人魚姫2
目を開けると、そこは自分の部屋だった。
「間一髪、戻ってこれたみたいだな。アリス、怪我はないかい?」
「ええ、なんとかね。それにしても、まんまと人魚姫の思惑通りになってしまったわね。気付いていたのでしょう? 人魚姫は、自分の世界では、私たちを殺すつもりがなかったって」
「何となくね、うまく誘導されてるっていうか、後一つで『乙女の童話』が揃う割には、甘い手ばかりだった。そこで、隙を狙ったんだけど……、まぁ、うまくはいかないよな。二戦目の相手にしては、少しシビアだよ。今からでも相手を変えられないのかい?」
僕は、そう提案し、アリスを見て……、固まる。
「それは無理よ。バッチリ、リンクを繋げられているもの。……って、アナタ、人の胸を見るときは少しは遠慮しなさいよ。私だって恥ずかし……、ぎゃあ!」
アリスが着ている水着のトップが外れ、ポロリしていたのだ。
ざんね……、幸いにも、アリスの髪の毛で肝心な部分は隠れている。
だが、控え目ながらよい形だ!
僕は、それは口に出さず、心の中でだけ賞賛する事にした。
顔を真っ赤にして胸を両手で隠すアリスは、たいへん趣があってよい。
「いつまで……、みてんのよー!!」
次の瞬間、僕の視界に映ったのは、アリスの足の裏だった。
そして、頭の中に星が散り、僕の世界は暗転した。
ぺちぺちと頬を叩かれる感覚に目を覚ます。
目の前にはいつものドレスを身に纏ったアリスがいた。
「さぁ、おふざけはおしまいよ。ここからは真面目に作戦を立てましょう。……なに残念そうな顔してるのよ、スケベ」
「ご、誤解だよ。ふぅ、そうだな……、人魚姫は、アリスの世界とリンクを繋いだんだよね? と言うことは、向こうから仕掛けてくるってことかい?」
「そういう事ね。でもわからないのが、どう考えても人魚姫にとって不利な状態で戦う羽目になるって事よ。人魚姫はあの通り、特別な性質を持っているから、水場では敵無しでしょうが、陸地では本来の力を発揮できない。まだ何か手を隠していると考えて良いわ」
問題はその手がなにかだ。
人魚姫は自分の世界で僕らをあっさり見逃した。
「もぐもぐ」
その割にはリンクを繋げ、僕らの逃げ道を断ってきた。
つまり、アリスの世界でも、問題なく僕らを葬れると考えていると言うことだ。
「もぐもぐ」
一体、人魚姫は何を隠して……、
「アリス、真面目に考えてるかい?」
ケーキを口いっぱいに頬張りながら、難しそうな顔をしているアリス。
考えている振りじゃないのだろうか……?
「んぐっ、しふれひね、もぐもぐ、ひゃんとはんはえて……」
「わかった、わかったから、飲み込んでから喋ってくれ」
「んっ……、はぁ、美味しい。ちゃんと考えているわ。人魚姫が私の世界でも、自分の力を発揮できる方法があるのよ。なんらかの方法で水場を作り出す。そんなことができれば、私たちは逃げようがないし、そこでお終いよ」
アリスは、ぺろりと唇を舐めまわし、ため息を吐く。
「それは可能なのかい? 他人の世界には干渉できないって言ってたじゃないか」
僕は、アリスが赤ずきんの世界で言っていたことを思い出し、その疑問をぶつける。
「まぁ、そうなんだけど。よほどの犠牲を払えば、可能かもしれないわ。例えば、自分の喉を潰す、とかね」
人魚姫は声を失う代わりに足を手に入れた。
つまり、それと同じ様な事ができるってワケか。
ますます、自分たちが追い詰められている事を認識し、嫌な汗が出てくる。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。さすがにそこまではしないだろうし、干渉できたとしても短時間よ。その間さえ凌げれば、勝ちの目も見えるわ」
