シンデレラ1
今朝は、朝早くに目が覚めたのだが、何もする気になれず、結局僕は、昼過ぎまでベッドの上に転がっていた。
アリスは、何をしているだろうか……。
そんな事を考えていた矢先、真横に気配を感じた。
はっとして、身体を起こすと、ショートカットになったアリスが、何か言いたげに僕を見ていた。
ざんばらに切られていた髪は、キチンと整えられており、ショートボブの髪型になっていた。
トレードマークのリボンカチューシャは外され、片側の生え際にハートを象ったヘアピンが留められている。
ゆったりめのニットワンピ――濃い紫と薄い紫のボーダーが入っていて、お尻の方に同様の尻尾があしらってある――を着て、その下には黒のレギンスを履いている。
髪の長かった頃と比べると、少し大人びた印象を受ける。
――そして、何より、可愛い!
「そんなにまじまじと見てないでさ、何か言ってよ……」
アリスは、口をとがらせ斜め下に視線を落とす。
「可愛い、すごく可愛い! 似合ってる、超絶可愛い!」
もはや、日本語としての体をなしていないが、感情の爆発とはこんなものである。
そうか、これが『萌える』ということなのか。
「な、な、な……、なによ、そんなに可愛いを連呼して! 本気で言って――って、そのだらしない顔見れば本気で言ってるのはわかるけど……」
アリスは、頬を赤く染めながら、視線を落ち着きなく泳がす。
「その髪はどうしたんだい? まさか、自分で?」
僕は、にやける頬を抑えながら、素朴な疑問をアリスにぶつける。
「友達……に切って貰ったのよ。それに、髪留めまでプレゼントしてもらっちゃった」
アリスは、銀色に光るハートの髪留めにそっと手をふれる。
「それって……、まさか、ハートの女王?」
「……当たりよ。もっと気難しい人かと思ってたけど、髪のこと気にかけてくれてね。……すごく優しくしてくれた。ハートの女王だけじゃないわ。話の長い芋虫も、チェシャ猫も、白うさぎも……、あの帽子屋はいけ好かない奴だけど、みんな優しい。――そう、この世界とは違ってね。タツヤ、アナタに大事な話をしなければいけないの」
アリスは、改まって僕を見つめる。
その顔に、先程までの弛緩した空気は感じられない。
「何……、かな?」
「私の…………、『西園寺杏里沙』の話。私が眠り続けているって話は前に話したよね。十年間ずっと……。その十年間、病室のベッドの上で、ずっと呪いの言葉を浴びせられてきたわ……。『早く、死ね』、『お前さえ死ねば』、『どうしてまだ生きている』、『死ね、死ね、死ね』、……そんな言葉をね……」
アリスは自分の両肩を抱き、震える。
「誰がそんな……、なんで、なんでそこまで君の死を願う!?」
「私の……両親が死んで、私は祖母に引き取られたの。祖母は名家の出でね、……金銭面で私が不自由した事はなかったわ。遠慮したら、逆に怒られたくらい。『杏里沙、子どもが遠慮なんてするもんじゃない。……それにあなたは、私の宝物よ』って、いつも私の髪を撫でながら言ってくれていた……」
アリスは、少し寂しそうな表情を浮かべ、自分の首筋に手をやる。
「高校に入学する少し前に、祖母は亡くなったわ。祖母には、私の母の他にも、子がいたのだけれど、あまり仲が良くないみたいでね。私が彼らの顔を見たのは、正月と祖母の葬式くらいなものね。――そして、遺産は分配されたのだけれど、祖母は遺言書を書いていて、私に、祖母の家と、それを守っていくだけの十分な財産を残してくれたの。叔父や叔母の相続分も決して少ないとは言えなかったわ。――でも、きっとそれじゃ満足出来なかったんでしょうね。急に手のひらをかえしたように、私を引き取るって話をしだしたわ。私の両親が死んだときは、『一緒に死んでいれば良かったのに……』、とまで言っていた癖にね。――あぁ……、直接言われたわけじゃないわよ? ……眠っているとでも思っていたのでしょう。――当然、私はその申し出を拒否した。もっとも、ストレートには言わなったけどね。学校を変えたくないとか、この街が好きだとか、色々理由をつけてね。……ふふっ、あの時の叔母さんの顔、今でも覚えているわ」
アリスの――『西園寺杏里沙』の物語が僕の中に流れ込んでくる。
醜い争い、汚い大人の世界、そんな物に嫌気がさしてくる。
「悪いことばかりではなかったわ。私の……、初恋のお兄ちゃん――十歳上の私のいとこ、まぁ……、叔母さんの息子なんだけどね。その人が、私のわがままを聞いてくれて、何とか今まで通りの暮らしを続ける事ができたの」
僕は、『初恋』という言葉に胸がチクッとした。
『西園寺杏里沙』の想い人は、僕ではなかったのか……。
「アリスは、もしかして、またその人に会いたいから、必死に戦っている……とか?」
――だとしても、僕は、君が幸せになれるなら……。
「それは……、会えるものなら会いたいわ……。でもね……、死んじゃったら……、もう……、会えないよ…………」
アリスの両目から、大粒の涙がポロポロと零れ出す。
「そう……、だったのか……」
僕は、それだけ言うのがやっとだった。
嫉妬心と劣等感が僕を苛む。
――そして……、止めろ!
