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僕とアリスの童話戦争  作者: 海中海月
ヘンゼルとグレーテル
14/20

ヘンゼルとグレーテル3

 ここは……?

 視界が開け、見慣れない景色が広がる。

 そこは、甘い香りに包まれた、厨房の中だった。

「先輩! 小鳥遊先輩! もう、やっと起きた! 休憩時間終わってますよ。そろそろ、仕込みを始めないとお客さんに迷惑かけちゃいますよ!」

 エプロン姿の奈々枝が口を膨らませる。

「え? ああ、すまない……。なんか、頭がぼーっとして……」

 僕は確か……、何をしてたんだっけ……。

「先輩、大丈夫ですか? 熱でもあるのかな……?」

 そういうと奈々枝は、僕に顔を近づけ、額をくっつけた。

 奈々枝の髪がはらりと僕の頬を撫で、整った顔が目の前に広がり、鼻先が触れそうになる。

 僕の心拍数は上昇し、呼吸が短くなる。

「あれ? なんだか、だんだん熱くなって――」

「……お姉ちゃんの目の前で、なにイチャコラしてるの! さぁ、離れた離れた!」

 奈々枝の姉、奈々実が僕を奈々枝から引き剥がす。

 奈々枝を少し、ボーイッシュにした容姿の奈々実は、奈々枝とお揃いのエプロンを身に付けていた。

「お、お、お姉ちゃん!? イチャコラなんてしてないよ! 私は先輩に熱があるといけないから……」

「『先輩に熱がある』のは奈々枝ちゃんでしょ! まったく、こんなのの何処が良いんだか!」

 奈々実は腕を組んでジロリと僕を睨む。

「いや、すまない奈々実。なんかヘンだな、記憶が混乱しているみたいだ……」

――甘ったるい匂いが鼻につく。

「むっ……。ぐ、具合が悪いならちゃんと言ってよね。キミが倒れたら、このお店やっていけないんだから。あとっ! しれっとボクの名前を、呼び捨てにしない! さんをつけなさい、さんを! ……ボクは、まだキミの事認めた訳じゃないんだからね」

 奈々実は少し顔を赤くしながらそっぽを向く。

 その様子を見て、何故か頬を膨らませる奈々枝。

「そうか、僕は奈々枝の実家の店を手伝っていたんだったな」

 ようやく思い出した。

 奈々枝との約束を忘れていたなんていったら、何をされるか……。

「ほんとに大丈夫? もう少し休んでてもいいけど?」

 奈々実が心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。

 キリッとした顔立ちだが、所々に女性らしさが窺える。

 奈々実は、大きな鍋が煮立つ厨房に立っていたのか、じっとりと汗ばんでいた。

 思わず、僕の視線は奈々実の胸元に移り、薄手のブラウスから透けたオレンジ色のブラジャーに目が釘付けになる。

「人が心配してあげてるのに……、このスケベ!」

 奈々実は顔を真っ赤にして、胸を押さえる。

 抱き抱えられた二つの膨らみが、よりいっそう強調され、僕は、生唾を呑み込んだ。

「お姉ちゃん……、それ、わざとやっているのかな?」

 背中に冷たい物を感じる。

――まるで刃物を押し当てられているようだ。

「わーっ! 奈々枝ちゃん、包丁持ったままだよ! タツヤ君に刺さる刺さる!」

 比喩ではなく本当に押し当てられていた。

「きゃっ! ご、ごめんなさい、先輩。刺さらなかったですか?」

 奈々枝は慌てて――何故か僕の背中に、胸を押し当てる。

 柔らかな膨らみが、背中で押し広げられる。

「奈々枝ちゃん……? どうしてそういう行動に繋がるのかな……?」

 奈々実は笑顔でこめかみに青筋を立てる。

「えっ? だって、先輩の背中が切れてたら、大変だなって……。止血……?」

「切れてないし。そもそも胸で止血なんて聞いたことないよ! ああ……、別なところに血液を集めて、血を止めるアレかぁ。……って、下ネタじゃないの! うう、お姉ちゃんは悲しいよ……。奈々枝ちゃんがいつの間にか、そんな事するような子になっちゃったなんて……。全部、キミのせいだからね!」

 奈々枝も、奈々実も、なんだかんだで楽しそうにしている。

 僕もそれにつられて、自然と笑顔がこぼれる。

――今日も賑やかな一日になりそうだ。


「――っと、いけない! 予約のお客さんの料理、作っておかなきゃ。タツヤ君、悪いんだけど『アリス』出してくれる? そこの鳥籠の中に入ってるから」

 奈々実はテキパキと材料を刻みながら僕に指示する。

 巨大な鳥籠の中には、猿ぐつわを咬まされ、後ろ手に縛られている『アリス』がいた。

――やけに、甘ったるい匂いが鼻につく。

 いいけど、これをどうするつもりなんだ……?