アリスは、そう言って僕に微笑みかける。
その笑顔に、僕は勇気づけられる。
「そっか、それなら……、アリスは時間稼ぎのできる特技とかってあるかな?」
「そうね、『芋虫の歌』とか『ドードー巡り』とか、割と得意分野ね。どれが通用するかわからないけど、全部ぶつければ問題ないわ」
アリスが胸を張って答える。
時間稼ぎについては問題なさそうだな。
そしたら……、
「次は時間稼ぎが終わった後、こちらの反撃についてだ。と言っても、水場さえなくなってしまったら脅威ではなくなるんだろう?」「そうね、でも、私の予想だと、その時点で相手は離脱するはずよ。それが今まで勝ち残ってきた秘訣ってやつかしら。まったく、大きな胸してやることはセコいわね」
胸の大きさは関係ないと思うのだが、黙っておこう。
「そうそう、そこで人魚姫が離脱さえしてくれれば、リンクが切れるから別の相手を探しましょ。無理に固執する必要はないわ」
「なるほど、確かにその方がよさそうだね。でも、意外だな。アリスのことだから徹底的に潰すわ、なんて言うかと思ったのに」
「アナタが、もう少し自制心のある人だったらそうするのだけど。鼻の下を伸ばしたまま勝てる相手ではないわ」
アリスの毒舌がチクチク刺さる。
大分、根に持たれているようだ。
「……ごめんよ、アリス。でも、僕は、君をパッドなしでも十分魅力的だと思うよ」
アリスが驚愕の表情を見せる。
あ、しまった、アリスはバレてないと思ってたん……、
「最低! ばか! おっぱい博士!」
アリスにクッションを顔面に投げつけられ視界が真っ暗になる。
そして、視界が開けたときにはアリスは消えていた。
僕はまた、余計なことを言ってしまったようだ。
乙女心って難しいな。
そんな事を考え、今日はもう休むことにした。
翌日、僕は、遅めの朝食を独りで取っていた。
時刻は正午をまわっていたので昼食といった方が正しいのだが。
ふと、瞬きをした拍子にアリスが目の前に現れた。
相変わらずのエプロンドレス姿で、表情は……、可愛らしい笑顔を浮かべている。
「お、おはよう、アリス。昨日は変なこと言ってごめん」
「おはよ。まったく、気付いてたのに知らない振りするなんて、ひどい人ね。女の子を辱めて喜ぶなんて、ろくな趣味じゃないわよ。……なんちゃって。アナタって本当に優しい人ね。その優しさに免じて許してあげる」
よくわからないが機嫌を直してくれたみたいだ。
「ありがとう。でも、魅力的だというのは本当だよ。僕には、アリス以上に魅力的な人なんて考えられないんだから」
口からスラスラと恥ずかしい台詞が零れる。自分で言ってて赤面してしまう。
「ふふっ、その言葉は、あのおっぱい姫と対峙した時の、アナタの様子を見てから信じることにするわ」
そう言って、アリスは僕の鼻先を指で弾いた。
そして、僕らは、アリスの世界に潜った。
緑色の平原に僕らは降り立ち、そこで人魚姫を待つことにした。
どこまでも透き通るような青空と柔らかな日差しに心が洗われるようだ。
だが、こんなにのどかな場所でこれから行われるのは命を賭けた戦いだ。
僕らは、今回のルールを確認する。
「人魚姫が、何らかの手を使い、アリスの世界に干渉する。その干渉している時間を逃げ切れば勝ちだ。勝利条件はこれくらいシンプルな方がいい。追い返す事だけを考えよう」
「それでいいわ、今回はこちらが追い詰められている、くらいの考えじゃないと、やられてしまいそうだもの。欲張りはしないわ」
考えは纏まった。後は、敵が来るのを待つだけなのだが……、
「アリスの世界って凄く広そうだけど、ここが全部、戦場になるのかい?」
ただ待ってるだけだと退屈なので、軽い疑問をアリスにぶつけてみた。
