は、石積みの巨大な建物だった。随分昔のもののようで、蔦が一面に絡まっている。崩れているがよく見ると門柱の跡まである。その間を抜けると、所々しか残っていないが石畳が敷かれ、立派な池もある。今は枯れているが噴水もある。
「ちょっと~、二人ともどうしたの?入口はこっちよ。」
能天気なガルスの声に、二人は慌てて足を速めた。ライは向かいながら問う。
「来たことって?旅に出るの初めてって言ってなかった?」
そう言ってサラナーを見ると、
「え?そうです、初めてですよ。こんな建物を見たのは。」
と無邪気に関心している。ライは言葉に詰まった。
「…砂漠にはそういえばこんな建物があったな。なんかここのと違って灰色だったけど。」
と、ライは話題を逸らす。かつて見た砂漠の光景を思い描きながら。
「灰色で…なんかざらざらしてて、綺麗って感じはなかったな。」
「へえ、変わったもの見てきたのね?でもその年で砂漠横断なんて、穏やかじゃないわねえ。」
いつのまにか、ガルスが傍らに立っていた。
「入口はここ以外にもたくさんあるのよね。で、見た目廃墟でしょう?迷う人も多いわけよ。だから紹介された人か、ライみたいに招待状持ってなければ知りようもないわね。ほんと偏屈なんだから。」
そういうガルスの前には赤い表札がかかった扉がある。確かに、他の朽ちるに任せた扉となんら大差はなかった。見落としてしまいそうだ。
「こんにちは、差し入れにぴちぴちの生ものもってきたわよ。あけてちょうだいな。」
「嘘付け。」
以外と若い声がかえってきた。しかも女性の声だ。
「そんな気の利いたこと、ガルスがしたら雪が降るわ」
扉が内側から開かれ、中から黒髪に青い瞳の、活発そうな若い女性が顔をだした。
「あ、本当に生ものが…。いらっしゃい。って、何よあんたはこんなお客さん連れていきなり。なんていうか常識ないんだから。」
「なによ、紹介状持っていたしすごく急ぎみたいだったからアポなしでお連れしたの。ほら、手土産は完備」
「あの、これ、ガルスさんからお好きだってうかがったので。」
と言って、籠にいれたフルーツや珍しい食材にワインを差し出すサラナーに笑顔を向けつつ、ガルスにはしっかり肘をめり込ませて。
「あら、礼儀正しいのね、そんなお気遣いなくって構わないのに。ワタシはジーマ。本名は長いからジーマって呼んで頂戴。」
「はじめまして。サラナー・ラクラスです。」
「で、こちらは?」
「はじめまして。ライ・ゼンドーと言います」
「はじめまして。ライ。あら、あなたちょっと疲れているみたいね?気を張りすぎると疲れるわ。良いお茶があるの、どうぞ。」
どうぞ。とジーマが一行を室内に招きいれた。室内は四部屋に分かれており、それぞれがとても広い。
「この建物は随分昔のものみたいなのよね。古地図にもしっかり記録されているし。あ、ワタシ、この建物が気に入って買ったんだけど、インには『いい買い物だ』って言われたのよ。地脈とかがいいんですって。」
でも普段はここには紹介状持っていても招かないのよ、とジーマ。
「だって、すっごく遠いでしょう、街から。だからワタシが出向いているのよね、普段は。それがこのガルスときたら。勝手にここに上り込むわ、招待してない人まで招くわで本当にロクデモないのよ。二人ともこんな大人には絶対なっちゃダメよ。」
「まま、そんなほめないでよ。成りたくてもなかなか成れるものじゃないなんて。」
ガルスはとんでもなく的外れに茶化す。
「…とにかくお茶入れてくるわね。そうね、本棚の本でも見てて。」
ジーマはガルスを完全無視して、すたすたとなりのキッチンに消えた。
「ほんとうに茶飲み友達?」
ライが疑わしげに言うと、
「残念だけど、アタシは一人のものにはならない主義なのよねえ。」
ときた。
「本棚。…すごい!フィラードの民話、アシュアスの神話、ワイノスの歴史まで。わあ、こんなにたくさんの本初めて見ました。」
サラナーが驚くのも無理はなかった。本は、結社の内部にはかなりの蔵書があるらしいが、まだ富裕層のもののみが手にできる貴重なものだからだ。
「ほんとだ。すごいね。手にとってもいいのかな。」
年代物ということは一目で分かった。それに、アシュアスを旅していたころには村、街の重鎮の手元に数冊の年代記、地理誌が保管されている程度だったので、説話の類は初めて目にする。
「どうしたの?本が珍しいの?」
二人が本棚の前で逡巡しているのを、ガルスはひょいと屈んで頭上から無造作に本の束を鷲掴みにした。
「ええ!なんてことを。」
「なに?なにか盛り上がってるけど。」
本棚の前で騒いでいたことが不思議だったようで、ジーマはティーカップを乗せたトレイを持って立ちつくしている。
「この子たち、本が珍しいって。」
「あら、そうなの?…えっと、ここの、ワイノスの子じゃないの?」
「私もライも、アシュアス出身です。北と南に分かれてますが。」
サラナーがそういうと、
「本はね、砂漠に沢山あるのよ。このワイノスは砂漠が多くて、人口もほかの二大陸に比して少ないわ。だけど、本はたくさんあるの。それを輸出してるんだけど。ふーん。そんなに出回っていないのね。」
はいこれ、とガルスには大き目の素焼きのマグカップ。どうぞ、とライとサラナーには綺麗な水色のカップとソーザーが手渡された。
「わあ。綺麗なカップですね。」
サラナーがうっとりと眺めている間に。
「あ、このお茶、いい香りよね。」
とガルスが一口飲み下す。
「でも不思議と眠くなるのよね。隣の部屋のいつものソファ借りるわね。」」
言いながら、ふらふらとガルスは三人の脇をすり抜けて奥へ冷えた。その背中を見送って、完全に気配が消えてから、
「よし!片付いたわ、ガルスもまあ、面白いんだけど、いつも相手していられないからね。良く効くわ相変わらず。」
と恐ろしい一言をさらっと口にして。
「それじゃ改めまして。ドリームヒーラー、ジャリハール・マヴァルが私の名前、で、インからの紹介状ってのを見せてくれる?」
と、強い光をたたえた瞳がライ、サラナーに据えられた。
「うーん。確かに本物。」
ジーマは一先ず封を切らずに一通り確認して口を開いた。
「疑っていたわけじゃないんだけど。最近は本当に西からのお客さんが少なくて。特にアシュアスからって言うのは。」
「そんなに?」
「そう。なんだか物騒な噂は耳にするわ、旅行客はないわで。…でもインからの紹介なら間違いはなさそうね。」
言いながら開封して中身に目を通す。
「アシュアスって、そんなに悪評立っていますか?」
「最新の噂では…結社と縁の深い友人から仕入れたんだけど、奇病が流行ってるって。以前あらちらほら、そんな噂はあったんだけど最近急増したって。」
「その結社がらみの情報、治療方法の情報はないんですか?」
ライの様子が変わったので、
「ん、残念だけどないわね、噂だし。…でも本ってアシュアスでは流通していないんでしょう?ひょっとしたらここにヒントがあるかも?」
「にしても、今はやっているなら間に合わないじゃないですか。」
ライが言い募るのを見て、
「あくまで推論だけど、結社だって一枚岩じゃないし、解決策はあるけど封じられているってことも考えられないかしら?」
「内部分裂ってことでしょうか?」
「あくまで、推論よ。」
(伝達の彼は信じすぎるな)
ふと、父の残した伝言が脳裏に浮かんだ。
(まさか…。)
確かに、ここ数か月連絡がない。そして噂だが、アシュアスから一番遠いここにまで奇病は伝わっている。
「まあ、残念だけどアシュアスではそんなに情報操作がなされているのなら治療方法も限られたでしょうね。そしてさらに残念だけれど、ワタシもこの件には力になれない、専門外なのよ。」
せめてなにか役立つ情報があればいいけど。と彼女は一つ鍵をライに手渡した。
「書庫の鍵。ここを出て、中庭の噴水あとから左、バラの植え込みの傍に扉があるから。」
「あ!あの、私も書庫が見たいのでついて行っても?」
サラナーが口を開く。
「ん?あなた、インに相談した件があるでしょう?私の治療を始めるから、彼には先に一人で行ってもらったほうが良いわ。」
「でも彼多分…。」
サラナーが言いよどんでいる間に、
「えっと、ここを出てすぐ右でしたね?」
とライがこともなげに復唱したので、
「ちょっと待ってて、ガルスをつけるから!」
とジーマが苦笑しながら奥に消えた。
「書庫ね。懐かしいな。」
と大あくびしながらガルスが適当に手を伸ばす。入ってすぐに小さな本棚があった。
「あら、こんな本棚は前無かったわ。ほんとにジーマってばマニアよね。」
と手にしたのは、褪せてはいるが大きく色とりどりの図形が乗っているものだ。
「ふ~ん、『料理本』ですって。なんか不思議な材料がのってる。それに道具も変わってる。たこいとってなに?さすが古代の本よねえ?」
「…ガルスってよくここに来るんでしょう?なのに懐かしい?」
ああ、とガルスは口の端を持ち上げる。無意識の微笑みのようだったがその一瞬の表情はとても寂しげだった。
「昔はジーマの患者だったのよ。アタシ。」
と、ポツリと呟いた。
「ま。そんなことは、どうでもいいわよね?さ、ライの探し物でも手伝っちゃうわよ、眠気を覚ますにはちょうどいいわよね。」
で、お探しのものってなんだっけ?とガルスが訊くので
「病気と治療法についての本、みたいなのがあったら目を通したいんで、持ってきてもらえますか?」
と言い、二人はそれぞれ書庫の思い思いの場所に移動していった。書庫は、入ったすぐは空間が作られていてその先は薄暗く、かなり奥行があるようだった。
「ライ、ちょっと待ってな。」
そういうと、奥の方でカーテンを引く音と、室内にうっすら光が差し込んできた。
「あんまり光をあてるのは良くないからね。古いものもかなりあるし。」
で、たしかこの辺、とガルスはちょっと屈んだかと思うと、数冊の本を手に戻ってきた。
「実は、この書庫アタシが片づけたの。奥の方はジーマの専門外で、つまり今回のお探しのジャンルも含まれるの。しっかし見事にアタシが片づけた時のまま。専門外は手つかずってね。」
いるわよねえ、集めて安心しちゃうタイプのマニアって、とガルスは言う。
「ジーマさんってお医者なんでしょう?」
「医者って言うか…ま、正規の治療法じゃなくてかなり特化してるわね。ドリームヒーラーって聞いたことなかったでしょう?」
うん、とライが同意すると。
「彼女だけなんじゃないかなあ。砂漠で一度死にかけて、で、あの能力を持ったって言ってたし。でね、結社にスカウトもされてたけど、ああいう堅苦しいのは嫌いって言って突っぱねたの。だからおおっぴらに治療行為も出来ないのよね。」
どんな治療なんだろう、とライは思ったが今は本を見てみることにする。治療のことはあとでサラナーに訊こう。ガルスが渡してきた本はどれも堅牢なつくりで、ちょっとやそっとの日焼けは物ともしないように見えた。
「え、う~ん。」
ライは書物はまれにしか見ないので、びっしりと書き込まれた序文で一日を使ってしまいそうだ。ちょっと絶望しかかった瞬間、ガルスがこともなげに選別してきたことに思い至った。
「ガルスって、こんなの読むの得意?」
ぱ、と顔を上げると、もう向かいでガルスは居眠りをしている。
