【競演】その花の名は
第七回競演に参加させて頂きました。
お題は「冬の京都」です。
「お願いいたします」
ふと顔をあげると、深々とお辞儀をしたまま、その女性は僕の目の前に立っていた。
配属されたばかりの市立図書館ではじめてその不思議な女性を目にしたのは、いまから二月ほど前のことだった。
薄紅色の椿が描かれた着物に、艶やかな黒髪。ゆるく束ねられた腰まである髪がさらりと揺れる。そのたびにかすかに花の甘い匂いが香った。可憐で凛とした印象を残して、静かな図書館の中がしっとりと華やぐ。そして書庫に入れられた図書を請求するのだ。
それだけであれば、洛東という立地上おかしいことは何もない。着物姿の女性は日に何人か見かけるし、良く手入れのされた黒髪の若い女性も珍しくない。なにか稽古事でもしていれば余計に気を使う。
だが、何が不思議なのかというと、開館から閉館まで毎日のように閲覧コーナーの隅でじっと図書に見入っているということだ。それもいつも同じ本を。
それは、『椿』というタイトルをつけられた郷土資料。
彼女があまりにも食い入るように見つめているので、僕は不思議に思ってカウンターに戻された図書をめくってみたことがある。
出版は一九六〇年代。中身はというと何の変哲もない植物誌。あえて特徴を探すなら、地元の植物について残る伝承と古い画をまとめているということか。
この図書の何が彼女をそれほどまでに惹きつけれるのだろう。
僕の疑問をよそに、彼女は毎日図書館にやって来ては図書を閲覧する。カウンター業務の合間に、図書整理の合間に、ふと閲覧コーナーを見ると必ず彼女が目に入る。
図書に目を落としす横顔は凛としてどこか儚げだ。長いまつげに縁取られた瞳は時折泣いているように震える。
毎朝閑散としたカウンターに彼女の柔らかな声が響くのを、僕はいつの間にか楽しみにしていた。
一体彼女は何者なのだろう。僕の好奇心は膨れていく。
図書を借りないところを見ると、地元民ではない可能性がある。貸し出しカードを作ることが出来ないと推測してみる。
それなら、小説家やライターといった文筆業関係の人だろうか。それならば、どこか浮世離れした雰囲気にも納得がいく。郷土資料という特殊資料は手に入りにくいのだろう。
けれど、僕の憶測はあっさりと破られる。
彼女の様子を伺う僕に、古参の同僚が面白がって声をかけてきた。
「あの子に惚れた?」
思わずぎょっとして僕は首を振った。
「違いますよ! 毎日同じ図書を請求するので不思議に思っていただけです」
そう言うと同僚はつまらなそうに肩をすくめた。
「小説家かなにかですかね?」
僕が興味深々で聞くと、同僚は首を振る。
「さあねえ。なにしてる子なのかしらね? あの子、毎年この時期になると来るのよ。十二月の半ば頃から二月か三月くらいまで。春になるとぱったりと姿を見せなくなのよ。どこかの大学生じゃないかって話だけど、かれこれ十年近く通ってるからね。なにしてる子なのかさっぱりなのよ。まあ、植物学者を目指す学生さんだなんて言われてるけどね。貸し出しカードを作ってないから名前も住所も分からないし。それにどこか頑ななのよね、あの子。実際のところはさっぱりよ」
そう言うと、同僚はにやりと笑ってつけ加えた。
「そんなに気になるなら聞いてみたら?」
「いやいや! 業務中にそんなこと出来ませんよ!」
「あら、残念。鎌かければ調子付いて行ってくれると思ったのに」
声を忍ばせて笑う同僚に僕は顔をしかめた。思いきりからかわれているようだ。
「お寺のお嬢さんだとおもいます」
そのとき、普段は無口なアルバイトが突然話に加わってきた。
「出勤途中に下河原の方でお坊さんと連れ立っていたのを見たことがあります」
「お坊さんと歩いてるのを見たからって、そうとは限らないんじゃないですか?」
「でも、親しげでした」
「そっか! 分かった!」