「一部だけよ、『拠点』と『領地』をワンセットとして『戦場』と呼ぶのだけど、私の場合は後ろに見える『カードのお城』が『拠点』ね。『領地』は今まさに立っている、この場所よ。戦闘が始まると、『拠点』と『領地』は複製され、別次元の世界となるの。だから、他の住民に迷惑かけることもないわ」
「なるほど、だから、他の住民を見かけないんだね。それなら、『拠点』と『領地』の違いってなんだい?」
「まずは『領地』なんだけど、これは通常、戦いを行う所って認識でいいわ。赤ずきんの森とか人魚姫の砂浜とかがこれね。そして、『拠点』なんだけど……。ま、まぁ、切り札みたいなものと認識して。例えば、赤ずきんの『おばあさんの家』よ。あそこでないと、赤ずきんはマスターに魔法をかけて人狼化させる、なんてことはできないの。そのための装置ってとこね」
一瞬、アリスが言い淀んでいたのが気になったが、だいたいは把握した。
「どうやらお出でになった様ね。お喋りはここまでよ」
そこには、人間の姿の人魚姫と、そのマスターらしき青年がたっていた。
人魚姫は、水色のきらびやかなドレスを着ていた。優雅な見た目とは裏腹に歩き方はたどたどしく、一歩歩くごとに苦悶の表情を浮かべている。
「はじめまして、僕は、彼女の主だ。君達を倒せば、いよいよ僕の願いが叶うんだ。そう言うわけだから、一つお手柔らかに頼むよ」
軽薄そうな笑顔を浮かべ、人魚姫の後ろに控えるように立つ青年が言う。
「そんなの知ったこっちゃないわ。それより、その子、とっても辛そうにしてるけど、肩の一つでも貸してあげないわけ?」
青年に対し、アリスが辛辣にものを言う。こんなに嫌悪感を丸出しにして、喋るアリスを見るのは初めてかもしれない。
「君は、面白いことを言うんだね。彼女は僕のためなら、何だってしてくれる。これくらい、大したことじゃないさ。君も『童話少女』ならわかるだろ?」
どこか小馬鹿にした様子で青年は、アリスに言う。
「ぜんっぜん、わからないんだけど。私のマスターがアンタみたいなろくでなしじゃなくてよかったわ」
「ははは、同じく。僕の『童話少女』が君みたいな欠陥品でなくてよかったよ。さぁ、人魚姫、このくだらない連中を終わらせて、僕の願いを叶えてくれ」
人魚姫は無言で頷き、懐から短剣を取り出した。
そして、それを自らの左手首に当て、思い切り引いた。
手首は深く裂け、吹きだす血がボタボタと地面に滴り落ち、染み込んでいく。
人魚姫は痛みに涙さえ浮かべながらも、その顔は笑っていた。
「どうして、そこまでして……」
「決まってるだろう? 彼女は僕のことを愛しているからだ。僕の喜びが彼女の喜び、僕の嘆きは彼女の嘆きだ。彼女にとって僕が全て! それが『童話少女』という存在だ!」
僕には青年が理解出来ない、いや、理解したくない。
例え、妄想から生み出された存在でも、こうやって、血や涙をながしている。
そんな彼女たちを都合のいい道具としか見てないなんて、胸糞悪い。
「アリス、こんな奴に負けたくない。絶対に生き残るぞ」
「当然よ、マスター。こんなボウヤの願いなんて、踏みにじってやりましょう」
人魚姫の血が染み込んだ大地から水があふれ出す。
それはやがて、僕らを囲う様に水の壁を作り、人魚姫の世界を作り出した。
ここまでは、想定通り。
あとは、人魚姫の攻撃を凌ぎきり、時間切れを狙うだけだ。
人魚姫は立っているのがよほどつらいのか、その場にしゃがみこんだ。
アリスはそこにトゥイードルダムを撃ち込む。
火球は、人魚姫に向かって一直線に襲いかかる。
しかし、人魚姫の前に水の障壁が現れ、火球を飲み込み消失した。
人魚姫は喋る事ができないのか、声にださず唇だけを動かす。
ま、だ、よ、そう言っているのだろうか?