仕方なく、目次をひとつひとつ解読していく。どうやら歴史を記したものである。ライのリクエストとは違うように思ったが、この書庫を一通りみた人間の意見なのだから少し確認しようと思った。
「疫病…えっと、な、に、う、い、るす。」
初めて目にする言葉だった。ウイルス、という単語のようだと前後の文脈から推測し、その項を開いて目を通し始めた。
―二十世紀に入り根絶されたものがパンデミックをおこした2060年、止むを得ず罹患患者の完全隔離政策を世界規模で断行、…病理サンプルの命がけの解析で治療方法の確立に至り、隔離先に選ばれた大陸に上陸するも、そこの住人はもはや疫病により衰弱した女性ただ一人を発見できたのみだった。連れ帰り、のち快癒する。それから彼女はいわゆる念動力のようなものを使うようになった。原因は不明。のちに、身ごもっていた彼女は男児を無事に出産。二人は言葉を交わさずとも、意志の疎通ができるようだった。テレパシーだろうか。そして男児が歩けるようになった頃、二人は帰ると言い出した。
もはや無人かと思われ、放置地区となっていた大陸に再び戻ると、そこには住人の姿があった。前回の上陸時に置いてきた治療薬により、かなりの人数が助かったと彼らは言った。だが。女性と男児の受け入れは断られた。彼らにはもはや彼らの社会があるのだと主張する。隔離されて捨てられた我々は戻れないという。
「…なんだろう、これ。」
ライはそこまで読むと思わずつぶやいた。
「変な話でしょう?」
びくっと顔を上げたライと、無表情なガルスの目が合った。
「だって、いつのことかさっぱりわからない話なのになんか妙に現実味があるっていうか。」
そういって、ガルスはまた無表情に本を一冊手繰り寄せて開く。
「あたしが昨日歌った歌、あれも本に書かれていたのよ。で、師匠がそれを歌にしたのよ。不思議な本を見つけてね、師匠はいくつもその本から歌を作った。で、いなくなった。」
その声があまりに悲しそうだったので、ライはかかえる言葉が見つからずにただ視線を投げかけた。
「楽しかったな。ただただ、生活の為に巡業して、旅ばっかりで、危ないこともあったけど、それがずっと続くって思ってた。突然断ち切られちゃったら、もう何していいかわからなくって。終わりなんて全く考えてなかった。」
ガルスはそこで言葉を切った。
「陳腐な言葉で、アタシがライくらいのときには鼻で笑ってたけれど、『失って初めてその価値がわかる』っての痛感しちゃった。それでまあ、ジーマが書庫整理の臨時雇いに声をかけてくれたのね。」
笑っちゃうわよ、こんな有名な先生だなんて知らなくて。
「いい若いものがなに腐ってるのよ!悩む暇は労働で、お金に変えてしまいなさい!」って引きずってこられたからてっきり商人かと思ったわ、とガルスは懐かしそうに言う。
「ねえ、訊いてもいい?」
ライが静かに尋ねる。
「その師匠の人って、…殺された?」
「そうね。」
ジーマに聞いてもらって、やっと受け入れることができた。
「正直、きつすぎて記憶もあいまいになっていたんだけど。でもやっと、体動かして、それをしながら話聞いてもらって。思い出した。」
忘れたままでも良かったかも、と思ったこともあるけど…とさらに言葉をつなぐ。
「師匠はね、っていっても年もあまり違わなかったかも。年齢はとうとう教えてもらえなかった。やっぱり砂漠を旅してたのよ、最期の時も。くだらない盗賊団に目を付けられて。師匠は争いごとは嫌っていたけれど、本当は剣の達人だったのよ?アタシは筋がいいって言われたけど、全然歯も立たなかった。あいつら、師匠のこと辱めようとしたのよ。アタシ殴り掛かっちゃって…師匠には止められたけど。そんなの男として、死んでも見過ごせないでしょう。二対三十くらいでまあ勝ち目なかったけど。…気が付いたら一面血の海で、師匠が倒れてて。介抱したけどダメだった。」
忘れたままでも良かった。でも彼女の最期の言葉は思い出せてよかった。だからジーマには感謝してるの、とガルスは言った。
「彼女の持っていた楽器も、本も、その時お墓を作って埋めちゃった。アタシたちには歌がある。心無いものには伝えられない歌がね。」
とガルスが言った。双眸は強く、深く輝いている。
「でも、なにか形見とか欲しかったりしない?」
ライの言葉にガルスはふんわりと笑みを浮かべて言った。
「そりゃ、欲しかったけど。でも思い出すたびに魂は引き戻されちゃうそうよ。ジーマにも言われたの。大切な人は早く魂だけに戻してあげなさいって。涙や悔恨は、色々と付随するものを澱ませるからよくないって。」
だからアタシは歌だけもらった。彼女の名前も心の中でしか呼ばない、とガルスは言った。
「歌の中に、アタシも彼女も存在する。それでいいわ。」
しん、とした空気に耐えられなくなったのか。
「…惚れるなよ少年」
と言って、ライの本を指差して聞いた。
「その話、どこまで読んだの?」
「ん、まだなんかういるす、ってのが流行って隔離して直して、…で、女の人と男の子は帰れなかったってとこ。」
「おおお…遅い!そのペースならあなた何日かかるか。あとは説明してあげる。」
そういって、彼が語ったところによると。
隔離大陸から戻った女性と、男の子の能力はまた進化した。念動力、テレパシー、果ては瞬間移動まで。どうやら病気と投薬の関係で発現したのではと推測された。そんな折、彼女たちは25歳と7歳という若さであったのに、急死してしまう。神経細胞のひとつまで分析にかけられて、暴きつくされて、そして存在を封印された。彼女たちの存在を知っていた研究者たちは怪死を遂げる。ただ一人、彼女たちの後見人として事実上は内縁の夫となっていた研究者一人を除いて。その男は人であることに絶望し、体を捨て都市を去った
「と、まあこんな話だったわよ。ニューロンだとかシナプスだとかなんか妙な単語もたくさんあったけど。だいたいこんな中身だった。なんか後味の悪い話よね。」
ライは言葉もなかった。何と言うべきか、信じられないような内容だなと思った。
「そんな内容、書き留めて一体どうしたかったんだろう?」
「あら、そういえば一体、秘密にするって言いながら書くなんてどういう意図かしら?」
「っていうか。病気と治療の話では確かにあるけど、もっと具体的なのないかな?」
ライがそういったのも聞かず。
「う~ん、ライの言ったこと、引っかかるなあ。本当に何のための記述なのかしら。」
とガルスは考え込んでいる。とんでもなくマイペースなガルスのことだ、こうなると長そうだ、と諦めて、ライは書庫をあさり出した。
気が付くと、あたりはすっかり真っ赤にそまっている。夕方になったらしい。
サラナーもジーマもここには来ない。
(どうしたんだろうか?)
ライは書物をめくる手を止めて、ガルスに声をかけた。
「ずいぶん、治療ってかかるんだね。」
ガルスはまた、例の料理本とやらを手にしている。よっぽど不思議な内容らしい。少し繰ってはまた戻っている。
「ん~、そうね、長い時も短い時もあるけど、今回はかなり長いわねえ。」
本から目も上げずに、ガルスは返事をした。治療が長引くなら、持参した食材でなにか作ってふるまったらどうだろう、とガルスに提案すると、すぐに同意が帰ってきた。どうやらさっそく料理をしてみたいようで本は手にしたままだ。
書庫から出ると、沈む夕日が赤茶けた建物を真っ赤に染め上げていて目に染みるくらいだった。あまりの赤さになぜか胸騒ぎまでする。
「…ちょっと、いやな感じね。」
ガルスが輝く双眸を、さっと周囲に走らせてつぶやいた。
「なにがどうって訳じゃないけど、急ぎましょうか。」
言うなり、ガルスは駆けだした。ライは慌ててそのあとを追う。
「ジーマ?治療終わった?ちょっと入るわよ、キッチンかしてね。」
そういって、返事も待たずにドアを開ける。途端、真っ赤なものが目に飛び込んできた。夕焼けの中で、さらに黒味まで帯びててらてらと不気味に輝いている。
それは床の血だった。
「ジーマ!返事して!」
言いながら、ガルスは腰に佩いていた短剣を手に取る。
「サラナー!」
ライもとっさに剣に手をかけ、周囲の気配を探る。だが、部屋は不気味に静まり返ったままだ。そして、先ほど皆が座っていた応接間には人影はなかった。
「ジーマは、ここでは治療はしないわ。治療室行くわよ!」
そういって、ガルスはその部屋の書棚の脇のドアを勢いよく開け放った。
そこには、サラナーが血まみれで椅子に沈んでいた。
「サラナー!」
ライは彼女を呼んだ。
明らかに意識はないが、…彼女の手は真っ赤に染まっており、向かいには、無残な姿のジーマが椅子に座っていた。
ガルスは一瞬動きを止めた後、ジーマに近寄り、手首に触れた。
「まだ息がある。ライ、二人を見ててくれ!」
言うや否や、ガルスは風のように部屋から駆け去ってしまった。
「手は尽くしたのじゃが…。」
そういうと、颯はガルスに外に出るよう目で促した。
ここは、ジーマの治療部屋の中だ。簡単なベッドまで、ライが彼女を慎重に抱えて横たえ、全身の血をぬぐい、傷には止血を施していた時に颯は到着したのだった。ライの処置も最善を尽くしたものだったが、全身が重たく血に塗れていた。サラナーのほうは首筋に軽い切り傷があっただけで見た目ほどの負傷ではない。その彼女は今、ジーマの横に寝かされている。
ガルスは颯のあとについて、部屋を出た。
「ジーマは…・」
部屋からは少し離れて、最初ライたちが通された応接室に行く。そこで颯は言った。
「…否。幸い、ジーマ殿も見た目ほどひどい状態ではない。あれほどの出血で、というのが妙なのじゃ。」
「だれか、他にいたのかしら。」
颯はしばらくためらった後で、
「にしても。床一面に出血が散るほど深手を受けたものがそう遠くに行けるはずもあるまい?」
颯の視線の先には、血濡れの床がある。
「妙な話ね。でもジーマは大丈夫なのね。」
ガルスはほっとして、そして颯の視線を追った。血痕の上には、ライ、ガルス、颯の足跡が入り乱れてそこここに散らばっている。
「…ほんとに妙ね。これ、だってあたしたちの足跡しかないじゃない?」
この血痕はなんなのか。そして彼女たちに何があったのか。
「目が覚めた?」
ガルスと颯が部屋を出て、その内容は気になったが二人をそのままにしていいのか迷ったライは二人の枕元に残った。程なくサラナーは目を開けた。すぐに声をかけたが、
「…。」
彼女は返事をしない。ただ、不思議そうに周りを見ている。
「ワイノス、デヴィルズヒルじゃない?」
彼女はポツリと、思わず、といった感じで口にする。
「失敗…か、それともまた、やりなおせるのかな?」
その様子、口調が余りにも普段とかけ離れていたので、ライはただ見つめるのみしかできなかった。極めつけに。
「きみ、たしか、…ライ・ゼンドーくんだったよね。」
とサラナーはライの方を向いて語りかけた。目に少しの曇りもない。だが表情は全く違った。少なくとも、ライの見知った不安げではかなそうな、そんな少女のものではない。
「な…何言ってんの?サラナー?」
ようやく口にできた質問は、我ながら間の抜けたものだった。
「サラナー。か。う~ん。話してもきっと、納得してもらえないと思うんだけどちゃんと言っとく。あのこは消えちゃった。」
ライは無言。それを見て、すまなそうにまた彼女は言う。