それまで黙っていた古参の同僚がひらめいたように手を打った。
「どこかの芸子さんじゃない? そのお坊さんとは良い仲なのよ、きっと」
その穿った見解に僕は絶句した。
「それで毎日図書館通いしますか?」
「あら。夜の仕事は昼間は暇なものよ」
決め付けるようにふふんと鼻を鳴らすと、同僚は足取りを軽くして図書整理に向かった。
同僚の言葉に悶々とした僕は、思い切って彼女に聞いてみることにした。
彼女のやってくる朝一番にカウンターに入る。
案の定、彼女は図書館の前で開館を待っていた。玄関に薄紅色の椿の着物が凛として立っているのがカウンターからでも見えた。
彼女の図書請求を受けて急いで書庫へ向かう。『椿』は毎日出し入れされるものなので、入り口付近のラックに入れられている。ここ数年間の慣例になっているらしい。
僕はその図書を持ってカウンターに戻ると、彼女に一声かけた。
「お借りになりませんか?」
すると彼女は驚いたように目を僅かに見開いたかと思うと、すぐに表情を曇らせた。
「申し訳ありません。身分証を持ち合わせていなくて……」
そう言って困ったように目を伏せる彼女にどきりと胸が鳴る。
「あの! 無理にとは言いません。過ぎた真似をしました。申し訳ありません!」
無言のままでいる彼女が気を悪くしたと思って、僕は勢いをつけて頭を下げた。
すると、彼女がポツリと呟いた。
「今のうちにこの目に焼き付けておこうと思って」
「え?」
思わず聞き返してしまった。すると彼女は怒ったふうもなく小さく微笑んだ。
「もうすぐ、春が来てしまいますから」
それだけ言って、図書を受け取ると閲覧コーナーへゆっくりと歩いて行った。
それから、僕はたびたび彼女に声をかけるようになった。
けれど、それに比例するように彼女は徐々に憔悴していくように見えた。図書を眺める背中をちらりと振り返ると萎れるように傾いている。
具合でも悪いのだろうか?
そう思ってみるが、なかなか突っ込んで聞いてみることは出来なかった。
その代わりに、僕は彼女が見入っている図書について尋ねてみた。
「その本のなにを見ているんですか?」
すると彼女は嬉しそうに微笑んで、開かれたページいっぱいに描かれた画を指差した。
「この画です。この画が一番好きなんです。色がやわらかくて優しいから。はじめて見たとき、打たれるように衝撃を受けました。まるで、心が写し取られているようで……」
そう言うと彼女は恥ずかしそうに顔を伏せた。
覗きこむように見てみると、それは古い画で「月真院の椿」と題が書き添えられていた。月真院といえば、高台寺の塔頭で新撰組ファンにも人気のある観光スポットだ。
「こんなことを言ってしまったら、あなたにも私の心が見透かされてしまいますね」
そう言って彼女は頬を赤らめたが、僕には何を言っているのかさっぱり分からなかった。芸術に疎いせいもあってかその感覚はよく分からない。
僕は曖昧に笑って、持っていた図書を差し出した。
「椿がお好きなら、こちらの図書もお薦めですよ。数年前に出た新装版です。その図書からも一部引用があるようです。それからこれも。椿を題材にした美術や工芸が載ってます。よろしかったらどうぞ」
「わざわざ申し訳ありません。気遣ってくださりありがとうございます」
深々と頭を下げる彼女に僕は慌てて首を振った。
「いえ! 仕事ですのでお気になさらず」
とは言ってみたものの、実際は問い合わせが来るまでレファレンスなどしない。彼女はそれを知らないようで、置かれた図書のページを珍しそうにめくっている。
その表情の中に少女のようなあどけなさを見つけて、うっとりと見惚れた。
けれど、心なしか彼女の血色が悪くなっていることに気づいた。桃色に色づいていたほおは今では青白く透き通っている。どこか元気がないように見えるのはそのせいなのかも知れない。
「良かったら」
だから、つい気なしで口をついた言葉に僕自身がびっくりした。