痛みに苦しむ表情と、どこか喜びを隠しきれない、そんな表情が入り混じっている。
人魚姫は短剣を振り上げ、自分の腿に突き刺す。
痛みに震え、涙を流す。
血は水に流れ出し、そこに人魚姫の目から零れた大粒の涙が混ざる。
すると、それはやがて龍のような形になり、水から飛び出してきた。
「いいぞ、そのまま飲み込んでしまえ!」
泡に包まれ、守られている青年が、吠える。
水龍は、アリス目掛けて襲いかかる。
そこでアリスは、
「ドードー鳥! 遊んであげなさい!」
そう言って、指を鳴らすと、ずんぐりとした、羽根の小さな鳥がポワン、という間の抜けた音と共に現れ、水の壁に沿ってぐるぐる回りだした。
水龍は、それに引き寄せられるかのように、その後ろをぐるぐる回りだす。
「チッ、なにやってんだよ……。人魚姫、もう一匹だすんだ!」
その言葉に、身体をビクリとさせる人魚姫。
首を小さく横に振りつつも、短剣を振り上げ、さっきと反対側の腿に突き刺した。
見ているだけで、心が痛む。
本当にあの青年は何も感じないのだろうか?
人魚姫は青白い顔をしながら、うっすらと笑っている。
あ、と、す、こ、し、と唇だけを動かして……。
どういう意味だ?
「馬鹿ッ!! 何ぼさっとしてるのよ!?」
アリスの声で、我に返る。
目の前には、人魚姫の生み出した水龍が迫っていた。
しまっ……、避け……。
僕は、横から弾き飛ばされ、水しぶきをあげて倒れ込む。
「助かった……。すまない、アリ……!!」
そこには水龍に呑み込まれ、その体の中で、もがき苦しむアリスがいた。
「あっはっは、結局はそういうことだ。『童話少女』は僕らの代わりに傷つき、苦しむ、都合のいい存在なのさ。ソイツだって、自分の意思とは関係なしに、君を庇って喰われちまったじゃないか。よくやったぞ、人魚姫。あとは、アリスが溺れ苦しむ様を観賞してよう」
青年は、愉快そうに腹を抱えて笑う。
クソッ! ふざけたことばかりいいやがって。
アリスの口から大きな泡が零れ、手足から力が抜ける。
僕は、大きく息を吸い込むと、アリスを呑み込んだ水龍に飛び込んだ。
(アリス、今助けるからな!)
僕は、アリスの手を掴むと水龍の外に出ようとした。
しかし、入るときはすんなり入り込めたのに、水面は滑るように僕の体をはじき、決して逃がそうとしない。
マズい、このままではアリスが死んでしまう。
僕は、アリスと唇を重ね、自分の肺の中の空気を流し込んだ。
ピクリとアリスが動き、その手に再び力が宿る。
よかった、だが、僕の方は限界らしい。
アリス、僕の愛しいアリス。
せめて君は何とか抜け出して……。
唇に柔らかい感触があたり、僕に空気が注がれる。
目を開くと、アリスと目があった。
アリスは、微笑み、愛おしそうに僕の頬を撫でる。
バカね、せっかく助けたのに、意味がないじゃない。
きっとアリスはそう思っているのだろう。
次第にその笑顔が薄れていく。
意味はあったさ……、最後にその笑顔を見れたんだから……。
そして、僕の意識は、バチャッ、という音と地面に叩きつけられる衝撃で覚醒した。
「ガハッ、ゲホゲホッ……。た、助かったのか? 大丈夫か、アリス!」
