白雪姫1
人魚姫を倒した僕らは、現実世界に戻ってきた。
目が醒めたとき、アリスはいなかったので、僕は二度寝(になるのだろうか?)をする事にした。
そこで夢を見る、遠い昔の幼い頃の夢を。
これは……、僕の母さんが事故で亡くなった時の思い出だ。
父さんは、僕の前では決して泣かなかったが、常に苦しみ、堪えていた。
そんなとき、僕は決まって近くの公園に一人で遊びに行くのだ。
父さんが涙を流せるように。
夕暮れ時、僕はいつものように、この公園に来ていた。
そして、いつものように、一人でブランコを漕ぐ。
僕は、泣けない。
僕が泣いてしまったら、父さんが泣けなくなってしまうから。
だから、ひとりでじっと耐えている。
ブランコを漕ぎ、その風に身をゆだねて。
その時、隣でブランコが動き出す。
見ると、一人の女の子が僕と同じ様に、ブランコを漕いでいた。
ブランコを漕ぐたびに、常闇のような長い黒髪が風に流れる。
「あなた、ブランコおもしろくないの?」
「え、どうして?」
僕は、女の子の急な問いかけに戸惑い、質問を返す。
「だって、悲しそうにブランコを漕いでるから」
女の子が漕ぐのを止めて、僕の方を見つめる。
とてもかわいい子で、僕は、ドキリとした。
「それは……、僕の母さん、事故で死んじゃったんだ。父さんは僕がそばにいると泣けないから……。そんなのかわいそうだから、僕は、一人でブランコを漕いでいるんだ。僕が泣いたら、父さんが泣けなくなっちゃうから、僕は、泣かないんだ」
見知らぬ女の子に自分の想いを吐露する。
「そっか……、わたしも、お母さんとお父さん、死んじゃって……。でも、いっぱい泣いたよ。 お婆ちゃんと二人で、いっぱい泣いて、目がうさぎさんになっちゃうくらい。……だから、あなたも泣いていいよ? お父さんと一緒に泣いてもいいんだよ。泣きたいときは、泣かないと駄目だって、お婆ちゃんいってたもん」
「でも、僕は……。僕はやっぱりだめだよ。父さんがかわいそうだから……」
僕は、何かに縛られるように頑なになっていた。
「それなら、わたしが一緒にないてあげる。そうしないとあなたがかわいそうだもん」
その瞬間、僕の中の何かが溶けた気がした。
「君が一緒に……? じゃあ、僕は本当に泣いてもいいの?」
「ばかね、もうないてるじゃん。グスッ、いいよ……、ズビッ、一緒に泣こ……」
そして、二人でわんわんと声を上げて泣いた。
泣いて、泣いて、今までの悲しみが全て流れていった。
ひとしきり泣いた後、女の子がハンカチを差し出してきた。
「貸してあげる。わたし、もう帰らなきゃ、お婆ちゃんが心配しちゃう。バイバイ」
そう言って女の子は駆け出す。
「待って! またあえる?」
僕は、女の子に問いかける。
「うん、こんどは遊ぼうね」
女の子はうさぎのように目を赤くして、笑顔で手を振っていた。
「うん! またね!」
僕も笑顔で手を振った。
女の子が貸してくれたハンカチを広げる。
僕は、涙を拭くと、隅の方に名前が書いてあるのに気付いた。
「すいおんじ……ありす?」
いや、彼女の名は確か……。
僕は、そこで目をさました。
背中に体温を感じる。
後ろを向くと、アリスが小さな寝息をたてていた。
常闇のような黒髪がふわりと広がり甘い香りが漂う。
いつものリボンカチューシャは外しており、それだけで雰囲気がだいぶ変わる。
少し、気の強そうな細めの眉はいまは穏やかな表情を形作っている。
閉じた瞼から延びる睫毛は長く、艶やかだ。
鼻筋は高くはないが整っている。そして、小鼻が呼吸に合わせてひくひく動き、いたずら心をくすぐる。
唇は薄いピンク色をしており、張りがあり瑞々しい。
時々、艶めかしい吐息が漏れる。
マズい、この状況は非常にマズい。
心臓は既に心拍数がマックスだし、呼吸は制御できない。
とりあえず、アリスを起こさないように、そっとベッドから抜け出そう。
しかし、その矢先に、アリスは脚を僕の股の下に差し入れ、腕を回し、がっちりと僕をホールドした。
柔らかな膨らみが背中に当たり、吐息がうなじにかかる。
太ももの柔らかさと熱が、波状攻撃のように僕の理性を破壊していく。
肉体は既に屈服し、もはや、精神も風前の灯火だ。
頭の中では、天使と悪魔が殺し合いをしている。
天使は、アリスが汚れないままでいることがいかに重要かを説き、悪魔は、サングラスをかけ、両手を口の前で組み、かまわん、やれ! の一言だ。
アリスはしまいには、僕の首筋に鼻をくっつけ、スンスン鳴らしだす。
南無三、天使は痛恨の一撃をくらい、卒倒した。
見事、悪魔は勝利し、僕は……、突然、鳴り響いた携帯の着信音に飛び上がった。
「ふわ……? んんんんっ、珍しい……、電話鳴ってるわよ」
その音で目覚めたアリスは、何事も無かったかのようにくるりと僕に背を向け、また寝息をたてる。
携帯は、何コールか鳴った後、おとなしくなった。
同じく、僕の中の悪魔も鳴りを潜めたようだ。
残念なような、ホッとしたような複雑な気持ちのままベッドから這い出て、着歴を確認する。
携帯のディスプレイには、『櫻木 奈々枝』と表示されていた。
櫻木奈々枝は、僕の会社の後輩で、それなりに親しい相手だった。
小柄な、ショートカットの女の子で、派手すぎないブラウンの髪をしていた。弱気な感じで、少し病弱だったのを覚えている。
しかし、こうして電話がくるのは、実に一年ぶりだ。
一年前の電話は、僕が会社を辞めた日の事だった。
彼女にしては珍しく、怒っていたのだと思う。
どうして、相談してくれなかったんですか?