「ライの知ってる、サラナーは、ワイノスのデヴィルズヒルってところで回収される予定だったの。そこで、私と入れ替わるのね。といっても私は無なの。すぐに消される役目のナナシ。」
「…なに言ってるの?いつもの、あの記憶が乱れるっていっていた、あれ?」
「ううん。そんなのじゃなくて。…あの子は行ってしまったの。ごめんね。私にもこうなってしまってはどうしようもないの。」
「悪い…い、いや、ちょっと待ってて、い、いや、体は大丈夫なら、居間に行こう?」
ライは遮るように言うと、サラナーの腕を取って立ち上がらせた。その手を不思議そうに眺めて、物言いたげな目を向けたのは感じたのだが、ライは無言で少し力を込めて起立を促した。
「それ以上の説明はできないの。だって、分からなくて。」
サラナーは言う。サラナーだったものは言う。とても困っているように見える。
何を言ってるの?ちょっと、どういうこと?とガルスは詰問するがサラナーには答えようがない。なにもわからないと繰り返す。颯はその様子をじっと見ていた。
「まだきついかもしれぬが、ジーマどのにも聞いてみればよい。その子は嘘は言ってはおらぬ。」
ライもその様子をただ眺めていた。
人は無意識にその人独特の仕草をしているものだ、と剣の師は言っていた。視線の合わせ方、手の動かし方、喋り方、呼吸までも。今の彼女にはサラナーらしさがない。
「…おれ、ちょっと外に出てるよ。」
ライが言うのを、皆止めなかった。サラナーの横を無言で通り過ぎていく。
3人はライを見送ると、ジーマの枕元に向かった。
ジーマはしっかりと目覚めていた。
「治療中に、サラナーちゃん…あの、ライとガルスが連れてきた子は居なくなってしまったの。多重人格と言われる中でも、そんなに急に消滅するなんてこと初めてで、びっくりしちゃって…そうしたら、突然、サラナーちゃん、『わたしたちの役目はまだ終わっていない、余計なマネを!』って天を指さしたの。そしたらあたりが真っ暗になって、居間から誰かの悲鳴が聞こえて、見に行こうとしたら突然突風にでも煽られたみたいに椅子に叩きつけられて気を失って…気が付いたら、こうなっていたの。」
「それは私たちの中でも、統治者、と呼ばれている一番怖い人が出たのです。」
とサラナーは言う。
「私たちは普段、小部屋に居て。隣にはちょっと怖いお姉さんなサラナー、優しいサラナーが居ました。統治者は部屋を開けられます。私たちはちょっとした情報交換しかできなくて。二人のサラナーは入れ替わってよく出ていきましたけど、私は部屋の中でした。開けた時は、死ぬときなんだよ、って統治者は扉の外からいいます。いつもいつも。」
ジーマは、サラナーを見て言う。
「あなたの名前は…ないの?」
「死ぬからいらない、と。」
ジーマは彼女の手を取って、優しく撫でながら言う。
「でも、あなたは今、ここにいるわ。二人のサラナーの真ん中、…ラナでいいかしら、あなたの名前。」
「名前。もらっていいんですか?」
ガルスはそのやりとりを見て、たまらずに外に出た。ライはきっともっと、…苦しむだろう。たった二日を過ごした少女が消えて、良く似た、全くの別人が傍にいることでもこれほど苦しい。
「…なんだってンだ。みんな砂漠に持ってかれる。」
と、夜の帳のおりたジーマの庭園を、ライを見つけにさまよい出た。
「はじめまして。」
そういってぺこり、と頭を下げる金髪碧眼の少女は、ガルスの見立てで淡いクリーム色のワンピースに黄緑色の外套を着ていた。彼女の背後には高い位置に明り取りの窓があり、昼下がりとはいえまだ強い日差しが眩しい。
「ラナ、です。」
そういう彼女に、
「はじめまして、ラナ。わたしはフィーザ・ダイナス、こっちがセルゲイ・アーカムだ。」とフィーザが軽く握手を交わす。
ここはガルスのお勧めの料亭兼宿『踊る仔馬亭』の一室だった。宿の中でもかなり広い部屋を開けてもらい、颯、ガルス、ライ、そしてラナと船長、副船長がそれぞれ思い思いの位置に立ち、あるいはソファに腰かけている。
夜遅くに返ってきた颯に、事件のあらましは聞いていたが、ラナと自己紹介したサラナーは確かに、それほど面識のなかったフィーザとセルゲイも違和感を感じるくらいの変貌を遂げていた。人間は中身だ、とはよく言ったものだと思い知らされる。見知った少女の中身から、それまでの経験に裏打ちされた所作、言葉使い、表情、全てが変わってしまったのだからそれが際立つ。
(以前の彼女と比較されて過ごしていく訳か。)
そう思うと、フィーザの過去の、あの姉の存在が胸の奥に蘇る。何もかもを比較され、生きていくのはかなりつらいものだ。そんなことを考えていたからか、じっとラナを見つめていたようで、気が付くと彼女と目がばっちり合っていた。
(?)
違和感を感じる。何となくだが、一瞬サラナーの印象がそこに宿った気がしたのだ。
「ね、質問いい?前から気になっていたんだけど。」
そういって挙手してみせたのはガルスだ。
「いろんなものを流通させているのが、海運よね。ライ、とラナ、は『アシュアスで本なんか見たこと無い』って言いていたわ。そんなに希少?」
セルゲイが答えて言う。
「どうしてそんなことを?まあ確かに、このワイノスまで寄航する船はそう多くない。乱暴に言ってしまえばうち位だ。そして、本を運ぶのは縁起が悪い。」
「縁起?」
フィーザは答えて言う。
「縁起というのはちょっと生易しいな。統計的にも、ほかの品を運ぶ船に比して異常に事故が起きる。平たく言うと沈みやすい。幸い、我々の船は高名な術師の颯がいるからか、今まで無事故だ。私たちがこれだけの急成長ができたのは、本のおかげと言っていいな。」
「フィーザったらご謙遜~。でも、本って、なんなのかしらね?」
突然ガルスが言い出したことに、皆不思議そうに彼を見やった。
「アタシは砂漠を旅してたから、発掘に来る人たちとも仲良かったんだけど。ちょっと入れ替わりが激しいのよ。仕事を変えた、って説明されたけど。で、またその説明してくれた顔見知りも居なくなって、訊いてみたら稼いだから職を変えたって。で、街にきたら探すんだけど、見かけないし会わないの。」
「…我々に書物を納品しているのは、いつも同じ人物だが。」
船長が口を開いた。
「銀髪に銀眼の。もう五年の付き合いにはなるか…。うちの船がここまで大きくなったのも彼のおかげだ。」
びくっと顔を上げ、声を上げたのはライだ。
「銀髪…銀眼?」
なぜか颯も顔が強ばっている。
「心当たりがあるのか?珍しい風貌だからな。」
「あの、以前言いましたよね?王城襲撃の時に手伝ってくれた時読みの耶須理宇って。」
「ああ、そういっていたな。」
「その人も銀髪、銀眼で、」
「一致するな。」
とセルゲイが言った。
「休業期間が終われば、またその人物―我々にはメタファルクと名乗っているがーと会うことになっている。…ラナには、世話になったしな。我々も休業期間は尽力しよう。」
と船長も言う。
「じゃ、決まりね!食事にしましょうよ。ここはかなり良いもの出してくれるわよ。」
親睦をかねて、とガルスは階下の料亭に皆を誘った。
その夜更け。
ラナとライ、ガルス、颯はそれぞれ別に部屋を取って、踊る仔馬亭に休んでいた。
ここは町はずれの北側に位置しており、一行が向かおうとしているのは南の門外に広がる広大な砂漠地帯だった。砂漠にはオアシスが点在しており、またガルスが最新の地図を持っていることから道行に関しての心配は少なかったが。それでも、ライは夜更け
にふと目を覚ました。階下の料亭は仕舞っているが、宿の入口には汲み置きの水瓶があり、宿泊客はそこを使っていいとのことだった。
実際、いろいろなことがありすぎてまだ気持ちの整理がついていない。
サラナーの事を考えると、何とも言えない苦い後悔が伴う。書庫でガルスが言った言葉が耳に蘇る『失って初めてその価値が分かる』と。
インの元から立ち去る際に彼女が言ってくれたこと。
それから、彼女と過ごしたジェプトでの日々…そう、日々と言える期間は一緒にいたのに、今思うとやるせなかった。あの時見せてくれた気遣いに、もっと素直に感謝すべきだった、もっと、なにか、彼女の力になれなかっただろうか。
「…頭、もっと冷やしてくるか…」
気づくと水差しも持たぬままで水甕の前に来ていた。部屋に戻って外套を着て、庭でも散歩しようと思った。階段を戻りながらふと思いつく。
「そうだ、颯さんも、知ってるのかな、同じ呪術師だし。」
どうも寝付けないようだ、とライは記憶のあった颯の部屋、の前まで来て、扉をたたいた。なかなか返事がない。
(寝てるか…。)
そう思い、引き返そうとしたところ、キ、とドアが開いた。
「あ。」
ライは思わず固まってしまった。ラナが立っていた。
「眠れないの?…中、入る?」
ラナはすっと下がって、ドアの中に誘う。
「あ、あの、ごめん。颯さんのところに行くつもりが間違えちゃって。」
正直言って、一番会いたくない相手だった。どういう態度で接していいか分からない。
「…そう、だね。ごめんね。…おやすみなさい。」
ラナはまた一歩下がって、俯く。全くその表情は見えなくなった。だが肩が少し震えている。思わずライは一歩踏み出してしまった。彼女が下がった分を詰めるように、無意識に。
「やっぱり少し、話していい?」
「…う、ん。」
ラナの声が震えていたので、それでかえってライは彼女に近寄り腕を取ってしまった。
「話、しよう。だってほら、あったばかりだし。」
もっと気の利いたことが言えれば良いのだけれど、とライは思う。でも繕ったり、遠慮したら、…また気づいたら手遅れになるのかも知れない。
「おれはさ、うまく言えないけど…後悔はもうしたくないんだ。」
手を引き寄せながら、独り言のように語りかける。
「せっかく会ったんだし。明日からは砂漠へ行く旅が始まる。ちゃんとお互いのこと信頼できたほうが、きっといいよ。」
ふっと、彼女の手に力がこもる。抵抗された。
「どうして」
かすかな、ききとれないくらいの声でそう呟く。
「どうしてそんな…みんな優しいの?」
その声はもはやはっきりと泣き声だった。
「だってあたしはサラナーじゃなくて。サラナーはいい子だったでしょう?だってあたしは何かのために死ぬことになっていて、そのためだけのやつで、名前もなくてほんとうは。」
気が付くと、ライは彼女を抱きとめていた。突然の抱擁に、少し声を荒げていた彼女が押し黙る。
「そんなこと、考えなくっていいよ。」
ライは優しく、いたわるように言った。
「今、心配しているのは、ラナのことだよ。ここにいる、ラナのことだよ。」
できるだけ優しく言った。
彼女は身を預けて、静かに涙を流していたが、しばらくして小さな声でありがとうと言って、とん、と手をついて離れた。
「明日、準備の買い出しだったよね、今日はもう遅いから寝よう?」
少し距離を置いても、彼女の頬は薄く赤みがさしていて、とても綺麗に見えて。サラナーの面影が重なり、ライは今夜は眠れないだろうな、と思った。
「なにあくびしてるのよ、この色男!」
とガルスに格別に重い干し肉などの加工食品の束を持たされ、ライは派手によろめいた。
「ちょっと、こんなに持てる訳ないだろ!」
と思わず言うと。
「昨日は何をしてたのかな~?さっきからぼんやりしちゃって、二人とも。」