「僕が代わりに借りしましょうか?」
暮れた夜空には、いくつもの星々がきらめいている。冬の冷たい空気が一層引き立てているんだろう。いくつか見知った星座があったけれど、どうしても名前が思い出せなかった。
僕は重くなったトートバッグを両手に抱え直した。中にはB4判の画集二冊と例の郷土資料が入っている。
隣を歩く彼女は暗い道のせいで表情が見えなかったが、どこか苦しげだ。ゆるい坂道のせいだろうか。荒い息の音が聞こえてくる。
「大丈夫ですか?」
問いかけると彼女は暗がりの中で小さくうなづいた。薄紅色の着物の柄がぽつりぽつりとたたずむ街灯の明かりに鮮やかに映える。
何時だったかアルバイトが言っていたように、僕たちは下河原の方へ歩いていた。やはりお寺のお嬢さんなのだろうか。通りをいくつか曲がり、ねねの道を八坂神社の方へ向かう。
しんとした通りは浮世から隔絶されているようで、時折風に乗って聞こえてくる人の声に懐かしさを憶える。両側に立った石塀が今にも迫ってきて押しつぶされそうだ。
「こちらです」
そう言って彼女が立ち止まる。いつの間にか、小さな門の前にやってきていた。
月真院じゃないか!
驚いていると、彼女は閉ざされた門扉をゆっくりと開けてどうぞと手招く。
玉砂利の敷かれた小道を辿ると、庫裏のシルエットが星影に照らされた。奥では仄かに明かりが瞬いている。
「ただいま戻りました」
彼女は庫裏の扉をそっと開けると奥に一声かけた。どうやらアルバイトの推測が正しいらしい。
「こちらに置いて下さい」
僕を振り返って上り框を指差す。
「ああ、はい」
気を取られていた僕は、慌ててトートバッグの中から三冊の図書を出した。
「お客さんかね?」
そのとき奥から声がかかった。見上げると気難しそうな顔をした坊主が奥の間から顔を出している。
「君が連れてくるなんて珍しいね。お茶でも飲んでいったらどうですか? すぐに用意をしますよ」
意外と気さくな人のようだ。
「いえ。お構いなく」
僕は遠慮して首を振る。しかし、そんな僕に住職は止めの一言を放った。
「彼女の一番好きな椿がこの庭に咲いているんですよ」
住職は彼女のことを『うらく』と呼んだ。僕はその名前を初めて聞いた。
「彼女は『うらく』という名前なのですか?」
失礼を承知で住職に尋ねると、彼はにやりと意味深な笑みを浮かべる。
「『うらく』というのは私が勝手に呼んでいるだけです。庭に咲く『有楽椿』から名を借りているだけですよ。あの子の好きな椿の名前です。彼女はなかなか頑固者でね。この人と決めた人にしか名前を教えないらしいのです」
僕は住職に疑問を持った。
「彼女はあなたの娘さんではないのですか?」
「いやいや。私のようなものからあれほど美しい子供が産まれるはずはありません。実のところ、私は雇われ坊主でね。この院の主というなら彼女の方がふさわしいでしょう」
そこで息をつくと、住職は妙に改まった顔で僕をまじまじと見つめた。
「ところであなたはあの子から名前を教えてもらったのですか?」
その意味するところを知って慌てて首を振る。
「いえ! そんなことはありません。彼女は呼び名さえを教えてはくれませんでしたから」
「そうですか。あの子が人を連れてくるのは滅多にありはしませんから。少なくとも私の知る限りは」
そう言うと住職は庭先の椿を見上げた。
枯れ木の中で椿だけが青々と葉をつけ、優しい薄紅色の花を咲かせている。もうすぐ時期が終わるのだろうか、花がぽつぽつと地面に落ちている。彼女がその薄紅色の花を愛おしそうに両手に包んだ。広間からこぼれる明かりに照らされて、彼女の頬が青白く輝いている。
「冬の寂しい季節に色づく椿だからこそ、彼女は美しいのでしょうね」
住職がぽつりと言った。