そんな言葉を覚えている。
当時の僕は、誰かに悩みを打ち明けるという発想が出てこないほどに追い詰められてはいたのだろう。
何度か心配する言葉をかけてくれたのは彼女だけだった。
それに対して僕は、大丈夫だよ、の一言で済ませていた。
小鳥遊先輩のうそつき……。
そう言って、彼女は電話を切ったのだった。
僕は、結局、最後の最後まで意地を張っていた。
誰かに心配されるという事が、どれだけ尊いものかわからなかったんだ。
さて、回想した所で、彼女にかけ直すのが礼儀だろうが、正直気まずい。
そもそも、間違い電話という可能性はないだろうか?
僕は、携帯をじっと見つめ考える。
ええい、悩むだけ時間の無駄だ、かけてしまえ!
アリスに影響されたのか、少し、行動的になった気がする。
履歴を押し、ディスプレイに番号が流れる。
呼び出し音に心臓の鼓動が速くなる。
僕は、何を緊張しているのだろうか。
「小鳥遊先輩ですか!? お久しぶりです! あの、私のこと覚えていますか……?」
数コール目で電話が繋がり、矢継ぎ早に、奈々枝の声が聞こえてきた。
「あ、ああ……。久しぶりだね、櫻木さん。元気にしてた?」
「あはは……。あんまり元気じゃないです。……でも、よかったぁ、先輩に忘れられてたら、どうしようかと思っちゃいました。ちょっぴり元気になれそうです」
携帯から聞こえる奈々枝の声は、どことなく疲れているようだ。
「どうかしたのか? 僕でよかったら、話を聞くよ」
「ふふっ、先輩が変わってなくて安心しました。実は私、……って、今、お時間大丈夫ですか?」
時刻は昼の一時前か、奈々枝は休憩時間だったのかな?
「僕は、大丈夫だよ。櫻木さんの方こそ、大丈夫なの?」
「はい、今日は予定がないので。……今のところは」
ん? そうか、今日は祝日だったな。
もはや、曜日感覚など、ないに等しいもので、こういう時に戸惑ってしまう。
「そっか、それで……どうかしたの?」
「あ、はい。あのですね……、実は私、会社辞めようと思うんです」
「そんな……、何か嫌なことでもあったのか?」
「えへへ、まぁ、いろいろ……。あのっ! 急で申し訳ないんですが、私の我がまま、聞いてもらっていいですか……?」
「珍しいな。いいよ、言ってみな」
「あの、久しぶりに先輩の顔がみたいなぁ、って……。直接会って、お話しがしたいんです。ダメ……ですよね?」
僕は、奈々枝の唐突な申し出に、言葉が詰まってしまう。
僕だって、奈々枝に会いたくない訳じゃないのだが、今の自分を知られるのが少し恥ずかしい。
だが……、
「そう……だな、うん、いいよ。可愛い後輩のお願いだしな!」
「か、かわいい!? あっ、そうじゃなくて、ありがとうございます! それじゃあ……、何処で待ち合わせします?」
「駅の裏手にある喫茶店とか、どうかな? ほら、前に行った事のある……」
「『憩』ですね。わかりました~! 時間は三時くらいでいいですか?」
「ああ、それでいいよ。それじゃあ、またな」
「はいっ! 楽しみにしてます」
電話が切れ、僕は、深く息を吐いた。
「ふぅん、デートの約束?」
いつの間にか、背後に立っていたアリスに、僕は飛び上がった。
「ち、違うよ! 会社の後輩で、悩みがあるからって!」
僕の、浮気の言い訳みたいな回答に、アリスはジト目になる。
「へぇ……、いつもとやけに態度がちがったけど? しかも、『可愛い』って……、アナタ、誰にでもそういう事いうんだ?」
「いや、その『可愛い』はそういう意味じゃなくて……」
「そう? じゃあ、その子は可愛くはないの?」
「……いや、可愛い、です……けど」
アリスの尋問が厳しい。
いつの間にか、僕は、正座をさせられていた。
「ばか、うわきもの、女たらし、すけべ、……まぁ、いいわ。ちゃんと夜までには帰ってきてね。今日も、戦いが待っているのだから」
「よ、夜って……、だから、そういうんじゃ!」
「ふんっ! せいぜい、ツボや絵画を売りつけられないように気をつけなさい。あぁ、宗教勧誘もあったわね」
アリスは言うだけ言うと、またベッドにモゾモゾと潜り込んだ。
はぁ……、帰りにケーキでも買ってきてあげよう……。