僕は、そんな事は思っていない!
頼むから、『死んでてよかったじゃないか』なんて言うな!
「タツヤ……、ごめんなさい。急に、ビックリしちゃったよね。全ては、十年前の、あの忌まわしい事件が引き起こした事。私が、お兄ちゃんとアナタを巻き込んでしまった。……お兄ちゃんは私をかばって、犯人に殺され、私とアナタは大怪我を負ったわ。――私が探偵ごっこなんてしてなければッ! …………結果として、私は意識を取り戻さないまま、眠り続けて、アナタは快復した。そして、私は『童話少女』となり、アナタにすがり、過去の改竄という願いを託して、この『童話戦争』に参加した……。今になって思えば、ずいぶん虫のいい話よね。だって、アナタには何のメリットもないのよ? それでも、黙って頷いてくれた……。タツヤには、本当に感謝してもしきれないわ……」
「僕は……、そんな……。でも……、負けてしまったんだろう?」
――頭がズキンと痛む。
当時の僕は、何を想っていたのだろうか。
純粋に、杏里沙の力になりたかったのだろうか?
それとも、僕に振り向いてくれることを期待していたのだろうか……。
――そんな事すら思い出せない。
「そう……ね……。そして、私は病院のベッドの上で、『意識のあるまま』、十年間眠り続けた。ある時は、息子の死の原因を作ったとして、死を願われ……。またある時は、無駄に財産を腐らせていると、死を願われる……。でもね……、そんな事はもう、どうでもよくなったの。――十年間も、聞かされ続けていれば、何も感じなくなるわ」
アリスは自嘲気味に笑う。
――嘘だ、アリスはずっと傷ついてきた。
だから、こんな世界に嫌気がさしていたんだろう?
他人に死を願われ続けたあまり、それが自分の願いであるかのように、勘違いしてしまったのではないか?
「――だから、君は自らの死を選択するのか? ――なんとなく、わかっていた。願いの話題になると歯切れの悪くなる所とか、一緒にはいられないと言った事、そして、『童話少女』としての記憶を失って目覚めるか、安らかな死かの二択しか選べない事。――そう、そんなもの二択ですらないはずだ。わざわざ、二番目の選択肢を口にした時点で、そっちを選ぶ気があると言っているようなものだ。アリス――いや、杏里沙、君は間違っているよ……。君の世界は、ちっぽけな病室の中だけじゃない。僕が、必ず、君にもっと美しい世界を見せる。だから……、だから――」
「タツヤ……、大事なのはね、十年も経ってしまったという事なの。『童話少女』としての記憶を失うという事は、十年間、『童話少女』だった私は、十年間の記憶を丸々失うのよ……。目が覚めたら、身体は二十五歳、心は十五歳? それだけでも気が狂いそうになるのに、私の大好きな人は死んでいて、その原因が私にあることも思い出すのよ! タツヤだって願いが叶った後、この『童話戦争』の記憶を失う。私の事もね……。正真正銘、私はひとりぼっち。絶望の中で生きていくしかない。そんなの……嫌……。怖くて怖くて堪らないの! だから……、私を……、死なせてください……」
杏里沙は俯いたままで、僕に懇願する。
「そん……な、そんな事……、言われたって……! 僕は、なんて言えばいいんだよ! 君がいなきゃ、僕は……、僕は……! ――今、この瞬間の想いすら、消えてしまうのか……? だったら、僕は……、何のために……」
――赤ずきんを刺し殺した? 人魚姫を死に追いやった? 白雪姫の首を撥ねた? ヘンゼル――奈々実を串刺しにした?
――全て、『杏里沙』を救うために、『アリス』に僕自身がやらせてきたことだ。
彼女たちを踏み台にした、その意味は、どうなる?
生きたいという希望を踏みにじって、死にたいという希望を叶えるのか?