ラナは少し離れて歩いていたので聞かれてはいない。
「何もしてないって。水くみに行ったら迷って戻れなくなっただけだよ。」
それは情けないことに、半分は真実だった。
昨夜は自分の部屋に戻る前に、うっかり空き部屋に三回、見知らぬ客のドアをたたくこと一回、をした挙句に当初の目的だった颯の部屋についてしまったのだった。早起きすぎる颯はちなみにもう起きていた。
「銀髪、銀眼のものなら心当たりはある。」
と颯は教えてくれた。遊多という名前で、結社では癒し手、攻撃手どちらにも友軍扱いで付く。神出鬼没で結社においても名前もあまり囁かれていない。実際は最高責任者クラスの術者であり、表向きは政治不干渉な結社においてもあまりに横暴な一件には秘密裡に対応しており、それが、遊多なのだと。
「にしても…おかしくない?」
とライは疑問を口にする。
「アシュアスからこのワイノスって、一番へだたりがあるのに、ここで本を流通させる大元を仕切るなんて無理じゃない?」
ライも結社の力は知っている。だが颯の所属しているのはアシュアス内の結社の本部だ。移動に関しては船が一番早いはずで、しかも最速であろう船は現状『ニケ』のみだとは聞いている。昨夜セルゲイ自身が言っていた。
「他言はせぬ、と誓えるか?」
と、颯はためらいがちに口を開く。
「おれ、結社の知り合いなんて今回知り合った颯と、紗羅さんと、故郷で世話になったヤスさんくらいだ。それに指名手配中。」
それを聞いてもなお少しのためらいを見せて、颯は言う。
「遊多は、時を止められる。そして望みの場所にすぐに行くことができる。」
と言った。
「これを知っているのは、結社の中でも私の知る限りは自分を含め三人。紗羅どのも知らぬ。」
とも。
「私は…この一連の出来事がライの件からずっと、仕組まれていたのではないかと思う。」
更に、颯はにわかには信じられないことを語った。
颯にも、結社には表向き把握されていない力―蘇生能力があること。ただし、誰かの命と引き換えを願わなければならないこと。ほかの二人もそれぞれ『記憶を操れる』こと、『無から物を作り出せること』を教えてくれた。だから、遊多は元から『指名手配および事件自体を無かったことにできる』力を持っていること。そこから考えると、やはりライの事件は仕組まれたものだはないかと。
「じゅあ…母は死ななくてもよかった?」
ライにとってはそのことが一番の裏切りだった。あの時、ともに泣いてくれたヤスさんが。手立てを持っていながら母を見殺しにしたのか。
「分からぬ…すべて推論でしかない。」
ライにはどうしても実感がわかなかった。ヤスさん、と呼んでいた。近所にふらりと引っ越ししてきた時から、家族ぐるみで親しくしていた。剣の師、夷庵とも旧知の間柄のようだったし、旧交を温めにきた、という言葉に何の疑いも持たなかった。
しかし、そう長くはなかった。その時間は一年くらいだったと思う。最期はばたばたと分かれてしまった。
「でも、なんでそんなこと?」
それほどの力を持ちながら、ライやヨリュウの惨状を救えなかった、いや、あえて救わなかった?それとも首謀者だった?いずれにしてもそれは「なぜ」なのか。思い当たることは何もなかった。
「私も、今回の件だけでなく遊多には確かめなければならぬことがある。」
と、颯も固い表情で言った。
「なに、ぼんやりしてんの、やらしい。」
はっとして目の前の声の主に注意を向ける。我ながら、どうもぼんやりしている。思考は昨夜の会話に常に引き戻されてしまう。だが、今は考えても仕方ない。お互い現状で交換できるすべての情報は披露したのだから、これ以上考えても結果は同じだろう。
「ん、なんの話してたっけ?」
ガルスが呆れて言う。
「だから!荷物はアタシたちが持ち帰って昨日の宿で荷造りって言ったでしょう?足も止まってるわよ。」
言われてやっと、皆が随分先を歩いているのに気付いた。
「アンタは方向音痴なんでしょうが。ラナから聞いたわよ。」
え、とライが反応したのでガルスの方が逆に驚いてしまった。
「ラナが?ほんとうに?」
ライは、ラナの前ではそんな状態を見せていないはずだ。
記憶の共有はほとんどない、とラナ自身は言っていたはず。
どういうことなのだろう。
「砂漠、行かなくてもいいんじゃないかな。」
傍らのラナは驚いてライを見た。
「だって、こんなに色々起こってるんだよ?なにか分かるも知れない。」
そういうラナの意見ももっともなのだが。
「でも、知って、なにか変るようなことかな。」
ほんとうに訊きたいことは他の事だったが、ラナは嘘をついているのかと言わんばかりの内容である、傷つけることは明白だ。もどかしい。会話の相手はほんとうはサラナーのままなのではないか、との疑問は。
「砂漠に行かなければ、って言っていたサラナーは居ない。ラナが居る。砂漠で死ななければいけない、って思っていたけど、砂漠に着く前に思い込みは解けて、今の状態になった。ならこのままでも誰も困らないじゃない?」
「それはそうだけど…でも、みんな不思議に思っているんだし。行ってみても良いんじゃない?」
ライは少し考えて加えた。
「危険かもって思うんだ。すべての事が砂漠に向かうよう仕向けられているんなら、向かってしまえばもう後戻りできないんじゃないかって。」
「そうかもしれないけれど。でも皆、準備してくれてるし。やめたら後悔するかも。」
そういうラナの意見も尤もだ。
「ん。まあそうか。ところでラナって、強く感じたことしか記憶にないって言ってたけど。どれくらいのこと覚えてる?」
突然話題を変えたことに不信感を抱かれたのか。彼女は口を閉ざした。やがて少し口ごもりながら言ったことは。
「あんまり、覚えてないんだけど。記憶にあるのはインさんって人に会っったこと。あとモデルのこと?なんかすごくどきどきしてた。」
「そうだね、あれ、引き受けてよかったよ。」
彼女の瞳は少し揺れた。
「そう…いいなあ、わたしもそんな経験できるかなあ。」
少しの動揺は見られたが、…やっぱり良くはわからなかった。これ以上知らない記憶の話をするのは気の毒か、とライは話を逸らす。
「そうだ、ラナってこんなのつける?」
ライが取り出したのは、小さな銀の髪飾りだった。真ん中に5弁の大きな花、左右には小さな花があしらわれている。銀細工でどちらかと言えば素朴な構図だったが、所々に緑に輝く石をと、紫、赤い石が散りばめられて可愛らしい。
「え。」
そういって、ラナは手を出そうとはしない。ライはさらに手を差し出しながら、
「おまけで貰ったんだけど。ほら、今回すっごく買い物したから、店の人がおまけにくれたんだ。」
それには少しだけ真実が混ざっていた。実際は、ライが選んで買い物ついでに値切ったのだった。ジェプトでのサラナーは、叔父の元でかなりの贅沢品に囲まれていた時期もあったそうで、装飾品に関しては船長にも一目置かれるほど目が肥えていた。ライが軽く選べる程度の品では受け取ってもらえないのではないか…と思っていた。だが彼女はどうだろうか。ふっと見つけた、素朴でかわいらしい色合いの品を見つけて、思ったのだった。紫水晶、ペリドット、ザクロ石が入っているからちょっとしたお守りにもなるよ、と年配の店主は言っていた。そんなことを考えながら差し出していると。
また、瞳がさっと陰ったように感じられた。ほんのわずかの間、悲しそうにしたのだ。
でもそれは見間違いかと思うくらい一瞬で。彼女はうれしそうに、その髪飾りを眺めていた。
「おまけ?…って、こんなに綺麗なの?」
明らかに触って確かめたそうにしているのに、まだ手をだしては来ない。
「だって、本当に一杯買い物したんだぜ?みただろあの大荷物」
そういって、大げさに腕を広げて見せる。ついでにすっと彼女の髪にさしてしまった。
「うん、似合うよ。あれだよ。誕生日プレゼントみたいなものだよ。」
そういって、自分でも照れ臭くなってしまい。
「さって、じゃあまた荷造りしてくるよ!じゃあまた明日。」
とその場を去った。気恥かしくて彼女の反応は水にさっさと引き揚げてしまった。その場に残ったラナは、しばらくうれしそうにしていたのだが。
ふっと、無表情になってつぶやいた。
「…いいな、ラナ…」
それはほんの一瞬で、彼女はまた、うれしそうに髪を触る。
その日は晴天だった。出発の朝にふさわしいとガルスは上機嫌だったが、ライの表情はどことなく冴えない。
ラナは、本当にサラナーの記憶を少ししか持っていないのか。
では、先日のような一言をガルスに言える訳はなかった。
など考えていると、いつのまにかガルスが至近距離で覗き込んでいた。
「なんか、昨日からおかしいわよ?ライも、颯さんも。」
「颯さんも?」
訊き返すと、ガルスはこくこくと頷いた。
「そうよ。おかしいの。だって、なんか別人みたいよ?あの面白い言い回ししなくなっちゃったし、考え込んでるし。」
そういえば、一昨日の夜もそうだった。
「なあんか、好きじゃないなあ。深刻な感じがどんどん濃くなってきちゃって。砂漠は明るく歩きたいのよね。辛気臭いのって縁起悪いわよ。」
ガルスは砂漠で師を亡くした、と言っていたのを思い出した。
確かに、悩んでいても仕方ない。もう向かっているのだから。と思って改めて一行を見回す。ラナがいた。髪に昨夜の飾りを挿している。気に入ってもらえたようだ。淡い髪の色に銀色の花は良く似合った。
「プレゼント?気の利いたことをするのねえ、以外と。」
ガルスが目ざとくライの視線を追って、にやにやとからかってくる。
「なかなかいい趣味じゃない?ちょっと子供っぽいけど。ま、ライくらいの年ならあれが限界かな?」
そう言いながらもたれ掛ってくる。
「重たい。それにうるさいっての。いい大人がお子様をからかうなっての。」
「おや、言うじゃないの。昨日よりは元気になったみたいね。」
そういうと、こんどはセルゲイの元に行く。
「ねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど?」
と、さらっと、何のためらいもなく。
「どうして、船長のことちゃんとしない訳?」
ときいた。
「はっきり言って、なに遠慮してる訳?アタシは砂漠に慣れてるから言うけど、何が起こっても不思議じゃないんだからね?」
と、加える。本人はすぐ隣にいるのに。
「なんの話だ?」
案の定、フィーザが固い声で割り込んでくる。
「なにって。いつ死んでも、後悔のない状態ってのが船乗りの基本形だと思っていたのにな、って話。二人とも全く。」
「何?」
ぎ、と空気が軋む。一触即発の雰囲気だ。
「ほら、なによその反応。明らかに変じゃない?なにか身に覚えがあるんでしょう?」
「…何を言っている?」
フィーザは落ち着いている。まっすぐにガルスを見つめて問う。
「砂漠ではね、ためらいが人を殺すから、だから。」
それが何を意味するか分かるわよね、とガルスが言った。
「考えておく。」
そう、答えたのはセルゲイだった。
そして一行はガルスの案内で順調に進んで、時刻は夜半。
砂漠の夜はとても冷える。日中の酷暑ががらりと反転して、吐く息も白い。
二人づつ、交代でたき火の番をすることになり、最初は颯とガルスだった。
「砂漠は、死者を蘇らせたりして、躊躇いのある人間を取り込むのよ。」