「あー、いつものお客さん? 誕生日には、いつもうちの店で『アリス』の丸焼きを注文してくれるよね。この子、利益率いいんだよね~」

 奈々枝は、ホクホク顔でかまどに薪をくべている。

「そうそう、でも、ボクはどうも食べる気がしないって言うか、まずそう……って、お客さんに失礼か」

 奈々実は、ペロリと舌を出し、反省する。

「そうだよ、お姉ちゃん! こんな『アリス』みたいな、どうしようもないのでも、ちゃんと食べてくれるお客さんがいるんだから!」

 奈々枝は、『アリス』を汚らわしい物を見る目で見ている。

「ごめーん、奈々枝ちゃん。ほらタツヤ君、早く『アリス』を引っ張り出して。そのまま、かまどに放り込めばいいから!」

 僕は、奈々実に言われるままに、鳥籠の鍵を開き、中の『アリス』に手をかける。

 『アリス』は、縛られながらも抵抗し、ふがふがと鼻息を荒げている。

 ちょっとでも触れようものなら、暴れて手がつけられない。

「先輩、大丈夫ですか? これじゃあ、活きが良すぎますね。……絞めてからにしましょうか。どうせ、味に変わりはないですし」

 奈々枝は少し、考えるような仕草の後、ニッコリと微笑み、僕に提案した。

「ボクは、そのまま焼く方が好きなんだけどなぁ。悲鳴がいいスパイスになるんだよ」

 奈々実は、腕を組んで、一人で納得するように頷く。

「こんがりきつね色になるまで焼けば一緒だと思うんだけどなぁ。……やっぱり、お姉ちゃんの方が料理人気質だよね」

――さっきから、甘い匂いで頭が痛くなる。

「どうせ、奈々枝ちゃんは、『アリス』が暴れて、タツヤ君が怪我しないかが心配なだけなんでしょ。……知ってるんだから」

 奈々実はニヤニヤしながら、奈々枝を見る。

「も、もうっ、お姉ちゃんたら、そんな事ばかり言って……! 先輩、こんな意地悪なお姉ちゃんは放っておいて、ちゃちゃっと『アリス』を絞めちゃいましょ!」

 奈々枝は、照れ隠しからか、まな板を叩く音を響かせる。

「そう……、だな。早く、準備……しないと……」

 僕は、暴れる『アリス』の白い首に手をかける。

 手のひらから、『アリス』の力強い脈拍が伝わってくる。

 苦しそうに、顔を歪める『アリス』。

 僕は、なんだか可哀想になって、手を離してしまう。

 『アリス』は、崩れ落ち、涙をにじませ、咳き込む。

「ちょっとー? タツヤ君、どうしたの? いつもやってる事でしょ? しょうがないなぁ……、そこの包丁使っていいから、サクッとやっちゃいなさい、サクッと!」

 奈々実は、忙しそうに手を動かしながら言う。

 このままでは、櫻木姉妹に迷惑をかけてしまう。

 まったく、僕はどうしたというのだ。

 まるで、泥の中をもがきながら進むような思考に、歯がゆい思いをする。

 台の上に置いてあった包丁を手に取り、僕は再び、『アリス』と向かい合う。

 『アリス』は、僕をじっと見つめ、何も言わない。

「先輩。やりづらいんだったら、私が代わりにやりましょうか? なんだか今日は疲れてらっしゃるみたいですし」

 奈々枝は、心配そうな顔をして、僕の方を見ている。

「ぶー。奈々枝ちゃんは、すぐタツヤ君を甘やかすー! ますますダメ男になっちゃうぞー!」

 奈々実は、膨れっ面で抗議する。

「いや、大丈夫だ。僕がやるよ」

 僕は、包丁を握りしめ、『アリス』に近づく。

――甘い、甘い匂いで、僕は、何も、甘い、甘い、甘い、何も。

 『アリス』は、僕をじっと見ている。

――その瞳は、僕を信じている。

 僕は、包丁を振り上げ——自分の反対の手に振り下ろした。

 鋭い痛みに、うめき声が漏れ、ボタボタと鮮血が滴り落ちる。

 すると、僕らがいた厨房は溶けるように姿を変え、僕らは甘ったるい匂いの充満する、お菓子で作られた小屋の中に居たのだと気付く。

 それぞれが自分の役割に戻り、僕はアリスを縛る縄を掻き切った。

「助かったわ、タツヤ。私に食材役を割り当てるなんていい根性してるわね。――絶対にゆるさないんだから!」

 アリスは、怒りに燃える視線をヘンゼルに向ける。