「なんとか、ね……。まったく、アナタも無茶なことするわね」
肩で息をしながらも、アリスは無事のようだ。
「チッ、時間切れか。なにやってんだよ、ッとに! もういい、帰るぞ、人魚姫。後で罰を与えてやる」
青年は忌々しそうな顔をしながら、人魚姫に手をかける。
そして、人魚姫は青年に抱きついた。
「ガハッ……、は? なんだこれ」
青年は口から血を吐き出し、人魚姫にから離れる。
そして、地面に尻餅をつき、自分の胸に手を当てる。
その胸にみるみる血がひろがっていく。
人魚姫は這って、青年に近づき、血に塗れた短剣を振り下ろす。
僕らは唖然としてその光景を眺めていた。
「なん……、なぜ……」
青年はパクパクと口を動かし、声にならない声をあげる。
膨大な魔力の渦が人魚姫を取り巻き、本来の姿に戻す。
「ずっと、ずっと、ずぅっと! この時を、待ってた」
人魚姫は涙を流し、声を上げ笑う。
「私は、こんな姿になる前から貴方のことが憎かった! そうよ! ずっと殺してやりたかったのよ! 私の気持ちをいつも踏みにじって! 都合のいい時だけ、利用して! やった、やったわ……これで、私は自由になれる」
青年の瞳にはもう何も映ってなかった。
「なんてこと……、そんなことをしたらアナタの世界は……」
アリスは、辛そうな表情で人魚姫を見る。
「心配してくれなくても大丈夫よ、アリス。全てはこの日の為。私にはもうあの世界はいらない。だって、貴女を殺せば、私の願いが叶うんですもの。そしたら、全て忘れてやり直すの!」
僕らの周囲を再び、水が埋め尽くす。
いや、先程の比ではない。
アリスの世界が丸ごと、人魚姫の世界に成り代わったようだ。
水面が波打ち、吹雪が舞う。
「貴女たちも憎らしいわ。そんなにお互いを信頼して、助け合って……! なのに、どうして、どうしてあの人はっ……!」
空気中の水が集まり、鋭い氷の刃になる。
それが人魚姫の憎悪の言葉と共に、アリスに襲いかかる。
アリスはすんでの所でかわすが、水を吸ったドレスは重く、思うようには動けない。
アリスは地面に刺さった氷の刃を引き抜き、ドレスのスカート部分を切り裂いた。
超ミニのスカートになってしまったが、多少は動きやすくなったようだ。
「アリス、今度はどの位逃げ続ければいいんだ!?」
「……残念だけど、時間切れは期待しないほうがいいわね。あの短剣は王子様の血を吸うことで人魚姫を元の姿に戻す呪具。それを正しく使用したのだから、今の人魚姫は自分の世界にいるのと同じよ。しかも、手を抜いていない状態でね。まさか、自分の世界で私たちにトドメを刺さなかったのは、自分のマスターを殺す為だったなんてね……」
「そうよ、その為に今まで耐えてきたのですから。どんな命令にも逆らわずに、油断させて……。だから、あの人の最後の顔は何よりも甘美でした。エクスタシーを感じるほどに……」
恍惚の表情を浮かべる人魚姫。
だが、彼女は気付いていないのだろうか? その瞳から、涙が零れ続けていることに。
アリスは、効果的な攻撃手段を見いだせないまま、追い詰められていく。
クソッ、何か考えるんだ!