ガルスは言う。颯が問うたからではあったが、夜更け向けの話ではない。
「不思議なんだけれど。躊躇う人にはとっても現実的な姿で、死者は現れるのだそうよ。」
「それは…罪悪感と過酷な環境が見せる幻?」
問う颯の声は静かだ。一昨日から全く、口調と纏う雰囲気が違う。服装も、簡素な旅行者用の濃い茶色一色のものに変えている。
あのぞろっと長い黒マントは?と出発時に顔を合わせた際に訊いたら、『あれは師匠のものだから知人に託した』と返ってきた。本当は、マントのほかに重要なものを言付ていたが、それを口にするのは野暮だろう。
「そんなところかもしれない。でも死者は死者。アタシはここで亡くした師匠をしばらく見たな…本当に、辛いわ。だからあの二人は吹っ切るに越したことはないと思うんだけど。」
そういって、ガルスは離れたところに眠るセルゲイとフィーザを眺めた。
「こう見えても、アタシは客商売長いから。あの船長が、女なのにそんなそぶりも見せまい、ってしてるのはすぐわかる。いろんな人間見てるのよ。間違えようもない。」
何に遠慮してるのかしらね?とガルスか首をかしげる。
「人は…、人は、そんなに割り切れるものじゃない。無くした、と解っていても、刹那の夢にこそすがってしまい、目を閉ざしてしまうこともある。」
そういって、颯はじっと火を見つめる。
「俺は…見ないで済めばいいんだが。それを望まない俺もいる。」
そういって、口を閉ざす。
それきり、二人の間には沈黙が流れた。空からは、刺すような冷たい星明りが降り注いでいる。
「ライは…あの、死者が蘇るって話、信じる?」
唐突にラナが問う。
「死者は、死者だよ。埋葬されて、弔われたものだよ。もう終わってしまっている。」
ライが答えたのは明らかに、母のことだと感じられる、だがラナは知らない話だ。
「そうよね。でも。終わりは概ね、唐突で、そこには未練とか、悔恨とか…なにか後ろ暗いものが付きまとっているんじゃないかしら。」
「ラナ?」
「唐突に断ち切られたものは、きっとみっともなく足掻いて、少しでも、ほんのちょっとでも、もうすぐそこに終わりがあって、それは一瞬だけの回避で、逃避だって解っていてもそれでも縋ろうとする。そして周りを巻き込むのよ。蟻地獄みたいよね?巻き込んで、吸収して、なぎ倒してもまだそこにこだわって。」
今や、はっきりと彼女は
「サラナーだ。」
ライの静かな断定に、彼女は寂しげな微笑みで答えた。
「…多分、あなたの思うサラナーとは全く同じではない。サラナー、あなたの道行であった彼女は厳密な意味では居ないから。彼女は吸収されてしまった。ラナの言う、管理者である私に。」
そういって、彼女は髪に挿した飾りーライがラナに渡したものだーをすっと外し、ライに差し出した。
「これは持っていてくれないかしら?私のではないから。」
勿論、またラナに変わるから、その時に返してあげて。と彼女は言う。
「私こそ、幽霊みたいなものというべきかしら?」
と言って自嘲的に笑う。その表情は悲しいことに、見知ったサラナーのものでは確かに無かった。
「この砂漠を超えたら。この、道行の目的、どうして私は死ななくてはならないのか?を知ってしまったら私は消える。」
正確にはどういう状況になるのかはわからないけれども。でももう疲れたわ。と彼女は言う。
「ラナが居てよかった。だってサラナーは消えてしまったし、私はサラナーのマネができるほど綺麗じゃない。」
どういうこと?と問うと、彼女は答えた。
「ジェプトで、叔父が言ってたでしょう。もうこんな仕事はやめればどうか、と。その仕事はね、主に、暗殺。蒼の悪魔って聞いたことない?あれ、私たちなの。各地に、小さいけど支部があってね。私はジェプトの所属。まあ、ライのケースみたいな、結社は手を下せないけれどもあんまりひどい事件の、敵打ちとか請け負っていた。」
さらっと、彼女は言う。それなりに意義も感じていたと。
「だから、叔父と話しているときのサラナーは私。…だいたいね。時々、あの、あなたの記憶にあるサラナー。でもね、あの仕事、始めたきっかけは私にも実はわかっていない。」
ライには全く、どうとらえていいかわからない事ばかりだった。
「え…でも、叔父さんと話していたのはほとんど君だったって?じゃあ、…結構一緒にいたよね?」
彼女はその問いに少しうろたえる。
「…そうね、少し、だけ。」
妙な歯切れの悪さ。それでライは確信した。
彼女は嘘を言っている。おそらくもっと、ライといっしょに過ごしているはずだ。サラナーとして。
「はっきり言って、おれには、良くわからないことばかりだけど。でも、なんていうか?それ大事なことかなあ。」
「…ライにとっては得体の知れない私が、なんでもかまわない興味ないってことかしら」
サラナーは言う。ラナではないが、サラナーでもないと述べる彼女が、言う。
「いや。…目の前にいるじゃない。なら、俺はもう、それでいいよ。とにかく、世話になったし、待ってる人が居るだろう?守るよ。変わらない。それはラナが、サラナーが、君が、なんであっても変わりない。」
サラナーは顔を背けた。ライはそっと、元通りに髪に飾りを戻す。
「お休み」
と言っても答えはなかったが、肩が細かく震えていたので毛布を掛けて離れた。
ライは交代のセルゲイとフィーザを起こした。
「ガルスが言っていたこと」
フィーザが独り言のようにたき火を見ながらぼそっとつぶやいた。
「確かになんでも、起こりうるかも知れません。…航海も異常ばかりでしたし。」
セルゲイの口調も重い。沈黙が、長く続いた。
「ウィーナは。」
唐突に言葉を発したのは、フィーザの方だった。
「わたしの、物心がつく前から…良くしてくれた。自分のことは置いてまで。で、あんな死に方をした。…だから私は、彼女が得るはずで、そして得られなかったものは遠ざけて生きようと、決めた。」
「それは違う!」
唐突だった。セルゲイは強く遮った。
「彼女はそんな人間じゃなかった。フィーザ…そんな風に思っていたなんて。」
セルゲイは、彼の知る真実を語った。
彼が、フィーザとウィーナに会ったのは、実に十年も前の事だった。
彼女たちはセルゲイの家に召使として抱えられた。
二人ともとても美しい銀髪で、姉は青い、澄んだ目の少女だった。
だがフィーザの容貌の類まれなことは、美しい姉ウィーナと並んで一層際立った。召し抱えられたのは姉で、フィーザは姉に養ってもらっていた。
姉、ウィーナはとても利発で朗らかで、周囲の評判も良かった。そして、滅多に表に出ないフィーザには並以上の教育を与えていた。自身は働き、妹の面倒を見る。そんなほほえましく仲の良い姉妹だった。
実際、セルゲイも思っていたのだ。事が起こってしまうまで。
「本当に、偶然でした。彼女が決して周りには悟らせずにやっていたことを、見てしまったんです。」
そういって、なおセルゲイは言いよどんだ。
「死者の冒涜と言われても。これは、貴方に言わなければならなかった。…彼女は、父と関係していました。」
フィーザは傍目にもはっきりわかるほど、その一言に衝撃を受けた。
「でも、…ウィーナはお前と…?」
と。小声で、絞り出すように言った。
「彼女は、私と婚約してました。でも…私からは、彼女にはそういった感情はどうしても抱けなかった。父に決められたんです、あの婚約は。」
そして、フィーザには今まではっきりと言ったことのなかった、もう一つの真実を口にする。
「彼女は、あなたの姉ではなかった。貴方が捨てられていたのを、彼女が拾って、育てて、その類まれな容姿を利用してきたんです。美しい姉妹の、美しい姉。自分の得たいものの為に、あなたを育ててきたと言っていました。」
「嘘だ!」
突然、フィーザはセルゲイに掴みかかった。
「恵まれて育ったお前になにが分かる!確かに物心ついたときには彼女と二人だった、だが、彼女はそんな…下劣な人じゃない」
「彼女自身が、われわれに言ったでしょう。」
セルゲイはフィーザの胸元にかけてきた手はそのままに言った。
「あなたたちが暮らしていた、使用人棟の一角が燃えましたね。あれは、事故じゃなかった。彼女が放火したんです。」
「!」
「彼女は、私に言いました『わたしの望みは全て、フィーザ、に。私は自己犠牲をして彼女を慈しんでいたんじゃない。彼女が魅力的であればあるほど、人はまず私、姉の私に近づき、きっかけを作る。そこで私は私の有利になるようにふるまうの。あの子への関心が、私にも向くように。でもあなたはだめ。どうしても、あなたはまっすぐにあの子だけを見る。私には一瞥もくれない。もうあの子は、要らない。』と。」
そこで、セルゲイはまた言いよどんだ。胸倉をつかむフィーザの手は震えていたが、…確認の一言を放つ。
「あなたもその場に、居ました。…かみ合っていないと思ってはいましたが、確信しました。あなた、彼女の言葉を全く覚えていないんですね。」
フィーザの手が激しく震えて、滑り落ちる。
「…そ、ん、な。」
彼女は呻くように言った。
「でも、彼女は。」
「そうです。ウィーナは、危ないところであなたを助けました。そして自分は火の中に取り残されて。彼女の言ったことは真実と思います。そしてあなたに嫉妬し、また、憧れもしていたのでしょう。…あなたはそんな彼女を、美化して、記憶の不都合なところは忘れてしまっていたのでしょう。」
「…。」
「もう、いいじゃないですか。…縛られるのは止めにしましょう。」
セルゲイが言い、そっとフィーザの手をとる。
「あなたと、ウィーナは姉妹で、助け合ってきた。でも分かり合えないところもあって。しかし、今はもう、悔やんでも、問いかけても、解きほぐせないものです。」
「…少し、頭を冷やしたい。先に休んでもいいか?」
とフィーザはやんわり彼の手を解くと、視線を避けるように俯いて背中を向けてしまった。
「おやすみなさい。」
とセルゲイは声をかけたが、答えは無かった。
そんな夜を重ねるうちに、一行は目的地に近づいていった。
砂漠は、果てもなく、澄んで清澄な佇まいを見せているとも言えた。
日中は皆、言葉すくなに歩く。所々にオアシスがあるとはいえ、砂漠の水源は確実ではない。以前の情報をそのまま信じて進むのは危険だった。極力、消耗を抑えて、無言で酷暑をやり過ごす。
「きつかった?もう明日には着くわよ。通称、デビルズヒル。」
ガルスが言った。それは夕食時で、随分軽くなってきた食料の点検と調理をしながらのことだった。
「まあ、アタシも初めてのところだから楽しみね。噂じゃとっても綺麗な岩山みたい。」
夕日と朝日がそれはもう、綺麗なんですって。と。
「そっか。なんか思ったより早かったって感じ。」
「そりゃ、あんたが旅慣れてるからよ!でも旅慣れてる方向音痴ってうさん臭いわ。」
とガルスが乾燥させた肉を薄く切り分けながら言う。
「ラナは?きつかった?」
ガルスの失礼な物言いは無視して、ラナに話かける。
「え…?うん、私も思ったよりは早かった。」
そういって荷物から水筒を取り出し、残りの確認をしている。
その仕草がなにか躊躇っているようで、ライは気にかかった。
「本当に?なんか疲れてない?」
そのやり取りを聞いていた、颯が二人には気づかれないようにガルスを引っ張って、距離を置く。
(なによ?)