「どうして? どうして、先輩は私の夢を拒絶するんですか? 私は、先輩とお姉ちゃんと一緒に楽しく暮らしたいだけなのに、どうして邪魔をするんですか? わからない、わからないよ……。先輩は私のこと嫌いなの? 嫌だ、そんなの嫌……。やだやだやだやだ……。…………先輩は、そこの魔女に悪い魔法をかけられているんですよね? 安心してください。その魔女を退治した後で、私が治してあげますから。たしか……、そうだ、全身の血を抜いて、キレイに洗うんです。そして、それを元に戻せば、解呪できる気がします。ええ、きっと……。うふふ……、待っててください。すぐに魔女を退治しちゃいますからね」

 もはや、奈々枝が見ているのは狂気の夢の世界なのだろう。

 奈々枝が手を振り上げると、飴細工が姿を変え、子どものような姿を複数、形作る。

 それらは、各々、手に武器を持ち、アリスに襲いかかる。

 アリスは、それを打ち砕かんとヴォーパルソードを横薙ぎにする。

 大剣は、飴細工の子どもたちを捉え――ぐにゃりと変形したそれに絡め捕られる。

「ぐっ、しまった……! 武器はフェイクね……」

 大剣を絡め捕ったまま硬質化した飴細工は、床にこびり付き、びくともしない。

 そうこうしているうちに、再び、飴細工の子どもが生成され、アリスに襲いかかる。

「くっ、タツヤ! いったん表にでるわよ!」

 大剣を手放し、アリスは扉を蹴破り、僕を先に逃がすと小屋を飛び出す。

 後を追うようにして、小屋から飴細工の子どもたちがわらわらと溢れ出してくる。

「もうっ、鬱陶しいわね! 『トゥイーダムディー』! 私たちの敵を薙払いなさい!」

 アリスは、取り出したつぎはぎだらけの銀色の卵——以前、アリスが使っていた双銃の胴体部分のようだ——を放り投げた。

 その卵は、光を放ち、機械人形へと姿を変える。

 咆哮を上げ、飴細工の子どもたちの前に立ちふさがった『トゥイーダムディー』は、『白雪姫』の世界でその役目を終えた、『トゥイードルダムとトゥイードルディー』の部品を接合して、作られているようだ。

 それは、楕円形のフォルムに、脚はなく、宙に浮いており、両手にはガラガラ鳴る棍棒を構えている。

 赤く発光する二つの瞳が敵を捉える。

 主人に仇をなす敵を、一歩も先には通さぬと、その背中は語っている。

 『トゥイーダムディー』は口から、炎と雷を吐き出し、飴細工を水飴のようにドロドロに溶かしていく。

 あたり一面に、焦げた飴の匂いが広がる。

 『トゥイーダムディー』は、さらに炎を吐き続け、最終的に水飴はグズグズの炭に成り果てた。

 胸をなで下ろした僕だが、ヘンゼルたちが小屋から出て来ていない事に気がついた。

「アリス、あの二人はどうしたんだろう?」

「……まさか! ――タツヤ、何が飛び出してくるかわからないけど、覚悟を決めておいて……。あの二人はパンドラの箱を開いたのかもしれないから」

 パンドラの箱って……、様々な災いが閉じ込められているっていう箱か……?

「アリス、それは一体――」

——瞬間、この夢の世界を満たすマナが『お菓子の家』に暴風を伴いながら集約し、そこから、世界の理を塗り替えていく。

 そこに、ルールなどなく、在るのは絶対の真理――世界の創造主に、抗う事など不可能だという事実のみ。

「「ようこそ、アリス。私たちの世界へ」」

 少しのズレもなく重なった声の中に、『奈々実と奈々枝』は居なかった。

 そこに居るのは、『ヘンゼルとグレーテル』――『堕ちた童話』の主人公だった。


「なん……、なんなんだ、アレ……」

 僕の目の前に立っているのは、ヘンゼルと奈々枝――の見た目をした別の存在だった。

 対峙しただけでも本能が死を告げる。

 例えるならば、大海原で、得体の知れない巨大生物が船の真下にいた様なもの。

――そう、これは物語だ。

 主人公が、悪い魔女をやっつけるよくある話。

 ただ、主人公が『ヘンゼルとグレーテル』で、悪い魔女が『僕とアリス』であるだけの話。

 物語は、悪い魔女を倒して、めでたしめでたしで、終わるだろう。

「『堕ちた童話』――まさか、本当に発動できる『童話少女』がいたなんてね……。彼女たちは禁忌を犯し、本当の童話になった。……私たちに出来ることは、せいぜい酷い殺され方をしないように祈るだけよ……」