こんな……、もう……、わからない!
勝っても、目覚めた杏里沙に残るのは喪失感と罪悪感、そして絶望……。
……それでも、負けてしまえば、杏里沙は一生、意識のあるまま植物状態――死を願われ続けて、死にたいのに死ねない、そんな一生を送ることになる。
どうやったって、僕の願うように、杏里沙を救うことが出来ない。
――だったら、いっそ――
僕は、杏里沙をベッドに引きずり倒す。
たいした抵抗もないまま、杏里沙はベッドの上に仰向けになる。
僕は、その上に、馬乗りになって、白く細い、その首に手を掛ける。
「今の君にはこうやって、触れられる肉体がある。このまま戦いを放棄して、僕と暮らすことは可能か?」
「不可能よ。アナタが眠れば、他の『童話少女』が仕掛けてくる。それは意識を失っても一緒よ」
杏里沙の瞳には何の感情も映らない。
「それなら……」
僕は、両手に力を込める。
杏里沙は短く喘いで、顔を歪める。
「このまま、君を殺したらどうなる? もしかしたら、君はそのまま死ねるかもしれない」
「だった……ら、いいん……だけど……ね……。り、リタイアは、まけ……よ……。この、肉体……は、消滅して……、けっ、結局……、病院の……ベッドの……うえ……」
僕は、両手を杏里沙の首から離す。
胸の奥からこみ上げてくる感情に、僕は、叫び、慟哭した。
杏里沙はそんな僕を優しく抱きしめる。
「どうすればいい! こんなんじゃ、僕は、戦えない! 君を死なせたくなんかない! でも、君が苦しむのはもっと嫌だ! わからない、どうしたらいいか、わからないよ!」
僕は、杏里沙のその胸に泣きすがる。
「ごめん……なさい。アナタにはいつも迷惑を掛けてきた。アナタの心を傷つけて、裏切って……、そんな私に、こんな事言う資格はないのはわかっているけど……。タツヤ、私はアナタのことが大好きよ。アナタと過ごしたこの一週間、とても楽しかった。生きてるって、こういう事を言うんだって……。不謹慎かもしれないけど、それが私の本心だから。そう、だから……、この楽しい思い出を抱いたまま、眠らせてほしいの……」
僕は、嗚咽が止まらない。
杏里沙の胸から伝わる鼓動は確かに脈打っているのに、幻だなんて……、消えてしまうなんて……。
――――でも、僕は、決めた。
「……杏里沙、まだ、それは早いだろ? 僕らは、あと二冊、手に入れなきゃいけないんだ。勝った気でいると、足元を救われるぞ?」
むちゃくちゃな笑顔を貼り付けて、僕は、涙を流しながら、杏里沙に微笑む。
――強がりだって構わない。今は立ち上がらなければ始まらないから。
「ありがとう……、タツヤ。あの……ね……」
杏里沙は、僕をギュッと強く抱きしめる――心臓の鼓動が直接伝わってくるくらいに……。
「私、こんな事くらいしかできないけど……、いいよ……。アナタの好きにしても……。私の最初で最後……、アナタだけのものにして……」
その声は、僅かに震え、杏里沙の心臓は、壊れそうなくらいに激しく脈を打っている。
僕は、そっと身体を起こし、杏里沙を見つめる。
杏里沙の濡れた瞳が、朱に染まる頬が、唇から覗く白い歯が、僕の目を捕らえて離さない。
僕の顔が、杏里沙の顔に引き寄せられる。
杏里沙はそっと瞳を閉じ、僕は……………………、その額にキスをした。
「杏里沙、ごめん……。君と結ばれてしまったら、きっと僕は……、君を手放せなくなってしまう……」
僕は、杏里沙の上からどき、その手を差し伸べる。
杏里沙は、儚げに微笑み、僕の手を取る。
その手を引き上げ、僕は、杏里沙を抱きしめた。
「二つ、お願いがある……。一つは、僕を……、騙してほしい。君は、勝ち残ったら目を覚ますのだと、そして……、その時は……、うん、さっきの続きをしよう。僕らは二人で幸せになるんだ」
「ええ……、わかった……。この先もずっと一緒よ。アナタが嫌だって言っても……、絶対に……、離したりなんか……、してやらないんだから……ッ!」
杏里沙は僕の胸に、顔を埋め、むせび泣く。
「そして……、もう一つ。今から、デートをしよう」
杏里沙は泣きはらし、真っ赤になった目を丸くさせて、僕を見上げる。
「――うん、いいよ!」
いつかの笑顔で、杏里沙は応えた。