と目で問うと。
(あの二人と、船長たちは少し二人きりにした方がいいんじゃないか?)
と唇だけで伝えてくる。
(そうね…目的地は明日着くし。なんか2組とも重たいもんね?)
ガルスも気にはなっていた。適当な理由はなにかあったろうか?としばらく考えたが。
(じゃあ…ちょっと寄り道しましょうか?)
と小声で囁く。
「んじゃあ、あたしたちはちょっと薪になりそうなもの探してくるわね!」
と言って、切り分けていた干し肉をラナに託すと、颯を連れてその場を離れた。
「颯は、知ってたわけ?あの船長のこと。」
そもそも、あなたって実は有名人でしょう?なんで船のガードなんてやってるの?とガルスは尋ねてした。
「そんなことより、寄り道とはどういう予定だ?」
と颯は質問で返す。
「あ二組と別れたら、必然的に余りは我々だし。話すことがあればその時でいいだろう?」
とも。
「それもそうか。で、寄り道なんだけど。」
そういってガルスは地図を示す。明日には到着するデビルズヒルの傍らには、噂ではとても奇妙な建造物があるというのだ。
「ええっと。あの、ジーマのうちのような大きな建物なんですって。で、なんか平べったくって、白いって。」
砂漠に埋まるような白さ、卵みたい、とガルスは表現する。まあ、噂なんだけれどもと。
「そこの探検でもしてみない?砂漠観光ってことで。」
とガルスは言う。食料も余裕がありそうで、あと数泊増えても差し支えないとも。
「デビルズヒルは赤褐色の岩山と訊いたが。その傍らに、白い建物か。」
と颯が少し考え込む。ふと目に着いた灌木を拾い、戯れに砂を掻く。
「では。そう提案してみるか。なにかその建物にも収穫があるかもしれない。」
と。
その建物は、ジーマの住んでいた赤褐色の建物並に広かった。全体的に卵を伏したようなつるりとした形。平たく横に伸びている。
「確かに見たこともない建物だな。」
とセルゲイは言う。
「なんとなく、見覚えあるなあ。アシュアス大陸の砂漠にもこんなのあったような。」
とライが言う。
「じゃあ、三組に分かれて探検ってどう?今はまだ昼だし、明日まで各自気ままに観光しましょう。朝、ここに集合。この入口で。」
さらっと言って颯の手を引いて、ガルスは右手の方にさっさと進んでしまった。
柱が多く、入口から三叉に分かれていて見通しは悪い。探検、探検~!と言うガルスの声は遠ざかっていく。
「我々も行きますか?」
セルゲイはフィーザをそっと押して、左側に誘う。
「じゃあ、おれたちは真ん中まっすぐ!」
ライはラナを誘う。
「まっすぐって…そこは逆。」
と言ってラナはライの腕を取った。
「なんかここ、変な感じね。時間つぶし観光ってのじゃ済まないかも。」
とガルスが言う。
「そうだな。なんだ、この奥行。地下何層まであるんだ?」
という颯も、まばらに生えている草を手折り、術を吹き込み明かりをともす。
「…呪術師って便利ねえ。ねえお金とか作れるの?」
とガルスは何度目かのくだらないことを口にする。
「そんなことをしたら厳罰が下って、結社から永久追放。力も無くす。」
でも考えたことくらいあるでしょう?とまた言う。
「それはないなあ。なぜか金には困っていない。」
と颯も他愛ない会話を交わしている。ふっと、突然術の明かりは消えた。
あたりは暗闇に閉ざされる。
「え、なにこれ?」
ガルスが言う。
「術が聞かなくなった」
と颯は言う。
カチ、とかすかな音が聞こえた。
―――ようこそ。黒き民の末裔よ。
そう、建物自体が鳴動するかのように告げた。
「ゲームのはじまり。」
ラナが…ではなく、砂漠の夜にライと話した大人びた少女が言う。
「本当は、ラナが死ぬのではなかった、私でラナでサラナーが死ぬ。死ぬ、死ぬ、でもまだ終わらない、また続くんだった。私たちは死ぬ、なんで、なんかいも、なんかいもなんかいもあああああ!」
彼女は絶叫してそのまま弾かれたように駆けだしてしまった。
なぜ取り乱してしまったのだろう。
建物全体に響いたあの声がきっかけだったようだ。
あの声はなんだろう。それより、自分たちはここに誘導されたのだろうか。
―――とにかく今は彼女を探そう。
そう決めて、ライは気配を探った。
不思議なことに、平時はこれほどはっきり感じられない他者の気配がそこここに色濃く感じられる。建物自身に巨大なクモの巣でも張り巡らされたかのように。
更に、クモの巣の連想の糸に血が通い、皆を縫いとめていくような感覚がまとわりついて離れない。まるで巨大な何かの生物の体内に紛れ込んでしまったかのようだった。
あの声、なんなのだろう。
(ゲームについて、こちらだけが知っているのも不公平だな。もうすぐ、君たちの協力者が来るよ。それまで、私からの説明を君たちにしよう。)
まただ。直接頭に響く。
(君たちは、追放された民なのだよ。黒き民、と我々は命名した、100人にも満たない雑多な民族の集団で…皆一様に、シンパシー能力が異常に高かった。他者と共感する能力だ。今、君たちの世界では呪術が使われているだろう?あれがその能力の最終形態のようだね。)
なんだか耳障りな声だった。聞き取りやすくて発音も明瞭なのだが。
『ガルスの歌の方がよっぽどいい』と漠然とライは思った。サラナーの気配は一定速度で遠ざかっているように感じる。追わないと。
(その共感能力は、いったいなぜ、人に備わったんだろうね。我々は、そんな能力は退廃を招くと判断した。新たな可能性だと主張したものは居たが。しかし新たな能力など何になる?考えてみてくれ。化学は哲学から新たに分化し、そして地球の寿命を短めた。未分化であったらどうだったろう?)