その夜から一週間後、強烈な低気圧が襲ってきた。例年も冬は厳しいとは言え、この時期に十センチ以上の積雪はまれに見る出来事だ。過ぎ行く冬の最後の足掻きだろうか。だが、この雪が溶ければすぐに春がやってくるだろう。そうなれば町が一気に華やぎだす。
朝から図書館の雪かきに追われていると、彼女の住む院の住職がやってきた。
「この雪で『うらく』が動けないようだから」
そう言って、僕が代わりに借りた図書を持ってきた。
「わざわざ申し訳ありません。連絡をいただければ取りに伺おうと思っていたところです」
礼を行って受け取ると、住職は神妙な面持ちで僕を見た。
「庭の椿がそろそろ散ってしまいます。『うらく』は最後にあなたに会いたがっていました。お勤めが終わってからで構いません。こちらを訪ねてもらうことは出来ないでしょうか?」
住職の言葉に引っかかりを覚えながら、僕は遠慮しようと手を振る。
「それは嬉しい申し出ですが、具合が悪いのでしたら日を改めたほうが良いでしょう。また図書館に来てくださいとお伝えください」
すると住職は真剣な表情で首を振った。
「どうしても今夜でなければならないのです。朝になってしまえば、『うらく』は行ってしまう。どうかお願いいたします。彼女の願いを聞いてやってください」
そう言って深々と頭を下げた。
住職がまるで彼女が今にも死んでしまいそうに言うので、僕は仕事を早々に切り上げ彼女の住む院へ向かった。
雪の溶けかかったねねの道は緩やかな坂道とあって歩きにくく思うように進まない。
夜ということもあって月真院の門は閉まっていた。声をかけてみるが返事が返ってこない。静かな通りに声が響くだけだ。
僕は恐る恐る門扉に手をかけると、それは音をたてながらも容易く開いた。
門の中を覗いて僕は息を飲む。
庭にはいくつかの篝火が焚かれ、積もった雪が炎の色を受けて橙色に輝いている。
そのとき、
「いらっしゃったのですか?」
聞き逃してしまいそうなか細い声が聞こえていた。僕は慌てて辺りを見回す。
すると、庭の端に立つ椿の木の下に薄紅色の着物の端が見えた。慌てて庭を横切り椿の元に行くと、彼女が雪の中に倒れていた。辺りには散ってしまった椿が白い雪の上にぽつぽつと落ちている。その中で、彼女の着物の色が一段と雪に映えていた。解き放たれた黒髪からかすかな甘い匂いが立ち上ってくる。その香りに微かな眩暈を感じながら彼女を抱き起こした。
「どうして?」
「最後にあなたにもう一度お会いしたかった。きっと季節が巡ればあなたは私のことなど忘れてしまうのですから」
僕は否定するように首を振る。
「何を言っているんですか。決して忘れなどしません」
そう言うと、彼女は安心したように僅かに微笑んだ。
「良かった」
小さく呟くと、彼女は僕の耳元に口を寄せ小さく囁いた。
「――」
突然渡された言葉に驚いていると、彼女は小さく微笑んだ。
「私の名をどうしてもあなたに渡したかったのです。春が訪れる前に」
そう言って、彼女は椿を見上げた。雪に埋もれて見えなかったが、一輪だけ残った花が雪の重さに耐えるように咲いている。
「あなたに会いたくて、どうにか一輪だけ残しておいたのです。でも、もう長くは持たないでしょう。愛しいあなた。また次の冬に会いましょう」
言い終わるが早いか、残っていた椿がぽとりと雪の中に落ちた。そして、彼女は優しい微笑を浮かべながら、雪に溶けるようにふっと消えた。
幻を見てたのだろうか?
気づくと僕は花の落ちた椿の前で静かに涙を流していた。熱い軌跡が頬を辿る。
僕はゆっくり立ち上がると、今しがた落ちた椿の花をそっと拾い上げた。消えてしまった彼女と同じぬくもりがそこにはあった。
「また次の冬に」
薄紅色の可憐な花に向かって、僕は呟いた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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