この状況を変える手を……。
「はぁ、そろそろ八つ当たりにも飽きてきました。貴女たちには感謝しています。なので、安らかに眠って頂くとしましょうか。安心してください、きっと貴女たちの分まで幸せになりますから」
人魚姫は微笑みを浮かべると両手を前に突き出した。
すると、僕らの足元の水が凍りつき、身体の自由を奪う。
「クッ、アリス、トゥイードルダムをッ!」
アリスは僕の声に反応して、足下に火球を撃ち込む。
しかし、氷は溶けることなく、その範囲を広げてくる。
「無駄よ、そんなもので溶かせるものですか」
人魚姫はゆっくり、蛇のようにアリスに近づく。
アリスは人魚姫に火球を撃つが、全て防がれてしまう。
すでに腰の辺りまで凍りつき、身動きがとれない。
「タツヤ、私が何をしても……、決して嫌いにならない?」
不意に僕の名前を出したアリスは、躊躇いがちに僕に問いかける。
「アリス? ……もちろんだ。例え何があろうと僕の心は君のものだ」
僕らの会話に、人魚姫が歩みを止める。
すると、人魚姫はアリスではなく、僕に近づき、その身を絡ませてきた。
「ねぇ、貴方の命は助けてあげても構いませんよ? ただ一言、アリスを殺せ、と言ってくれたらね」
人魚姫は柔らかなふくらみを押し当て、慈愛に満ちた瞳で、僕を見つめる。
だが、僕は……、
「君は、とてもかわいそうだ」
そう、切り捨てた。
途端に、人魚姫はその瞳に憎しみを宿し、その手に氷の刃を作り出し、僕の肩を刺しえぐった。
激痛に、悲鳴が漏れる。
アリスが僕の名を叫ぶ。
「かわいそう? 貴方に何がわかるの!? 私が今までどんな思いをしてきたか! なんで、なんで、なんで私には誰も愛をくれないの!? 憎い、憎い、憎いッ! ふふふ、あははは……。アリス、今から貴女のマスターをズタズタに引き裂いてあげる。貴女はその悲鳴を聞きながら氷漬けになるの。いい考えでしょう?」
「いいえ、そんなことはさせないわ」
アリスが虚空を両手で引き裂く動作をすると、そこから一枚の大きな鏡が現れる。
その鏡に触れると、アリスは掻き消えるようにいなくなった。
「あははは、貴方の大好きなアリスは貴方を置いて逃げたわよ。貴方ってとってもかわいそうな人!」
人魚姫はえぐった僕の肩に指を差し入れてくる。
僕は、歯を食いしばるが、苦痛に声が漏れる。
その時、眩い光を伴って、鏡から再びアリスが現れた。
その姿はいつものエプロンドレス姿ではなく、純白のドレスに身を包み、頭には小さな白銀の王冠を乗せている。
アリスが出て来た鏡は、粉々に砕け散り、風に乗って消えた。
「マスターを放って置いて、自分はお色直しですか。大した忠誠心ですね」
「忠誠心? そんなものある訳ないわ。私たちにあるのは誰にも負けない信頼関係よ」
不遜な態度でアリスは人魚姫を睨み付ける。
「ははは……、そこは『愛』って言ってほしいな」
「その様子なら大丈夫みたいね。そこのメンヘラ無駄乳女! 私が相手になってあげるわ」
「だ、だれがメンヘラですって……!? 私がこんなに苦しんでるのにッ!」
人魚姫は、アリスに無数の氷の刃を飛ばす。
アリスはそれを撫でるように、ただの霧に変えた。
「それがメンヘラだって言うのよ。悲劇のヒロインに酔ってるから、愛しの王子様に見向きもされなかったんでしょ? 尽くしていればいつか振り向いてもらえる、なんて思ってた? ハッキリ言って、有り得ないわ。その上、想いが届かないからって逆恨みとか……、ふんっ、馬鹿丸出しね」
純白に似合わぬ毒舌振りに、人魚姫はおろか、僕まで固まってしまう。
「そんなに……、苦しみ抜いて……、死にたいのですか……」
人魚姫は唇を噛み締めて、言葉を絞り出す。
「あら、図星みたいね。可哀想なアタシ、誰にも相手にされないの、シクシク、ああ、本当に哀れだわ、笑える」
アリスは悪人のような笑顔で人魚姫を罵る。
「アアアアアアアアア!!」
人魚姫は絶叫しながら、アリスの四方八方に巨大な氷塊を作り出し、アリスを押しつぶそうとする。
それをまた、アリスは事も無げにただの霧に変える。