なんの話だ、カガクとか、チキュウとか。聞いたこともない。そんな単語がつらつらと流れては頭に入り込む。
(もう、進化など不要だ。必要なのは安寧、平穏、なにより差異なき世界だ。宗教の違い、人種の違い。能力の違い。それらが戦乱と荒廃の引き金でありつづけたことなど明白だ。だから我々は、黒き民を抹殺することにした…だが、あの男が逃がした。)
相変わらず、不快な声だ。平坦すぎてなんの感情も見いだせない。
(あの男こそ、全て感情を統御し、無慈悲であったはずなのに。なぜ抹殺命令を無視し、新天地まで導き、今日まで守り続けていたのかわからない。…余興として、千年、時を与えてみたが、選んだのは)
なせ、そこで言葉を切るのか。続きは聞きたくないような嫌な予感がした。
(こちらの傀儡を手駒に加え)
ああ…サラナーのことか。
(心の傷も癒えない少年と)
俺のことか。
(過去に目を閉ざした女と。)
(盲目的に守る男)
(強い力を持ちながら、何一つ得られなかった男)
(そして、過去を振り返らない残酷な男)
どくどくどく。と建物内の気配が濃厚になった。いや、自分の鼓動が早まって内耳にこだまする音かも知れなかった。
(そんな君たちに、いったい何を託そうというのかな。余興にしても、これでは…ね。)
声が初めて歪んだ。蔑みの色を感じる。
(悲しいことだ。結果は明白。やはり少数のうちに抹殺すべきだったのだ。君たちは生贄だ。黒き民たちも滅ぶが、君たちには過酷な最期が待っている)
耳を劈くような轟音。そして意識が暗転した。
――コロシアムがいいか。
――いや、最期の一人まで戦い合わせようか。
――キメラがいたな。あれと戦わせよう。
――いや、きっと真実を突きつけるだけで彼らは壊れるよ、…そうか。
なんだというのか。これは俺の記憶だ。死ぬときには過去の記憶が蘇るというがそれだろうか。目の前には母が横たわっている。母はまだ意識がしっかりしている。俺は他愛ないことを話しかけ、母はおだやかに微笑む。そして、次の場面では。俺は、父と家を後にする。時間差で発火するようにヤスさんが装置を置いてくれた。母は、昼間近所の人が手向けてくれた花に埋もれるように眠っていた。父は去りがたそうに母の死に顔を見ていた。夷庵が、父の背中に手を添えていたことを覚えている。三人の間には、なにか深い縁があるようだったが…いつかわかるだろうか。そして場面は変わる。城の闇を縫って駆ける。目についた部屋は豪奢で、そして幼い王子、王女が居た。母の膝に、おびえて縋りつく小さな手。…こんなことをしたい訳ないじゃないか。心で失った母を想って泣いた。たしか、逃げなさい、と言われた。側室の部屋だったのか、気取らない女性が多かった。辛酸をなめてきたであろう彼女らは憐憫の眼差しをライに向けた。誰かがまた言う。あなた、逃げなさい。こんなことをしても何もならないと。成功しても何にもならないと。そのときかっと血が上ったのを覚えている。そうだ、何にもならない。父が刀を献上するのを拒否したところで。母の遺言を守って、辛いことを何度も思い出しては一人苦しんだことも。サラナーを、守ることも。
そうよわたしにはなんの価値もない。そこで意識はあいまいに歪む。なにか別の映像にすり替わった様だった。夢に似ている…とライ、いやサラナーは思った。まるでライになったみたいだった。そう感じた夢。他人の価値観、他人の感覚、他人の感情から外界を覗く感じだった。それは何度も繰り返してきたことなので、サラナーには馴染みすぎて何が真実かわからなかった。確かここで何度も回収されていた気がする。そうだわたしは繰り人形だった。最初はなんだったか。心中した私を私が回収してゆく。戦争に焼かれた私を私が回収する。そのたびごとに私は読み捨てられてまた一から生きる。何のためにとかは。最初からない。色々な記憶をつめこんだたくさんの私が回収拠点に放り込まれる。記憶を読まれて共有される。そうか私は本だった。ここの住人の生きた物語で血肉のフィルターを持たされた、本。愛された記憶、慈しむ記憶、灼熱の記憶が、ライの記憶が渦を巻く。ぐるぐるまざって、ぶつん、と黒く途切れる。
黒。彼女の瞳は確か淡い青で、黒くはない。でも黒い。底なしの沼のようだ。あなたさえいなければ。血を吐くような呪詛の言葉にふさわしく。炎の乱舞の中、極彩色の赤の中でさえ、その瞳は果て無く暗い。そして、黒色のドレスのレースの繊細な細工さえ見える至近距離にその手が伸べられ、彼女の背後は燃え盛る赤。彼女は確かに私を誘って背後の地獄に向かうつもりだ。そこで、背後から巻きつく力強い腕の感触。闇色の瞳がすっと、澄んだいつもの青になり。そして、彼女は述べた手を自らの体に巻きつけて踵を返した。振り返りはしなかったが、垣間見えた横顔は泣いていた。それを見て、私は腕を振りほどいて追いすがった。両腕を限界まで伸ばして、ウィーナを捕えようと。両腕を炎にくべたが、彼女は、大事にしていたブローチを炎の中から投げつけてきた。来るなと叫んだ彼女の、そのブローチは、私がねだっていたものだった。
一端引き留めた命はまた失われてしまった。その代償を今払うべきなのだろうか。戦禍の中、彼女は傷を得、そして助かることを拒んだ。なぜだったのだろう。そんなことも分かってくれない、そんな貴方のもとにいるのは辛いのよ。分かり合えない絆なんてただの押しつけ。物言わぬはずの彼女の唇が、訊きたくなかった言葉を紡ぐ。
息が苦しい。なぜ、こんな重苦しい記憶ばかりが奔流のように心に去来しているのか。サラナー?ライ?フィーザ?これは誰の感じた記憶?取り留めのない感情が、記憶が、黒い悪夢が、じわじわと喉を塞ぎ目を覆う。足を捕えて強く引く。その場に倒れ伏して、地を掻きむしり慟哭したい。そんな衝動に苛まれる。
思い出せ。それだけではないはずだ。一筋の光のように。または一陣の風のように。それは視界を覆った絶望を吹き飛ばす声だった。聞いたことのあるようで、でも、彼はそんなことを言うのだろうか。
それだけではない。わたしはそんな絶望の為に、皆をここに集めては居ない。
声は更に言い募る。いつの間にか、暗く、冷たい床に顔を伏せ蹲っていた。目前の地面から目を上げると、サラナー、ライ、フィーザ、セルゲイ、ガルス、颯、そして、銀髪、銀眼の黒衣の人物が佇んでいた。
「ヤスさん。」
とライが呼びかけ。
「メタファルク?」
とフィーザとセルゲイは言う。
「遊多」
という颯の声は掠れていた。
「随分、身勝手な講釈を述べるようになったな。傀儡はお前の方だろう。私にはそんな戯言は効かない。」
いつの間にか集められていた広間の様な、闘技場のようなだだっ広い空間の真ん中で、彼は銀の瞳を中空に据えて高らかに言い放った。
「定められた時はまだ満ちていない。だが、ここに集まったのは、我々の希望の形代だ。」
また、頭に直接響く声が笑った。
「時が満ちるまで待つのは無意味だからだよ。もはや千年の約定など無意味。我々は、黒き民の可能性など認めていない。」
「違う。不完全なのは、安寧と秩序、差異なき世界などという、白き民の理想のほうだ。だからこそ、黒き民の、差異と、成長と、変化の社会を恐れて排除しようとしているのだ。」
「何を世迷言を。それならば、見せてみるがいい。その、成長と可能性を!」
声の調子が変わった。明らかな動揺が伝わる。
言い終えると同時に、地鳴りとともに四方にあった大きな扉が開いてゆく。そして、咆哮とともに黒い大きな獣が解き放たれた。
「皆、術はここでは使えない。それぞれ、身を守ってくれ。」
そう言うと、銀髪の男はそれぞれ黒い獣に向かって小さな刀のようなものを飛ばした。
「少しは足止めできる。この建物には非常用の武器も隠してあるはずだ。手わけして探そう。」
そう言うと、彼は率先して正面の扉に向かって駆けだした。獣の真横を通り過ぎるが、ぴくりともしなかった。
「我々は、では右に行く。ライ、サラナー、颯、ガルス、…無事で。」
フィーザは右の、獣の傍らをセルゲイを伴って駆けて行った。
「じゃ、こっち行きます!アタシたちは百戦錬磨よ、任せなさい、ちゃっちゃと全滅させてやるわよ。」
とガルスは颯を連れて背後の扉に消えた。
「残ったのは、左だね。行こうか。」
ライはサラナーの手を取った。
「不思議だね、今はみんなの気配が感じられない。」
ライが話しかけても、サラナーからは返事がない。
「…あたしと一緒って、不気味じゃない?」
しばらくして、サラナーは口を開いた。
「あたしはここで、多分何回も蘇生してる。何回も何回も。何十通りの人生を生きた。あたしはたくさんいたと思う。…もう多分、数体しか、今は居ないけど。戦禍の街で生きたり、傭兵になったり、暗殺者になったり、…あたしたちは白き民、っていうあの声の人の、娯楽用の、物語本みたいなもの。読み捨てられてはたくさんのあたしたちが拾い集めて再生して、また、…生きて、死ぬ。」
ライは立ち止まらずにサラナーの話を聞いている。目は、逸らさずに。
「…あたしたちは、死の間際まで、ここのことを忘れてる。でも、いまわの際には思い出す。それが信号になって、近くの私が回収に行くのだけど。…でも。今回は誰も来なかった。だから多分あたしはさいごの一人になってしまったんだと、思う。」
「…サラナー。」
ライが呼びかける。
「正直なところ、さっぱり分かんないよ、話が突飛すぎてさ。考えても分からないや。」
でも、とライはサラナーの手を取った。
「過ごした時間は、あんまり長くはないけど。でも、もっと一緒に居たいって思ってる。…だから、守るよ。みんなでこんな変なところ出よう。またあの船に乗せてもらおう。」
サラナーはしばらく考えているようだったが、やがて。
「…とにかく、今はここを出ることが先決ね!」
と言って、笑った。サラナーと、ラナの印象が重なって見える笑顔だった。
そしてライは無性にうれしくなったのだった。二人は建物の深部へ向かう。
「わたしが死んでもだれも、悲しみはしないわ。だから、あたしが最強ね!」
そう言ったのはガルスだった。だが、颯は首を横に振る。
「いいや。悲しむ人はたくさん居るだろう?」
と。
「そんなものかしらね?ファンの子ならいるかも。」
と言ってはぐらかす。
「親もいないし。天涯孤独ってやつなのよ。それより、あなたには待ってる人が居るでしょう?」
「そうだな…待っていてくれたのなら、今度こそちゃんと向き合うつもりだ。」
そう言う颯の表情は複雑な色を帯びていたので。
「あなたこそ、なんだか『自分は死んでも構わない』って思ってそう。さっき、いろんな人の頭の中を泳ぎまわってるような気分になったわね、あのときの感じだと、あなたは恋人を亡くしてる?」
と、気になっていたことを尋ねる。
「恋人…そう思っていたのは俺だけだったかもしれないな。」
そう言った途端、ぐい、とガルスが颯の肩をつかんだ。
「事態が事態だから預けておくけど!本当なら殴り倒したいセリフよそれ。」
ガルスは、緑の瞳を爛々と輝かせて詰め寄る。
「一方通行な訳ないでしょうが!あなたの記憶らしいものを感じたアタシからしたら、ほんっとうに好かれていたわよ!それも分かってあげられないなんてね!」
そういうガルスの瞳は精気に満ちていて、前向きで、思わず颯は目を逸らせた。
「だが、彼女は俺にはもう付いていきたくはないと言った。」
独り言のように言った途端、今度は胸倉をつかまれた。
「ばっか!アンタに前向きに生きて欲しかったんでしょうよ、その人は!覚悟の上で身を引いた女を引き留めて、で、二人して流浪の人生なんて、アナタに歩んで欲しくなかったからこその決断を、受け止めてやれないなんてね!挙句に捨て鉢になるなんてなっさけない!ここで死んでも、アンタを待ってる大事な人に形見なんて届けてやんないわよ、生きて帰る腹括りなさいってのよ!」
さすが、歌うたいの肺活量である。これだけの長い啖呵を淀みなく切ったと思いきや、
「ここでアンタが死んじゃったら、あの、送った品の宛先の紗羅ちゃんって子はアタシが取るからね!」
とまで言い、そこそこの勢いで額をぶつけてくると、すっと離れた。