 アリスは、諦観した面持ちでその場に立ち竦む。

「このお話にロボットなんて存在しちゃだめだよね、ヘンゼル?」

「そうだね、そんなの世界が許さないよ」

 クスクスと、笑う二人――直後、『トゥイーダムディー』はクシャクシャに圧縮され、この世界から消滅した。

 僕は、唖然として声がでない。

 彼女たちは、何もしていない。

――ただ一言、存在を否定しただけでそれを消し去ったのだ。

 それはまさに、世界の創造主のみに許された特権。

「キャハハ、すごいすごいー! くしゃってなって、消えちゃった!」

 幼子のようにヘンゼルと手を取り合って、はしゃぐグレーテル。

「ねえねえ、次はどっちにする?」

 ヘンゼルが残酷な笑みを浮かべ、僕らを品定めする。

 全身が総毛立ち、心臓が止まりそうになる。

――いや、いっそこのまま止まってくれた方がましだ……。

 身体の震えが止まらない。

 汗は全身から噴き出し続けている。

 瞳孔は限界まで開ききり、瞬きすら許さない。

「どうしたの、センパイ? 何かいいたい事があるなら聞いてあげるけど?」

 グレーテルが一瞬、奈々枝に戻り、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。

――考えろ、命乞いでもするか? ……一生服従を誓えば、命だけは助けてくれるかも。

 ああ、奈々枝が望むなら、僕は彼女だけを愛し…………、違うだろ?

 僕の、この命は何の為にある?

 偽りの愛を口にし、愛しい人を裏切り、無駄に生き長らえる為にあるのか?

――断じて、違う。

「僕は、お前なんか、大嫌いだ! 僕が……、僕が、愛しているのはアリスだけだ! アリス……、死ぬときは一緒だよ」

 僕の言葉は奈々枝――グレーテルの胸に突き刺さり、その頬を涙で濡らす。

「死ね……、お前なんか先輩じゃない! ただの偽者だ。醜く汚らわしい偽者! 死ね! この世界から消え失せろ!」

 グレーテルは、怒りにまかせて力を行使する。

 理性が働いていないせいか、照準が合わず、僕の真横の世界が、ごっそり消え去った。

 息を呑み、グレーテルの次の動作に注視する。

 これは、もしかすると、隙を作れたかもしれない。

 だが――

「ボクの大事な妹を泣かせたな……? 魔女の手先め……、磔にして、そのハラワタ、獣の餌にしてやる」

――その瞬間、僕の身体はお菓子で出来た磔台に固定されており、身動きが取れない状態になっていた。

「グレーテル、もう泣かないで。ボクがずっと傍にいるから。そうだ、おままごとしよう。結婚式の真似だよ。二人でケーキにナイフを入れるの。グリグリと切り開いて、中身をズルズル引きずり出すんだよ。それで、素敵な冠をつくってあげる!」

「ヘンゼル……。うん! それってとっても素敵!』

 ヘンゼルの言葉にすっかり機嫌をよくしたグレーテルは、刃こぼれが酷い、切れ味の悪そうなナイフを創り出し、笑顔でそれを弄ぶ。

「やっぱり、すぐに消したら勿体ないもんね。じっくり、じっくり、時間をかけて終わらせてあげる」

 愛すら感じ取れる笑顔で、僕にゆっくりと近づくグレーテル。

 アリスから興味を逸らしてくれたのがせめてもの救いだ。

 これで、死ぬより酷い目を見ることはない。

――少なくとも、僕は……。

「――タツヤ、アナタの覚悟、確かに受け取ったわ。……そして、ありがとう。私も、アナタが大好きよ」

 アリスの優しい声が耳に届く。

 首だけで、アリスの方を向くと、アリスは煤けた包丁――炭になった飴細工の中から拾い上げたのだろう――を振り上げていた。

「魔女……? ……上等よ、それならアナタたちのルールに従って、その上で、打ち負かしてやるわ」

――そして、自分の常闇のような美しい黒髪を、バッサリ切り払った。

 はらはらと舞い散る黒髪は、アリスを中心として渦を巻き、その身体を包み込む。

「なに? あれ……、すごく嫌な気配。あんなの私たちの世界にはいらないよね、ヘンゼル?」

「ああ、あんな恐ろしい怪物はボクらの世界にはいらない」

「「消えてしまえ!」」

 二人の声に呼応して、世界はアリスを除外しようとする。

――だが、世界の意思をもってしても消し去ることはできない。

「嘘……、なんで……?」

 グレーテルが、信じられないものを見るような目でアリスを見ている。

「それはね……、私が、アナタたちの世界に必要な存在――『魔女』だからよ」

 膨大な魔力をまとわりつかせ、漆黒のモーニングドレスを身にまとった『魔女』――アリスが身も凍るような笑みを張り付かせて、『ヘンゼルとグレーテル』の前に立ちふさがる。