「そういうの、馬鹿の一つ覚えって言うんだけど。その無駄乳に栄養素取られて、脳みそまでまわらなかった? て言うか、氷って……、アタシの心は凍り付いているのよ、とか言うつもり? ギャグかっつーの! あー、本当に寒いわ」
アリスの罵倒のマシンガンは止まらない。
とうとう、人魚姫は泣き崩れ、周りの氷は全て水になる。
僕は、ようやく自由になり、アリスの元に駆け寄る。
「ア、アリス……、君は……」
「説教は後! ごめんね、肩痛いだろうけど、我慢して」
そう言ってアリスは僕の手を取り、輪を描くように踊り出す。
負傷しているのと逆の方の手を引かれているとは言え、鈍い痛みが走る。
地面からは水が引き、人魚姫の周りに集まっていた。
「死ね……、みんな死んでしまえ。嫌い、大嫌い、あの人も、オマエも! みんな、憎いッ!! 全て流されてしまえ!!」
人魚姫の『後悔の海』が発動する。
視界を覆い尽くす、一面の水の壁に逃げ場はない。
「人魚姫、復讐に溺れ、自分の本当の想いを見失ってしまった可哀想な子。私がアナタの想いをもう一度、思い出させてあげる。『遡行・名無しの森』! 彼女に道を示しなさい!」
アリスが僕と描いていた魔法陣『名無しの森』に、アリスの身に着けていた白銀の王冠が吸い込まれる。
すると、眩い白光が辺りを包んだ。
いくつもの光景が僕の脳裏に過ぎる。
走馬燈とはこんな感じなのだろうか。
過ぎ去っていく場面、その一つにアリスと同じ顔をした少女がいた。
心臓が高鳴り、頭が割れるように痛む。
そう、これは確か十年前の事だ。
記憶を拾い上げようと手を伸ばすが掴めず、さらに遡行していく。
アリスをさらに幼くした少女の顔が映る。
僕と仲がよかった女の子。
僕がずっと片思いしていた女の子。
その子が全てアリスと繋がる。
もう少し、もう少しでハッキリと……。
「タツヤ、駄目よ! 戻ってこれなくなる!」
ふわふわとした感触に包まれ僕の意識は引き戻された。
柔らかくて、いい匂いがする。
体を起こすと、いつものエプロンドレス姿のアリスがいた。
僕はアリスに抱きしめられていたようだ。
「アリス……僕は君を……、ッ! そうだ、こうしてる場合じゃ」
ハッとして、人魚姫の方を見ると、『後悔の海』は消失し、頭を抱える人魚姫だけがそこにいた。
「あ、あ、あ、やだ、こんな、嘘よ……。なんで、こんなに愛してたのに、私は、ワタシは! ただ、あの人が笑っていてくれるだけでよかったの。あの人が幸せならそれで……、なのに、なのに……。いやぁああああああああ!!」
人魚姫は、絶叫し、地面をかきむしる。
爪が剥がれ、血が滲んでも止めようとはしない。
アリスはそれを辛そうに見ている。人魚姫の心を暴いた罪悪感に苛まれているのだろうか。
震える手で、双銃を構えるが、引き金を引くことができない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。……生まれ変わったら、また友達に、なんて図々しい願いですよね。こんな事で償いになんてならないかもしれませんが、許してください、私の、大好きな貴方……」
人魚姫はそう言うと、自らのマスターの命を奪った短剣を取り出す。
そして、それを自分の喉に突き刺し、自らの命を絶った。
人魚姫の亡骸は、やがて泡になり、一冊の本だけが残る。
その本の深い青色は、人魚姫の後悔の涙の色に似ていた。
アリスはそれを大事そうに拾い上げると、胸の中で抱きしめた。
「私は、戦いの結果、相手を殺す事になっても後悔はしないわ。そういうゲームだしね。でも、これは……、少し、自分が嫌になったわ」
アリスがうなだれ、その肩が小さく震える。
僕は、アリスを後ろから抱きしめた。
「それでも、僕は、君のことを決して嫌いになったりしないよ」
世界は歪み、色褪せてくる。
僕は、アリスの事を昔から知っていた。
なぜ、記憶から消失していたのか。
十年前に何があったのか。
アリス、君はもしかして、全てしっているんじゃないのか。
知りたい、でも怖い。
それを知ってしまったら、この腕の中のアリスが消えてしまいそうで。
迷いを抱えたまま、僕の意識は世界と共に溶けた。