「こんなへぼ男を待ってるなんて、きっと純情で初心な子なんだろうなあ~。あたしにかかればイチコロよ!」
そう言って、さっさと先にたって歩き出す。置いていくわよ、と言いながら、歩調は明らかに、颯を待っていた。
「あの、化け物…あんなのを四体も倒せる武器などあるだろうか?」
そういうフィーザの声はいつになく気弱で、セルゲイは傍らの彼女を顧みた。
「らしくないですよ?こちらは人数もいますし、あの、メタファルク氏も自信たっぷりでしたよ?」
そんなことを言いながら、セルゲイは気になっていた。次にもっと、彼女らしからぬ聞きたくない言葉を言うのではないかと。
「巻き込んでしまったな…また、あの時と同じだ。いっそ、あのとき姉ともども」
次の言葉はセルゲイの胸元に吸い込まれて言葉にならなかった。
「そんな不吉なことは言わないでください。」
そう、セルゲイは言った。
「あなたは、そうして、彼女に拘りすぎる!もう十分でしょう。」
そういうと、今まで、決して彼が踏み越えなかった距離を縮め、初めて、彼女の首筋に手を添えた。喉、鎖骨、肩を性急に、確かめるようにその手は滑り、
「やめ、ん。」
静止の言葉は唇に吸い取られる。抗議の声はくぐもった呻きにしか成り得なかった。身を捩るが、しっかりと胸元に抱きすくめられて僅かな隙間にもならない。激しく身じろぎをし、やっと唇が離れた。
「セルゲイ…わたしは、分からない…。まだ、こうしたいのか、どうか。」
今まで、これほどの近さで彼を見たことは無かった。初めて見る男のような気がした。あの火事のとき、引き留めた彼の腕は自分とそう変わらない世間知らずな少年の腕だったが、今のセルゲイはもっと、力強い腕をしている。
今なら、自ら火中に進もうとしても、振りほどけはしないだろう。そう思うとぞくりとした。そして、その感覚は裏腹に心地よさや安心感も孕んでいた。
「セルゲイ」
今まで、他人とこんな風に接することは拒んできたフィーザだったが、それはいびつなことだったかと思う。接する。その触れ合った部分がとても暖かく、柔らかい。
「ここから出たら、色々と…、その、…言いたいことがある。」
そういう自分の声は、柔らかさを覚えた心とはうらはらに、まるで今まで出したこと無いようなかすれたこわばった声だった。
「・・・俺もです。」
言いながら、抱きしめる腕に力がこもった。
建物を揺さぶるような咆哮が聞こえる。これから、あの男の放った、見たこともないような化け物と戦って、そして、生き残る。可能性のあることかどうかは、いまだわからないけれど。
皆の想いは確実に前を向いていた。こんな唐突な、終わりは受け入れられない。絶対、ここを出る。そして…今一度。
取り返したい思いがあり。
伝えなければならないものがあり、
はじめたいことがあり。
帰るべきところがあった。
その熱意が導くように、皆の手にそれぞれ武器があった。やがてまた、最初の広い空間に皆、引き寄せられるようにたどり着いた。
サラナーの記憶を垣間見た時に、皆の脳裏に映ったこの建物の記憶が助けになったのかも知れない。
見たこともない形状の武器だったが、皆は一目で使い方を理解していた。
「これで、少しは君たちの勝利の可能性も上がった訳か。面白い。我々は見物させてもらうよ。」
また脳裏に直接響く声が言う。
「君たちが負けても、淋しくないよ?すべての黒き民を滅ぼすウィルスは完成している。もう滅びは決まっているんだ。試しに暗君に少し分けたけど…分かるよね?」
すべての外界の人間は苦しんで死ぬよ。淋しくはないね。
視界が、激しい怒りでぎゅっと狭まったようだった。裏腹に体は解き放たれた獣のよういに鋭敏になるのがまるで膜を隔てた向こうの事のように感じる。先だっての共感のように。自分がライなのか、サラナーなのか、ガルスなのかわからなくなるような不思議な感触。
一閃。ライの持った短刀が、黒い腕を薙ぎ払う。返す刀で腹を深く裂くのはガルス。振り返り、よどみない動作で振り下ろすセルゲイの腕が黒い足を切り、下した刀を振り上げて肩口を叩き切るのはフィーザ。
だが獣はいまや、広間中を埋め尽くさんばかり。広間のそこここに扉が開き、次次と溢れ出してくる。それぞれの持つ刀は、眩しい光線のようで刃こぼれしない。獣の切断面を焼き、切飛ばし、また薙ぎ払う。永遠に続くかのようだった。黒い壁のような獣の群れ。わずかに腕を伸べて、切り開いた先にもまた黒い影が迫る。埋まる…埋め尽くされる。腕に、足に、肩に、…少しづつ黒い物に裂かれて血が滲む。黒が迫り、白い光が薙ぎ、赤いしずくが散る。
ざり、とひときわ大きな黒い顎を持つ獣が複数、ついに全てを牙にかけんとしたその時。
銀色の光線が、黒い影に覆いかぶさった。
影は動きを止める。
「つながった!」
と高らかな声がする。
「皆、無事か?今、ミハシラにすべての情報をつないだ。審判が下される。」
それは今まで聞いたこと無いくらい、喜びと、希望と、充足感に満ちた声だった。
それからあとのことは、夢の中の出来事のようでありまた、ひどく鮮烈であり、またそれゆえにすぐに忘れてしまいそうな不思議なものだった。
黒い獣たちは掻き消えた。興奮の冷めやらぬ体は痛みを感じずぼうっと熱に浮かされた状態で、垣間見た景色もいまだ想像し得なかったもので。はっきりした、夢を見ているようた。周りの雑音は消え、先ほどの銀光が柔らかく周りを照らしてる。
(つぶさに見せてもらったよ。時差は少しあったが、それは我々で修正した。損なわれること無く、間に合ってよかった。)
という声が響く。はるか彼方からの残響を伴って。しかしその声は聞き覚えがあった。
「剣の、守護だ。」
ライが思わず口走った言葉を聞いていたのか。
(そうだね。我々は、そのような力で干渉していた。)
と答えがかえってきた。
「なぜ、干渉など。ミハシラは我々のこの地を任せ、新たな惑星開発に旅立って久しいではありませんか。」
その声の方を見やると。銀髪、銀眼の。
「ヤスさん?」
ライは思わず問いかけてしまったが、その人物はうるさげに一瞥をくれただけだった。
(違う)
と遠くの声が言う。言われて、良く見ると白衣を着ている。
「ヤスさんは?」
周囲を探すと、対峙するかのように、少し離れたところに黒衣の彼は立っている。
「それが、そもそもの間違いだ。我々とあなたは言うが、白き民はもう一人もいない。」
と黒衣の方が言う。とても、悲しそうだ。
「一人もいないとは、世迷言を!今もこの様子を賢人会議が見守って」
(彼の言う通りだ、ここにはこの場に居る、6人の生命反応しかない。)
ミハシラの声は寂しそうだ。…6人?
「6人とは、何を馬鹿な!この街には我々も含めて多くの。」
そういう、白衣の建物の主は先の言葉を遮られた。
「6人だろう?あなたはそんなことも忘れ去ってしまった。それが差異なき世界の毒だ。」そう言って、メタファルクと呼ばれた黒衣の、ライの知るヤスさんで、颯の見知った遊多は続けていった。
「あなたと私は作られた生命だ。もとから人ではない。」
白衣の人物はよろめいた。
「思い出せたか?我々は同じ名だ。私はメタファルク、4th。あなたは3rdと呼ばれていた。確かに、私は黒き民を管理する立場だったが…芽生えた命を無に帰す前に、可能性を見届けようと思った。最初は気まぐれだった。」
「待て、なんだそれは。何を言っている?管理者は私、ひとりで。」
(もういい。4thから、彼の見た千年の資料を受け取り、我々はこの場所の、彼らを見守らせてもらったよ。3rd、君の主張は凝り固まった選民思想そのものだ。いいか、我々は管理者などは定めてはいなかった。外宇宙に移住した我々は、恥ずかしい話だがいまだ分裂し争っている。過酷な環境で、持つものと持たざる者の対立が生じている。長い膠着状態だった。)
明け方の光のように弱くなった銀光に、争いあう人々の姿が映し出された。ミハシラの話に合わせて、様相は様変わりしてゆく。
(だが、君たちの物語は、我々に希望を与えてくれた。許し、理解し、そして希望を抱く。そんな簡単で、大切なことを我々は忘れてしまっていた。君たちの世界…変容し、感じあい、そして、まだまだ未発達の、熱のある社会。我々も、その心をもう一度思い出してみようと思う。)
そして、もはや言葉を無くしたように立ちすくむ白衣の男に声をかける。
(千年の孤独は、我々が細心の注意を払って作った意識すら歪ませるのか…とにかく二人ともご苦労だった。明暗の別れた干渉を受けた、君たちの世界の、未完であるが故に輝きに満ちた物語の。…修復を、こちらから手をまわしておく。)
言葉はそこで途切れ。周囲に満ちた光が徐々に強くなり、肌に居たいほどになった。目を閉ざしても残る白い残像に、飲まれ、そして。
終幕。
ばしゃばしゃと。
さっきからけたたましく、ポンプが海水をくみ上げては甲板に打ち付けている。
「きりがないかもな。」
とつぶやくのはハザトだ。
「ですよねえ。」
と、傍らでライがつぶやく。
「おお、いたのか勤労少年。」
大仰にのけぞるハザトのリアクションにはなんら構いもせず。
「でも、意外だったな、ハザトさんがこの船の、副船長に次ぐ立場だったなんて。」
と呟けば。
「そうか?ちょっと考えれば分かるだろうよ、この立場の重要さが。」
と帰ってきた。
船長、副船長が揃って新婚旅行に出るとあって、その間の留守を任されたのが彼、ハザトだった。
「まあ…たしかにそういっちゃ、そうですが。」
ライには確かに腑に落ちるところもあったのでそう答えた。
「そうだろうよ。この、なんていうか。黙っててもにじみ出る貫禄に君も気づいてたか!」
と、いいながらも船長の結婚披露宴の後始末をライをとしているのだから説得力なし。
「まあ、ハザトさんの言った通りになりましたね。」
ライには、先日船長の容姿云々で甲板で語り合ったことが記憶に新しかったのでそれを告げると。
「いや、しかしこうも話が急だと驚くな!まさか言った通りになるなんて。」
と当の本人が一番の驚きを見せていた。
先刻まで甲板で、船長とセルゲイの結婚披露宴が催されていたのだ。甲板の宴のあとがそれはもうすさまじかったので。ライとハザトはその痕跡を船外に押し流していたところだ。
頭上には相変わらず、空の青。
目線を下げると、きらきらと彼方まで続くエメラルドグリーンの海。
あの。白い建物で共に戦った仲間は、今はそれぞれが新たな一歩を踏み出していた。
颯もまとめて休暇を取った。船は降りて、結社に戻るかもと言っていた。
ガルスはまた、気ままに旅をするそうだ。今回のことはいい芸の肥やしになったと笑って去って行った。
ヤスさん…メタファルクと言った彼は、そのあと姿を見ないが、どこかでうまくやっている気がする。直観だけども。
サラナーは、しばらくこの船にとどまると言っていた。ガードのメンテナンスくらいはできるのだそうだ。
(結局、…なんだったんだろう?)
と、ライは青空に自問する。だがやはりわからないまま。
自分の指名手配の事も、さっぱりと世間からは消えている。
ひょっとしたら、郷里では母が待ってすらいるかもしれない予感はあった。
近いうちに帰ろうと思った。
この空のように青いコートを着た、彼女を連れて。
終。
長々とお読みいただきありがとうございます。
ここまで目を通してもらえるとは。感謝です、ありがとうございます。
つたない作ですが、10代の終わりに初めてなんでも話せる趣味友達が出来まして、こんな話を作っているとあらすじを伝えて、良いんじゃないかと評価してもらいました。その時は半数の登場人物が死んでしまう話でしたが。
その話をした彼女はのちに二十歳そこそこで急逝してしまって、私はなんとなくこの話を放りっぱなしにするのも、納得がいかなくて、時々引き出しては手入れをしていました。そして10年以上も経ってしまって、とにかく現状でできるだけ丁寧に向き合って、かつて考えた話を整えようと思い立って書きましたのが今作です。某公募に挑戦しようかと思いましたが、荒の目立つ素人の趣味だと自分で手入れするにつれて痛感しましたので、今回、このサイトにてどなたかの一時の楽しみになれれば充分幸せです。