「嘘だ……、嘘だ嘘だ、嘘だッ! 『不思議の国のアリス』に魔女の因子なんて存在しない! そんなデタラメ許されていいはずなんてない! お前は一体なんなんだ!」

 ヘンゼルは動揺を隠しきれず、引きつった顔でわめき散らす。

「わたし? ふふっ、あはは、あははははははははははははははははははははははははははははっ! 私は、『アリス』で、今は、『魔女』よ。――ほら、アナタたちの望む悪者よ? 知恵と勇気で倒して御覧なさいな。――もっとも、現実は物語ほど、甘くはないけどね」

 『魔女』に震えながらも、『ヘンゼルとグレーテル』は必死に立ち向かう。

 グレーテルは、ヘンゼルに呪文を重ね掛けし、その身体を極限まで強化する。

 俊敏さと強固さを兼ね備えたヘンゼルは、目に見えぬ速さで『魔女』に肉薄し、その心臓を抉り取る。

「あはっ、なによ……。口ばっかりじゃない! なにが『魔女』よ! 笑わせ――」

「あはは、本当に笑えるわね。……残念でした、さよなら、主人公さん」

 心臓を抉られたはずの『魔女』は霞となって消え、何事もなかったかのように、グレーテルの前に姿を現す。

 『魔女』が、指をひと鳴らしすると、無数の茨がグレーテルに襲いかかった。

 グレーテルは慌てて、魔法の防御壁を展開する。

――だが、茨はそれを紙のようにたやすく切り裂き、グレーテルに迫る。

「グレーテル! 危ないッ!!」

 そう言って、グレーテルを突き飛ばしたヘンゼルは――無数の茨によって串刺しになった。

 同時に僕を縛っていた戒めは解け、僕は、地面に叩きつけられる。

「だめね、グレーテル。……それは『魔女』から教わった魔法でしょ? そんなもので魔女の魔法を防げるわけないでしょうに。――はぁ……、それにしても、ヘンゼルもこんなになっちゃったら、食べようがないわね。――しょうがない、お前で我慢するか」

 ヘンゼルの血を浴び、うずくまり震えるグレーテル――奈々枝に、『魔女』は手を伸ばす。

 だめだ、こんなの……。

 このままじゃアリスは戻ってこれなくなる。

 僕は『魔女』に駆け寄り、その背中を抱きしめる。

「もういい……、もう、決着はついたんだ! お願いだ、アリス! 帰ってきてくれ!」

「アナタは何を言っているの? ちゃんと物語を終わらせなければ決着が着いたとは言わないわ。――ヘンゼルは茨に串刺しになり、グレーテルは魔女のおなかの中に収まりました。……めでたしめでたし」

 『魔女』は、耳まで避けそうなニタァとした笑顔を浮かべ、グレーテルを――

 僕は、『アリス』に口づけをした。

――途端に、魔法は解け、『魔女』は『アリス』に戻る。

「ヘンゼル……、どこ……、魔女が……、魔女が……。ヘンゼル……、お姉ちゃ……」

 うわごとを繰り返す、奈々枝を残したまま、世界は色を失い、消失した。


 現実に戻ってきた僕らは、何も言葉を交わさない。

 肩にかかるくらいまで、髪の短くなったアリスは、その手に抱えられた黄白色の本を胸に押し当て、取り込んだ。

「髪……、短くなっちゃった……」

 アリスは、僕と目を合わせずにひとりごちた。

「……どんなアリスでも、僕は好きだよ」

 俯いたままで、アリスはありがとう、と言う。

 アリスは、それっきり何も言わなかった。


 アリスは自分の世界に戻り、僕はひとり、部屋の天井を見つめていた。

 奈々枝は……、死にはしてないだろう。

 ただ、『童話少女』を失えば、その心はたやすく壊れてしまう。

 今も一人、暗い部屋の中で、姉の名を呼び続けているのだろうか。

――いや……、よそう。

 僕に、奈々枝の事を想う資格なんてない。

 アリスを――杏里沙を救う事だけを考えろ。

 ……残る『乙女の童話』は後二つ。

 それを手に入れるまでは、奈々枝の事は心に鍵をかけ仕舞っておく。

 後悔に浸る事など、僕には許されないのだから。

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